02
手紙を読み終えたとき、莉子は無意識に大きな嘆息を吐いていた。
藤堂というのは、手紙にも書いてあった通り、莉子が大学時代所属していた手話サークルの仲間で、莉子のかつての彼氏でもあった。
十五年前、同じく手話サークル所属の大津花と結婚してから、少し気まずい関係になって、それ以来疎遠になっていた。
それから、一年に一回会うか会わないかの関係が続いていたある日、莉子は花に呼び出された。
――久しぶりに、莉子ちゃんと会いたいな。
そんな電話によって。
莉子は居た堪れない気持ちになって目を閉じる。あれ以来莉子は、少し気を抜けば、瞼の裏に花の死に顔が浮かぶ、というトラウマにもよく似た現象に悩まされてきた。アドラーに言わせてみれば、それも単なる思い込みで、私は勇気のない臆病者になる、わけだが……最近では花に纏わる記憶も薄れ、その症状も改善されつつあった、というのに……。
莉子は封筒と便箋をテーブルに戻すと、布団をかぶった。きつく目を閉じ、脳裏に浮かぶ花の顔を消そうと、必死にほかのことを考える。
――最近の政治のこと? 婚期のこと? だめだ、どんなに他のことを必死に考えようと、花の顔は消えない。
莉子は自分の気持ちを整理しようと、花の事件をもう一度思い出すことにした。
死亡したのは、藤堂花、旧姓は鬼塚花。藤堂勝の妻で、専業主婦。
第一発見者は、花の友人、大津莉子。……すなわち、莉子だ。花に呼び出され、自宅を訪ね、遺体を発見した。
遺体は、ビニールの紐で首を吊っていて、苦しそうなその顔は悲惨だった。遺体の隣には警察、報道関係者の皆さま方へ、と宛てられた手紙があり、そこには『私は自殺を致します。殺人事件でもなんでもなく、ただのよくある自殺です。お手数をおかけします』と書かれていた。その手紙が決め手となり、花の事件は自殺と片付けられた。いや、その手紙だけが決め手となったのではない。花が鬱を患い、心療内科に掛かっていた、ということや、花の遺体から吉川線が発見されなかった、ということも関係している。
――あぁ、あの事から十五年か。
莉子はそう考えたとき、軽い頭痛に襲われた。
――考えてみれば私は、花の命日は愚か、十周忌にすら墓参りへ行ってないではないか。もしかしたらこの手紙は、花からのメッセージかもしれない。たまには私のことも思い出して、という、寂しがりやな花の。
そう考えるや否や、莉子は動き出していた。頬を二度ぴちぴち、と叩くと、他にもゴチャゴチャと余計な事を考える自分の気持ちに収束を即けるため、大きく深呼吸をした。
そして、スーツのポケットからスマートフォンを取り出すと、手紙の文末に書かれている電話番号を視認し、打ち込んだ。
プルルルル……プルルルル…………そんな音の後、留守番電話の無機質なメッセージが、耳に飛び込んでくる。
莉子は小さく舌打ちをすると、地図アプリを起動し、今度は電話番号の横に記されている住所を、検索欄に打ち込んだ。
表示されたのは、繁華街のど真ん中、何個か飲み屋やキャバクラの入っているであろうビルの七階、であった。
めんどくさいな。そう莉子の口は自然と動いた。さっき行った筈の決意は一瞬で消滅し、莉子の心の中には、ただ怠惰ば感情だけが残った。
莉子はネイルを塗ったばかりで赤い爪で頭を引っ掻く。繁華街の中のビルなんて大体似寄っている。しかも、キャバクラと飲み屋の入ったビルだと? そんなビルが都内にいくつあると思っているんだ。莉子は藤堂への抑えられぬ怒りを感じた。そのビルの場所のこと、花のことを思い出させたこと。それに対する怒りだ。
髪を掻き毟りつつ、莉子はベットの上から猫の縫い包みを手に取る。大きく息を吸うと、それを壁に向けて投げつけた。
ぼさ。縫い包みが地面に落ちる。莉子がもう一度藤堂に電話をしようと地図アプリを閉じたとき、隣の部屋の住人が壁を殴った。だんだん、という轟音ののち、「真夜中に騒ぐな糞ババア」という怒声が部屋中に響いた。
――うっせぇな。神経質ガキ!!
莉子は壁を思いきり蹴りつけた。
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