息子と娘
凌が深夜に帰宅すると、二人暮らしのはずの家に、三人目がいた。
それがいっそ、強盗や空き巣の類ならば良かったのだ。凌一人でも十分制圧できる。凌の帰宅前に錦が倒してしまう可能性も高いのだが。
「だから、おやすみなさい」
錦がマイペースに私室に引っ込む。もう夜も遅く、子どもはとっくに眠らなければならない時間だ。具合が悪いならば、尚更休むべきである。だが、今夜ばかりはもう少し夜更かしをしてほしかった。
凌は無慈悲に閉じられたドアを眺める。深くため息をついて、眼鏡のブリッジを上げた。
凌が普段使っている椅子に座る女性は、身を固くして凌をうかがっている。錦いわく凌の恋人らしいが、女性の反応を見るに錦から何も説明されていないらしい。もちろん凌も事情を把握できていない。
凌はとりあえずキッチンに入り、お湯を沸かした。二人分の蜂蜜レモンを準備していると、女性が小声で話しかけてくる。休むといった錦を気遣っているのだろう。
「あの、突然すみません、私、助けてもらって……」
「ちょっと待ってくれ、なんとなく分かるから」
「分かるからって……あの、あの子のお父様、ですよね……?」
「そういうことになってる」
犬猫感覚で人間を拾ってくるなと言いたいが、凌自身も拾われた身なので強く言えない。
凌は女性の前に蜂蜜レモンを置き、自分もマグカップを持って、錦が使っている椅子に座った。錦用の分厚いクッションは、背もたれクッションになる。
女性は凌のペースに混乱を深めながらも、礼を言ってカップを受け取った。
「何があったのか聞きたいのはもちろんなんだがな?先に……具合悪い錦を起こしたくねーから、驚くにしても静かにしてほしいんだけど」
「え、ええ」
凌は錦の謎技術に改めて感心しながら、愛用の眼鏡を外した。
女性の顔色が瞬く間に悪化する。
「あ、なた……!?」
「何回か会ったことあるよな。ライとチーム組んでたスコッチだ。けど、安心してくれ。聞いてんじゃないか?」
「っそう、確か……スコッチは日本のスパイで、それで……大ちゃ、ライとバーボンが始末したって」
ライは、スコッチとチームを組んでいた男であり、彼女の恋人でもある。しかしスコッチと彼女は、顔を合わせたことがあるだけで、関わったことはない。
彼女は、組織の幹部(コードネーム持ち)に不意打ちで対面してひどく怯えていたが、情報を思い出すにつれて落ち着いていた。
組織に潜入して殺されたスパイと、組織から逃れることを望んでいた女だ。敵対する理由はない。
「死ぬところを錦に拾われて、それから錦のパパをやってる」
「……私も、『ママになって』と言われたわ」
「やっぱりなあ。俺の恋人だってさっき言ってたけど、嫁さんじゃないのか」
「再婚には早いって……」
「あーなるほど」
「……もしかしたら、私を気遣ってくれたのかもしれないわ。私に、諸星光って。……あ、いや、これは、」
「俺も知ってる。ライは諸星大なんだろ?俺はちなみに橙茉凌な」
諸星大の名前すら偽名であることも知っているのだが、話がややこしくなりそうなので黙っておく。彼女がどこまで聞いているのか分からない。
彼女が緊張を少しずつ緩めているのが分かる。顔色は悪いままだが、瞼を重そうに動かしていた。
「……あの子はどうして、それが分かったのかしら」
「錦と暮らすには、受け入れる気持ちが大事だぞー。諸星って名字に関しては、君だけじゃなく俺としてもありがたいし、あんまり気にするな」
「そうなの?」
「君と同じ名字なんて、ライにばれたら俺がスナイプされるだろ」
「ふふ、大ちゃんはそんなことしないよ」
「どうだか」
凌は、空になった彼女のマグカップを見て安堵した。凌自身も緊張していたようで、吹き飛んでいた睡魔が復活し始める。
新しい同居人とも、なんとか上手くやっていけそうだ。
「俺も色々と聞きたいけど、今日の所は休もうぜ。二階の俺の部屋を使ってくれ」
「いえ、私はここで」
「そんな訳にいくか。俺は錦と……いや、体調悪いみたいだから、俺はここで寝るわ。今から風呂にも入るから、先に休んでてくれ」
「……ありがとう。使わせてもらうわね」
「いえいえ。おやすみ、光」
「おやすみなさい、凌さん」
光がしっかりとした足取りでリビングを出るのを確認してから、凌は風呂場へ移動した。
この家は組織から逃れるための保護施設だったのかと思いそうになるが、錦は狙って凌や光を助けた訳ではない。凌はそう直感していた。多分、散歩コースに倒れていたとか、そういう理由なのだ。
「……ライに一発殴られるくらいの覚悟は、しておくべきか」
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