鏡界


 心地の良い水面に横たわっている、静かで凪いだその微睡みからゆっくりゆっくり岸に押し出されるように、乖離していた意識が表面まで浮き上がって来た。夢うつつ、どっちつかずの心地よい隙間から覚醒して、リドルはふっと真白い瞼を持ち上げた。

「……?」

 辺りは暗闇に包まれている。光源一つない完全な闇であったが、何故かリドルには周辺の様子が何一つ取りこぼしなく視えていた。どういう造りかは知らないが、日本式の大きな屋敷の一室に鎮座している。一室、といっても部屋を隔てる襖が全て取り去られている所為で、とてつもなく広大な面積を持っていた。加えて、その部屋には窓がなく、先程まで歩いていた回廊と同じように外と隣接している。
「っ、……!」
 嗚呼、待て、そうだ、回廊。どうして自分だけここにいる?確か、そう、思い出せ。直前の記憶は――――嗚呼、そうだ。シイナが奇妙な鏡を見つけて、たまたまこちらを向いた鏡に映った自分が、何故か笑ってもないのに口角が動いたから、咄嗟に彼女の手から鏡を弾き出して……それで。

「そうだ、飛ばした鏡の中の僕と目が合って――――っ、駄目だ、そこからが思い出せない」

 自分の記憶が全て正しいと仮定して、そうなれば、あの瞬間に何かがあったのだろう。どこかに連れてこられたのか、或いは。余り考えたくないが、あの得体の知れない何かは鏡に棲んでいた。鏡というのは本物にほど近い虚像を映す。考えたくないことだが、虚像と目があったその瞬間、鏡の中の何かと入れ替わってしまった……という可能性も、無くは無いだろう。だとすれば今頃、シイナの元にはあそこに棲んでいた何かが居る筈だ。何が出て来たか知らないが、何とか無事でいることを信じておこう。
 暗い闇の中の屋敷、ここがどこなのかはよく分からないが、何にせよ早くシイナの元へ戻らなければならない。ずっと座っていても仕方ない、とにかく何か情報をと立ち上がったが、その瞬間自らの裾らしきものを踏んづけて身体が傾き慌ててバランスを取り倒れるのを防ぐ。
「っ、何だこれ……?」
 一体何だ、と自分の身体を見下ろして、そして絶句した。

「……」

 真っ白い、いやに絢爛な着物が全身を覆っている。やたらと重力があり、よく見ると白だけでなく、随所随所に赤も入っているらしかった。加えて頭部にも何やら白い被り物が乗せられており、取り外してみるも見慣れない形をしているために、何の衣類か判断が難しい。とはいっても、一応、和服の類には違いないだろう。ずるずるとしたそれにどうしたものかと思案するも数秒、とりあえず、被り物だけを元いた場所に安置し、その場しのぎではあるものの裾を持ち上げて移動することで大分動作が楽になった。
「おも……」
 重厚感のある着物の重量は半端じゃない。いわゆる十二単のように何枚も重なっているが、夏だというのに何故か全く熱くなかった。今までの噎せ返るような熱気と湿度はすっかりなりを潜め、暑さも寒さもない快適な温度を保っている。さて、どうしたものか。重たい着物を引き摺りながら、リドルは正面に開けている庭へと視線を向けた。

 広い、大きな広場のような場所だ。一面広い石畳が広がっていて、何かの舞台のようにも見える。闇に包まれている所為でどれだけの面積があるのかは分からないが、暗闇の中でも見える現在の不思議な眼を持ってしても暗いその奥には行こうと思えない。外の様子を確かめて、リドルは踵を返して部屋に戻った。端から順に室内を見て回るも、特別めぼしいものは見られない。とりあえず奥に設置してある箪笥を片っ端から開けてみたが、そのほとんどが空っぽのようだった。いくつか小物と着物は出てきたが、これがどういったものなのか、知識の無いリドルには分からない。寝所らしき場所も見つけたが、天蓋と似た何かに囲まれていて案外寝心地は良さそうだった。とはいえ、今は睡魔もない。
「……どうしたものかな」
 一通り中を見て回ったが、結局何も見つかる事はなかった。舞台のような石庭を臨む場所には一段高い畳が備えられており、下へと降りる階段の前に座る事が出来るようになっている。探索も終わり、特に何もすることが無くなったリドルは、周囲に誰もいないのをいいことに小さな好奇心にかられて畳へと腰を下ろしてみた。

 この空間は静かだ。穏やかな気候の中、風もなく、ただ時間だけが過ぎていく。ぼんやりと暗闇の中の石庭を眺めて、リドルは普段からは考えられないほど無為に時間を潰していた。


 永遠にも続くかに思われた静寂は、突如として破られた。

 不意に、完全なる暗闇を裂くように石庭に備えられていた松明に奥から順番に火が灯る。そしてリドルの眼前に円を描くように舞台を作り上げた。
「……」
 
 りん、りん、と、遠くの方から幾重にも折り重なった鈴の音が響く。無風だった先程までとは異なり、僅かに吹き付ける風が微細に炎を揺らしていた。空間を揺らす鈴の音は、徐々にこちら側へと近付いてくる。
 りん、と、一際大きく鈴が鳴いた。その瞬間、周囲に備えられた松明の炎が大きく揺らめいて闇の中から薄暗い影のような何かが階段を登るようにしてこちらへと姿を現した。それはぞろぞろと列を成して円の方へと向かってくる。リドルは静かにその様子を眺めて、しゃらんと鳴る清涼な音を聞いていた。


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