遠慮なくいただきます


 その日は、少しばかり気温が下がっていた。それでも錦にとっては十分暑いが、ご無沙汰している散歩に興じようかという気になる程度には穏やかだった。
 保冷剤を包んだハンカチを首に巻き、朝ごはんのシリアルをむさぼる。対面では、既に支度を終えた凌がコーヒーを飲んでいた。

「錦、今日も図書館か?」
「いいえ、少し外を歩くことにするわ」
「涼しいもんな、今日。出かけてからそのまま?」
「そうね」
「なら、俺もそのままバイト行くか、昼飯代も渡しとく。熱中症には気を付けるんだぞ」
「あんまりにもよく耳にするものだから、夏の風物詩のように感じてくるわね」
「嫌な認識だな。夏の風物詩といえば、花火、海、ビアガーデンだろ」
「今年は海しか達成できていないわね」
「そうだな、海、ん?どれもやってないだろ?水族館を海ってカウントしてんのか?」
「……ビアガーデンとは何かしら」
「おっまえ、海まで行ったのか!?」
「"お前"……?」
「ごめんなさい」

 数日に一度の深夜徘徊に目的地が出来、深夜遠足をしていたことを凌は知らない。錦は思い切り話題をそらし、重ねてビアガーデンについて問い掛けた。

「外で酒を飲むんだ。あー、屋外の酒場?夜にデパートとかホテルの屋上でやることが多いけど」
「出かけてもいいのよ?」
「酒場に子どもを連れて行けるか。家を子供だけにして、夜に酒飲みに行くのも気が引けるし」
「わたくしは構わないのに」
「俺が構うんです」

 錦はシリアルを完食すると、器とコップを手にキッチンへ移動する。専用の踏み台に登り、シンクに置いた。次いで洗面所に向かい、また踏み台に登って歯磨きを済ませる。
 あとは外着に着替えてしまえば、準備完了である。凌がコーヒーを飲み切るまでに、身支度をするのが目標だ。




 用事を済ませ、ブライダルのアルバイトに向かう凌と別れる。あまり歩いたことのない地域だが、錦の足取りに不安はない。見知らぬ土地に怖気づくことはない。
 ほどよく曇った空の下でしばらく散策し、自分へのご褒美とばかりに冷房の効いたコンビニへ足を向けた。暑いものは暑いのだ。凌とともにいたので日傘はなく帽子のみであることも、一因かもしれない。
 自動ドアに迎えられて、帽子をとる。汗が一気に冷やされて非常に心地いい。とてとてアイス売り場に向かい、よじ登るようにして商品を眺める。本日の昼ご飯はこれで決まりだ。
 気になる一品を手にとようとして、しかし届かず、一人静かに格闘していた時のことだった。

「おい!これに金を詰めるんだ!」
「やあああああ!」

 騒然となる店内。錦は不穏な様子に、アイスをいったん諦めて陳列棚の陰からレジ前をうかがった。
 ナイフを持つ男と、その男に捕らえられたカチューシャの女の子。真っ青の女性。男の剣幕に近寄ることが出来ない客たち。可哀そうな程に怯えた女性店員。
 つんざくような女の子の泣き声に、錦は取り出しかけた防犯ブザーを仕舞った。これ以上うるさくなっても、どうしようもない。錦の耳に、ひどく負担になるだけだ。
 錦は落ち着きを払い、強盗犯のもとへ歩み寄った。突如登場した奇妙な幼女に、客も強盗も店員も錦を凝視する。

「あなた、その子を離して下さる?わたくしが代わるわ」
「な、なんだお前!」
「口の利き方に、気をつけなさい」

 BGMは女の子の泣き声だ。強盗犯の男は錦に怯えたような目を向けたものの、爆音の泣き声には耐えかねたのだろう、やや乱暴に人質の交換を行った。
 力加減や配慮なく抱きかかえられ、眉をひそめる。
 低い声で、ぼそりと。

「大事な貰い物を、乱暴に扱わないで」

 錦は無礼な腕にそっと口づけた。途端、男の体が崩れ落ちる。男の下敷きになってしまうが、布団を蹴り上げるようにして容易に脱出した。
 錦は不愉快そうな表情から一転、満足気に笑む。気を失って転がる男には目もくれず、戸惑いの混じる歓声に恭しく一礼した。
 店員が男を拘束し、客らに事情聴取の協力を要請した。すでに通報は済んでおり、そう時間はかからないだろうと言うが、錦にそのつもりはない。小さな体を生かしてそそくさと移動しようとするが、それを許さない男が一人。

「ちっと付き合ってくれよ、お嬢さん」

 ひょいと錦を抱き上げた男は、楽しそうに口角を上げていた。

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