「…生きるって、本当面倒だな」
「レージくんはとても繊細だから、きっと僕なんかよりもずっとずっと生きるのが辛いんだろうなあ、と思うよ?」

霧雨降る午前八時。
春、東京。
住宅街なりに朝の小学生の元気な声が聞こえてくる、古惚けたアパートの二階。
僕らはひっそりとここに住んでいる。あまり人目に付かないように、文字通りひっそり。
最初にこのアパートを見たとき、外壁に蔦が這っていて、あーなんか童話に出てくる姫が捕えられている崖の上の塔みたいだなあ、なんて思って一目惚れをした。
そんなことは彼には言っていないけれど。
昼間でも少し薄暗くって、北向きのせいかいつも少しひんやりしていて、僕はこの場所が結構好きだったりする。

「…雨って憂鬱だな」
「そうだね、」
「、ヒヨ…」

呼ばれて思う。ヒヨ、ヒヨリ。僕の名前だ。

多分僕の産まれた日は、桜が満開で、花見日和で。僕の名前はそこから来ている。
多分、と言うのは、僕が産まれた正確な日にちを誰も把握していないからだ。
誰も見ていないから分からない。
あくまでも僕の誕生日は予想で創られた。

赤ん坊の僕は、桜が満開の公園のベンチに捨てられていて、その僕を産んだであろう人は同じ公園の公衆トイレで自殺していた。
僕は施設に引き取られ、そこでこの雨降る空を窓辺で眺めながら煙草を咥えるレージくんと出会った。
僕が施設に入った頃、レージくんは二歳だった。
初めて会った時のことはもちろん覚えていない。
物心ついた時にはもういつも一緒にいた。

「なあに?」
「……俺もお前を殺したいとか思ったりするんだろうか、今後…」

ふうっと白い煙を吐き出してから天を仰ぐと彼はぼそっと呟いた。
レージくんが施設に入ることになったのは、父親が刑務所に入り、母親が死んだからだそうだ。
二歳の彼の目の前で父親が母親を殺したのだ。
そのときのことを聞いてもレージくんは顔色一つ変えないし、いつも「覚えていない」と言うだけだ。
本当に何も覚えていないのかは分からないけれど、レージくんにとって然して重要なことではないような態度で。
でもただ、彼に何かしらの影響を与えていて、それによって彼が思い悩むこともあるんだろうなあ、と感じることはよくあることだ。

「それは、」
「愛しくて殺したくなる?…今のところそんな感情はないけど」
「それは未だ誰も愛していないからではなくて?」
「いやまあ、あー、そうかもしれん」
「レージくんが人殺しにならないで済むなら、愛したり、とかしなくても、出来なくてもいいような気もするよ」
「、…そうか」

煙草を摘む、綺麗な指。
そんな綺麗な指で、手で人を殺したりしないで欲しいなあ、と素直に思う。
そんな醜い感情に支配されないで欲しいなあ、とも思うんだ。
彼が僕を好いてくれている事は分かっているし、そこに愛情も感じるけれども、でも。
好きになった人を殺したいという感情は誰しもが持っているものではないと思うし、そういう思考を持っていた人の血を受け継いでいるから自分もきっとそうなんだろう、という勝手な決めつけはして欲しくはない。
愛おしくて愛おしくて、自分だけのものにしてしまいたい、そんな気持ちを持っているのは、実は僕の方かもしれない。

「僕が死にたくないって言ったら、レージくんは殺せないよ。そういう人だよ、レージくんは」
「あ、そ。よくわからんけど」

ステンレスの、すでに吸殻が押し込められた丸い灰皿に煙草を押しつけて火を消すと、ふっと少しだけ鼻で苦笑しながらレージくんは呆れた様子で言う。
彼は雨が嫌いだといつも言うけど、雨の日は饒舌になるなあとよく思ったりする。
それが何故なのか理由は見当もつかないけれど。

「ビール、飲む?」
「ん」

雨特有の彼の饒舌のせいで、仕事終わりの乾杯をしていなかったことを思い出す。
そう、世間は世界が始まったかのように動き出した朝だけど、僕らにはお疲れ様、昨日よさようならの朝なのだ。

小さな冷蔵庫を開いて選択肢のないそれを二本。
中身は冷えたビールのみ。
そういえば何もなくなっていたと気付く。

「何か買ってくればよかった、空だ」
「別に、何も。減ってる?腹」
「ううん」

綺麗な指が、今度は冷えた缶ビールを掴む。
そのまま片手でプルタブをプシュっと引き上げると、ああ、やっぱりその手で誰も殺して欲しくないなあ、とまた思う。
カラン、薄いアルミの缶同士、乾杯の間抜けな鈍い音を鳴らす。
開けた缶に口を付けて中身を求めながら、レージくんの喉仏が上下に動くのをじっと見る。
もうずっと切っていない黒い長い髪、華奢な首筋、少し浮き出た血管。柔らかい薄めの唇。
僕はそこに触れたことがあるんだなあ、と自分の喉が鳴る瞬間思う。
モゾモゾっとポケットを探って煙草の箱と安いライターを手にして、一本唇に咥えて火を点ける姿なんてもう日常的に何百回と見ているはずなのに、今日は不思議と新鮮な気分でそれを見ていた。

レージくんは所謂ホスト、というやつをしている。高校を出てからずっとだ。
背はそんなに高い方ではないけれど、目が大きくて掘りも深い。鼻筋も通っていて本当に綺麗な顔をしているので、ルックス的には向いているのだろう。ルックス的には。
彼の死んだ母親は日本人ではなかったようだから、彼はハーフということになる。いやまあ、誰が見てもそう思うんだろうけれど。

小さい頃施設にいた女の子がフランス人形を持っていて、僕が「あのお人形レージくんに似ているね」と言ったら三日間口を聞いてもらえなかったことがあった。
僕は「レージくんが人形のように綺麗な顔をしているね」と伝えたかったのだけど、どうやら彼は自分の顔があまり好きではないだ。
それ以来、常日頃綺麗な顔だなあ、と思ってはいても決して口に出すことはしなくなった。共感して欲しい相手も特別いなかったし、そのうっとりと見惚れる思いは僕の中だけで消化されてゆく。

「何か買いに行くか?」
「いらない、僕は」

否定の意味を込めて返事をする。
彼は立ちあがるけれど僕の返事を聞くと外出する気配を消した。自分も減っていないからいらない、ということなんだろう。「あ、そ」言いながら彼はワイシャツのボタンを外して部屋着のスウェットに着替えてゆく。

「……なんかあったか?仕事で」
「え?」

そんな、何か言いたそうな顔をしていたか、と無意識に首を傾げてしまってから思う。
本当にレージくんには隠し事の一つも出来やしないなあ。
それは勘の鋭い彼のせいなのか、それとも単純な僕の態度のせいなのか、それは僕には分からない。

「いつまで降るんだろうな、雨…」

寂しそうな、何時まででも降っていて欲しいような名残惜しむような声が聞こえて、急にベッドに寝転んで布団に包まってしまった彼の髪を掬って撫でる。

「そんなに、好き?雨、」

そんなに止むのが寂しいの?とは聞けなかった。
なんでだろう、彼が困るような気がして言い方を変えた。

「、……別に」
僕が仕事のことで何か言いたげなのは分かっていて、多分何も深く追求して来ないのは、僕がいつかは自分から話すことだと分かっているのかなあ。
そんなこと言わなくてもきっと伝わってしまうのかなあ。
そんなことまでもレージくんには全部丸ごと見えてしまっているような感覚に陥る。お見通しっていうのはこのことかな。

「おやすみ」

丸まった背中に向かって呟くと、コクっとと小さく彼が頷いた。しばらく一人の世界に浸って雨の音を聴くんだろうと思った。そう思いながら僕も彼の隣りに潜り込むと黙って目を閉じた。
レージくんは夢の中でも雨に降られるのかなあ?














蹴って、殴って、跪いて。