4-3


 ベルモットはホテルのレストランで、整った顔を精一杯しかめた。美女の不機嫌顔に、ウェイターが早足で通り過ぎる。
 食べかけのデザートを前に、プラチナブロンドの髪をかき上げる。何気ない動作が絵になる美女に他の客も目を奪われるが、苛立ちを隠さない表情に、そっと目をそらした。
 耳にあてたスマートフォンからは、降谷から無慈悲な命令がくだされていた。

「貴方、本気で言ってるの?」
『何度でも言ってやる。ガヴィのセーフハウスに侵入しろ、ベルモット』
「もう年ね、貴方も」
『耄碌した訳じゃない、失礼な部下だな。安心しろ、地域住民はともかく、ガヴィにはバレない』

 やけにきっぱりと、自信たっぷりに降谷が言う。

「根拠は」
『ガヴィは今病院で、こちらの監視下にある』
「っそんなこと私聞いてないわよ!?」
『こっちだって棚ぼたなんだ。おかげでまだ家に帰れない』
「それはご愁傷さま」

 ベルモットは一口ワイン飲んで、動揺を鎮める。
 今の上司である降谷が、こんな嘘をつく意味はないのだ。ベルモットがいくら信じられず認めがたいと言っても、おそらく、ガヴィを監視下においているのは事実なのだろう。
 一体、何があれば棚ぼたでガヴィを捕縛出来るのか。

「詳しいことは、今聞くわけにいかないでしょうから?」
『そこはちゃんと共有するさ。で、やるのか?やらないのか?』
「はいはい、大人しく従うわよ、ブルボン」
『フランス語で呼ぶんじゃない』
「ただ、私、明日から撮影があるの。すぐに行けないわよ」
『分かった。急いでくれ』
「人使いの荒い上司ですこと」
『労ってほしいならそう言ってくれ。いくら俺でも、老体に鞭打つほど、』

 最後まで聞かずに通話を終了した。
 バーボンだった頃に比べ、気取らない性格に好感は持てるが、フェミニストな部分は継続してほしかったものである。とってつけたような笑顔でも、ベルモットにとっては可愛いものだった。
 ベルモットは軽く頭を振ってデリカシーのない上司を追い出すと、クリス・ヴィンヤードのスケジュールを呼び出した。





「いくら俺でも、老体に鞭打つほど悪趣味じゃな……切れたか」

 降谷はスマートフォンを仕舞い、ため息をついて目頭を揉んだ。
 警察病院のいわゆるVIPルームの一室を、モニタールームとして利用していた。モニターには別のVIPルームの様子が常に流れている。
 ベッドに横たわるガヴィは、手錠と複数の拘束具で、寝返りもうてない状態だ。食事を少ししか口にしないので点滴もほどこされている。
 病室の窓は鍵をかけ、カーテンも一日中閉めている。ベッドの両脇に常に監視が二人、ドアのそばに一人。カメラは複数台仕掛けられ、死角は存在しない。
 降谷は変わった様子のないモニターを一瞥し、あとは担当の捜査員に任せ、無駄に広い病室内を歩く。
 時間は朝の九時。降谷はガリガリ頭をかいて、髪のきしんだ感触に舌打ちをした。

「で。お前は何で日本にいるんだ?」

 アメリカに拠点を移したはずの赤井秀一が、病院内にあるチェーン店の紙コップを片手に、優雅にコーヒーブレイク中だ。手を付けていない別の紙コップは、降谷の分らしい。
 降谷は礼を言わずに受け取り、ブラックコーヒーにミルクを混ぜる。十二指腸潰瘍を指摘されている身として、空きっ腹のコーヒーは控えたい。

「タイミング良すぎるだろ、全く……」
「丁度いいじゃないか。組織のことに関しては、公安とFBI……正確には、君の室員と俺の班員で協力することになっているだろう」
「俺が上を丸め込んだからな。あと質問を濁すんじゃない。こちらの事情については明かしたんだ、次はお前が話せ」
「分かっているさ」

 休暇で来日した訳ではなく、FBIの仕事らしい。外国人向けのマンションを一室、事務所として確保しているとのことだ。
 事前に日本警察にお伺いを立ててほしいものだが、以前の組織の件でも、日本で好き勝手に動き回ったくらいだ。この手の説教は効きにくい。来日と同時に降谷に連絡を入れるようになっただけまだ良い方だ。

「仕事ってのは、組織……酒樽関連じゃないんだろ?」
「ああ。あるマフィアから独立した、小規模のチームを追っている。あんまりにも手がかりがなく名乗ってもいないんで、俺達は"オフリド"と呼んでいる」
「由来は?」
「マケドニアの首都だが、マケドニアは無関係だ。それで、俺たちは彼らを追って来日した」
 
 赤井は手帳を出すと、そこから写真を一枚取り出した。
 どこぞ煙草を吸う男が一人写っている。日に焼けた白人男性だ。堀が深く、骨格も日本人ぽくはない。辛うじて確認できる虹彩はヘーゼル、短く刈った髪はダークブラウンだ。よく体を鍛えている、二十代半ばの男だった。

「オフリドで唯一判明しているメンバーだ。標的名はグルーム。サミュエル・マルティネスという偽名をよく使っている」
「ははあ、サミュエル要塞でオフリドか」
「マケドニアの国民には申し訳ないが」
「グルームは?」
「花婿(groom)だ。元々はロマンス詐欺で追われていた男でな」
「……凶悪グループのイメージで聞いていたんだが」
「合っているよ、ロマンス詐欺は資金調達の一環だと後に判明した。こいつの詳細は、今は関係がないからおいておくぞ。オフリドを追う俺達のもとに、グルームがロスで目撃されたという情報が入って、しばらくロスを拠点にしていた。だがそれ以上情報はつかめなかった、別のギャングの行動が目に付くくらいで」
「それは伏線か?下手くそだな、赤井」
「俺は小説家じゃないんでね、許してくれ。まあ、それで、ちょうど彼……怪盗キッドの犯行日、廃業したモーテルで銃撃戦が起こった。幸い、俺も他の捜査員も近くにいたから、ギャングの小競り合いか、もしオフリド関係だと良いな、とウキウキ現場に向かった」

 怪盗キッドの犯行日は、ほんの数日前。別室で拘束されているガヴィを発見したのが帰国した彼自身だと、降谷は知っている。
 降谷は頭を押さえた。嫌な予感がする。頭痛も酷くなる予感がする。

「……俺を含めた数名で突入した。犯人グループ誘導の為にポジションについたのはいいが、ここで予想外の出来事が起こった。……ガヴィがいたんだ、ホテルの中に」
「……はあ?」
「ガヴィにはそのまま逃げられてしまった。見てくれ、ここだけ髪が短いのはガヴィの銃弾がかすったからだ」

 赤井が、病院内でも被りっぱなしのニット帽を取り、横髪をつまんで見せた。確かに不自然に短くなっている。
 降谷は眉間のしわを深くして、よく死ななかったな、と素直な感想を述べた。ベルモットいわく"ガヴィはスパイを殺さない"らしいが、組織が壊滅した状況でもそれが有効だとは思えない。
 
「銃撃戦の後、この写真の男の目撃情報があり、日本へ飛んだ」
「……そうすると、ガヴィも銃撃戦直後に渡日のため動いた、ということか」
「ああ。俺が対峙した時――といっても一瞬だったが、おかしな様子はなかった。ガヴィのアレは、俺と接触してから来日するまでの間に原因があるんじゃないか?」
「一流の犯罪者が飛行機恐怖症か、笑えるな。お前を殺さなかった理由は?」
「深夜で、しかも俺がいたのはリネン室だ。あいつが棚を蹴り倒したせいで視界が悪く、部屋自体も狭い」
「跳弾を危惧して判断が鈍った、というところか。にしても、なんでそんなとこにいたんだお前」
「通りに出やすい場所だったんだ。三階だが、足場になる室外機もあってな。他のフロアでは別の捜査員が張っていた。到着した矢先、まさかガヴィが飛び込んでくるなどと思わんよ」
「……ガヴィは一人で?」
「そうらしい。ああ、ギャング気取り共の聴取はきっちりとってある……今見るか?一度帰宅して着替えて飯も食ってから、合同カンファレンスでの開示の方が良いと俺は思うがね」
「……そうだな……」

 ガヴィの棚ぼた捕獲からの激務、怒涛の情報量に苛立ちも募る。コントロールには慣れているとはいえ、万全でないことは否定できない。
 降谷は頭を掻きむしりながら、空になった紙コップをゴミ箱に放った。
 赤井がニット帽をかぶり直して、モニターの方へあごをしゃくる。

「見ても?」
「爬虫類の観察でよければ」

 部下の邪魔にならない位置で、遠目にモニターを見やる。
 ガヴィは相変わらず大人しい。大人しすぎるほどに静かだった。
 降谷は、見飽き始めた画を睨む。赤井は興味深そうに眺めていた。

「……取り調べは?」
「順調そうに見えるか?一言も喋らん」
「全く?」
「全く、全然、微塵も、欠片も、これっぽっちも声を出さん」
「薬は?」
「変わらず。健気に黙秘権を行使している」

 ガヴィは数日内に、勾留(こうりゅう)場に移送されることになっている。ガヴィに外傷がなく、要治療の異常が見られないことから、これ以上病院にいる意味もないのだ。また、重罪人を長く病院に置くわけにはいかないと判断された。
 検査があれば大人しく動き、食事を出せば最低限を食べ、他はベッドで静かにしている。拘束具が滑稽に見えるほどだ。
 赤井は、苦い顔の降谷が皆まで言わずとも察したようで、「そうだな」と適当な相槌を打っていた。



 毛利探偵事務所と同じビルに入っている喫茶店ポアロは、コナンの時から新一の行きつけだ。
 敏腕アルバイターの安室透がいなくなり、当初は彼の不在を嘆く女性客も多かった。だが、安室考案のメニューが残っているからか、家庭的な雰囲気が落ち着くのか、客足が退くことはない。
 新一は、宮野とともに席についていた。待ち合わせた訳ではなく、新一が何となく足を向けると、たまたま宮野も来店していたのだ。
 二人でゆったりとコーヒーを飲む。宮野はケーキも注文していたようで、空になった皿が残っていた。

「せっかくの休日なのに、蘭さんとデートに出かけなくてもいいの?」
「園子と世良とケーキバイキング」
「あら、振られたのね。アルバイトは?」
「浮気調査でおっちゃんが出てる。俺は必要ないから留守番してろってよ」
「頭脳の持ち腐れね」
「凶悪犯罪がないのは良いことだろ?」
「それにしては、悩まし気に見えるわよ」

 まるで人が悩みを持たない能天気であるかのように、宮野が不思議そうに首を傾ける。彼女は灰原だったころよりも、新一の反応を楽しそうに見ている。実年齢は二つしか違わないのだが、そういう笑みを浮かべていると、ずっと年上な気さえした。
 新一はコーヒーカップを置くと、声のトーンを落とした。専門的なことは専門家の意見を乞うべきである。
 宮野は薬学が専門だが、医学系の知識も豊富。思わぬ助言をくれる、新一の相棒でもある。

「記憶喪失の人間が黙秘を貫く理由ってなんだと思う」
「……やっぱり、厄介そうな事件を抱えているんじゃない」
「抱えてるっつーか、ちょっと関わっちまったっつーか……まあどっちでもいいか」
「記憶喪失といっても幅広いわ。認知症の類ではないんでしょ?」
「ああ」
「そもそも、黙秘している人間が記憶障害をおこしていると判断出来たのは何故?」
 
 涼やかな目が、はっきり言いなさいよ、と告げている。新一が事件に首を突っ込むたびにため息をついて苦言を呈する宮野だが、新一が頼ると、ちゃんと応えてくれるのだ。

「今までなら反応していたことに反応しない。例えば、沖野ヨーコを目の前にして静かなおっちゃんとか、怪盗キッドに見向きもしない園子とか、比護選手が目の前にいるのに無反応な灰原とか」
「分かりやすい例えだけれど、イコール記憶障害にはならないでしょう。脳腫瘍でも起こりうるわ」
「身体的な異常はないし、外傷もなかったらしい。精密検査の結果は教えてもらえてないけど、連絡がないままってことは、異常はなかったんだと思う」
「……こちらからの呼びかけは通じるの?」
「ああ。返事はないが、食べろと言えば食べるらしい」
「ただ話せないだけなら、失声症かもしれないわね」
「……否定は出来ないな。なんせ、こっちの言いなりで従順なんだ」
「……その対応がそもそもおかしい相手ってこと?失語症なら、記憶力や判断力に異常は出ないはず。失声症ならなおさらね。ストレスで声が出なくなるものだから。……振る舞いが全く異なるというのなら、記憶障害との判断にも頷けるわ」

 新一は神妙な顔で頷いた。宮野にはガヴィのことを伝えていないので詳細は明かせないが、"なぜか話さない"ことはきちんと伝わったようだ。
 ブローカ野やウェルニッケ野の脳障害でも、言葉を発さないこととは違う。言語機能全てに重度の障害が起きたとしても、声は出せるはずなのだ。
 ひたすら無言で、従順な態度をとる。

「エピソード記憶の喪失自体は、蘭も前になってる。ショッキングな場面を見たことが原因だった。でも、普通に会話は出来ていた」
「キュラソーも、外傷性の逆行性健忘を発症したけれど、会話に不都合はなかったわ」
「……なぜ黙るんだ?」
「むしろ、状況把握のために尋ねてもよさそう……『ここはどこ』『あなたたちは何』って」
「だよなあ……こっちからの言葉は通じてるのに」
「精密検査の結果次第、というところはあるわね。現状、なんとも言えないわ」
「喋ってくれよマジで……」
「重要参考人?」
「あ、いや、うーん……情報を大量に持ってる犯罪者」

 宮野は新一の言葉に難しい顔をする。

「あまり言いたくはないけれど……自白剤は?」
「さあ……使ってるかもしれねぇな。それで何か話せば、意図的に黙ってるってことになる。従順な理由は分かんねぇけど」
「薬でも話さないのなら、失声症の可能性が高くなるわね。同時に脳に障害があって、ふるまいが変わっているとか」
「探り入れてみっか」
「工藤君らしいけれど、ほどほどにしなさいよ」
「はいはい」

 降谷が易々と情報を開示してくれるとは思っていない。ガヴィを引き渡した以降、一切の連絡がないのがその証拠だ。降谷は新一を評価してくれているが、同時に、事件に関わらせたがらない。新一が一般人だからという線引きと、平和に学生生活を送るべきという優しさだ。
 黒の組織の件は、FBIと公安の架け橋にコナンが不可欠であったし、ベルモットとの関わりも大きかった。それに、幼い子どもだからこそできることもある。既に深く関わりすぎたということも、コナンが対組織戦に参戦できた理由だ。
 しかし、今は違う。黒の組織は壊滅し、コナンはいなくなった。コナンが築き上げた人脈はほとんどを失い、新一が動ける範囲は狭くなった。それでも、事情を深く知っている身として、ガヴィの問題を降谷に丸投げする気はない。
 ガヴィが日本にいた理由を明らかにしなければ、新一自身の生活や、目の前の彼女の安寧が、脅かされているも同然なのだ。

「前に服部君が言っていた"行き詰まっている"依頼は解決したの?」
「撤回された。依頼料だけしっかり払っていったから、おっちゃんはご機嫌だったぜ」
「撤回したわりに気前がいいのね」
「元々情報も少なかったし、出直すのも分かるけどよ。あれもちょっと変な依頼ではあったし、忠告はされるし……あ、そうだ、俺、そのことを聞こうとしてて……!」
「何を忘れていたのかは知らないけれど、よほど記憶障害の一件が興味深かったのね」

 宮野がそう言って肩をすくめる。
 オリヴァー・トムソンからの、米牧真衣捜索依頼だ。依頼は完遂出来ないまま撤回され、それ以降オリヴァーからの連絡もない。手を引くように言った理由を降谷に聞こうとして、ガヴィ確保という大ニュースが飛び込んできた。すっかり頭から抜け落ちていた。
 そうだ、それを降谷に聞かなければならない。ガヴィの件も合わせて、なんとしても降谷と連絡を取らなければ。
 思い出してしまえば、のんびりしていられない。新一はぬるくなっているコーヒーを流し込んだ。

「落ち着いて飲みなさいよ」
「あの人に連絡つくか分かんねぇし、早い方が、……」
「何よ、人の顔をまじまじと見て」
 
 不躾な新一の視線に、宮野の眉がはねる。新一は謝りもせず、思考に没頭したままカップを置いて立ち上がった。
 オリヴァー・トムソンから渡された写真に、見覚えがあるような気はしていたのだ。コナンの時に出会っていたのかもしれないと漠然と感じていたが、まさしくそうだ。写真の彼女が、新一の知っている時よりも若く、また顔の正面から撮った写真ではなかったから、すぐに気づけなかった。
 米牧真衣、よねまきまい、YonemakiMai――宮野明美のアナグラムだ。

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