春山淡冶にして


ーーさあ、はじめよう。
「ああ、はじめてあげよう」
ーーそれはきっと楽しいよ。
「ああ、楽しいことだろう」
ーー君が楽しければ、もっといいのに。
「汝が楽しいのならば、なんだってしてやろう」

その匂いは、どこかで何かを懐かしむようだった。


ーーーーーー春愁惜春ーーーーーーー



ひときわ強い風が僕の長い髪をさらうように駆け抜ける。春日遅遅という言葉の通り、とろりとした微睡みを含んだ空気が春独特の雰囲気を作り出していた。全てのものがうすら白んで見える、このささやかで微かな短い季節が、僕ーー神子柴エヴァは嫌いではない。短い季節に詰め込まれた、そこはかとなく沸き立つ希望や期待、別れの寂寥感を誤魔化すように突きつけられる出会いに、人々は退屈を忘れる。むしろ、その退屈さえもが新しい何かの前触れであるかのような錯覚を起こすのだ。
春の陽気も、春のせいでいつもよりどこか眠たげに首をもたげている。
僕はそっと踵を揃えて立ち止まった。靴の音が抜けた空気はそれぞれの家の中から零れてくる篭った生活音だけを奏でていた。
腕時計の針は午前7時を少し右に過ぎたところ。何かしらの部活動に所属している訳ではないのだけれど、僕は基本、毎日この時間に家を出ている。
四季折々晴好雨奇。それぞれに魅力があるのだけれど、その中でも朝は格別だ。1日を人生に例えると、朝はまさに産声。目覚まし時計の鐘を止めて、身嗜みを整えてからしっかりと朝ごはんをいただいた後に家を出て、学舎に到着せんとする今の僕はさしずめ6、7歳と言ったところだろうか。(精神年齢ではなく、あくまでも例えである。)
そんな何もかもが春の訪れに傾き、感覚や感情までもが飲み込まれた4月、僕はーー僕達は私立麓咲高等学校の3年生を謳歌していた。


「こんなところで何を黄昏ているの?」

風で靡く髪を押さえつけながら散り際の桜に目を向けていると、後ろからころんとした声が僕の肩をつついた。
振替えるまでもなく、聞き慣れたそれにこちらも言葉で微笑みかける。

「おはよう、たるる」

彼女は御伽女木紫和。僕の幼馴染みである。幼い頃からずっと隣にいる、家族みたいな存在だ。へたすれば家族よりも一緒にいるーーというのは言い過ぎかもしれないけれど、そう言えるほど共有した時間が長いのは確かである。あだ名は“たるる”。何故そんなゆるゆるでぐだぐだそうな、しかも全く名前にちなんでないあだ名が付いたのかは僕も、そして彼女も謎なところだが。けれどもそれがいみじくも馴染んでしまっているのだから、慣れいうものはほとほと面白おかしいならぬ面白恐ろしい。
振り返ると、たるるはにっこりと声と同じように明るい笑顔で僕に笑いかけていた。時間帯はさてもとして、彼女の朝一番はいつもこうだ。快活で、眠気なんて言葉はベッドに置いてきたような笑顔と挨拶。
「早起きは三文の得という有名で高名な諺があるけれど、早起きでいることよりも、笑顔でいることのほうがずっとずっとーー三文以上のお得があると思うの!」というのは当時小学生だった彼女の名言である。確かに、早起きしてもずっと眠そうで不機嫌そうな顔をしているよりも、早起きなんてしなくても笑顔でいられるほうが自分も周りも気持ちがいいだろう。いまさらながら、むべなるかなだ。
たるるは皆から可愛いともてはやされる活発な笑顔をふんだんにあしらった顔色で、にこにこと言葉を続けた。

「おはようエヴァくん!今しがた言った言葉なんだけれど、朝なのに黄昏っていうのも中々おかしなものがあるなって思わない?」
「朝の第一がそれ?!」
「いいじゃん。付き合いなさいよ、ね?」
「うーん、まあ、言いけれども。そもそも黄昏るって言葉がまず面白いなと僕は思っていたよ」
「ほへえ、それはまたどうして?」
「黄昏って元は夕暮れの薄暗くて相手が誰だか分からないーーたそ彼は、からきてるらしいじゃないか。そもそも動詞ではないわけだろ?昔からある言葉としては、現代言葉じみてるよね」
「たしかに。文字って遊ぶとかと同じニュアンスなのかしらねー」
「どうなんだろうね」
「じゃあさ!朝は黄昏ている、じゃなくて黎明ってるって言えばいいのかな!」
「朝はかたわれ時だから。変な言葉を作るなよ」
「もうあったの」
「あとね、たるる。そもそも黄昏るっていう言葉は物事が終わりに向かうって意味だから、君が僕に言うべきだった言葉は“物思いに耽る”とか“思案に暮れる”が正しいと思うのだけれど」
「ま、まじか……じゃあ今までの会話はなんだったの」
「そんなことを僕に聞かれても」
「なによ、すげないわね」

この掛け合い漫才のようなやりとりも、もう慣れたものだ。散った桜の花びらが敷き詰められて絨毯のようになった通学路を歩く。新学期へと伸びるレッドカーペットならぬ桜カーペットに、やっぱり新鮮な気持ちになった。

「ところで、つかぬことを伺いたいのだけれど」
「なあに?」
「今日はやけに早いじゃないか。僕が誘っても余裕を持って寝ていたいとか言ってこんな時間には起きてこないのにさ」

何ということもなさげに言う。純粋な疑問だった。ーーいや、少し皮肉を含んだことは認めよう。
日頃、アイドルのようにいつもにこにこ活発な彼女だが、四六時中ずっと元気溌剌なわけではない。それはうざい。彼女はとりわけ朝に弱くーー遅刻するほどではないのだけれど、僕と違ってわざわざ余計な早起きをすることもない。時間の使い方が上手な奴なのだ。
ーーそんな彼女が、だ。
あくまで褒め言葉として計算高い彼女が、僕がそぞろ歩きを楽しんでいるだけの、まだ人のまばらなこの時間に起きているーーどころかこんなところまで登校してきているだなんて。彼女の務めている生徒会長という役職を鑑みても、学校祭や議会前でもない今日この時間にたるるがここにいる理由が僕には汲み取れなかった。
返答が来ないまま、たるるが靴を鳴らして足を止めた。どうやら言い淀んでいるらしい。

「言いにくいのなら、無理に聞こうとはしないし、それが今ではないだけなら、僕は待ってあげてもいいよ」

こちらがそう申し出てはみたものの、そうじゃあないんだけどね、と間延びした声で言い出し口を探しているようだった。

「最後のうざさをつつきたいところだけれどスルーしてっと。まあ、いいか」

いっぽさきで振り返り立ち止まっていた僕の横に、たるるはそう言って跳ねるように並んだ。そのまま歩き出した後ろを今度は僕が追う。並んだ横顔は、足取りとは裏腹に軽やかそうなものではなかった。

「じゃあ聞き出してしまおうかな。生徒会長としてのお務めなのかい?」
「んー、そんなところかな」
「なんだよ、随分と言葉を濁すじゃないか」
「濁したくもなるの!でも言いたくもなるのよ!」
「なにそれ……」

何くれとなく、彼女なりのやむにやまれぬよんどころ無い事情があるのだろう。それを汲み取るだけのすべてを、生憎と僕はもちあわせていなかった。ほとんど目線の変わらない隣でぶちくされている言葉の端々に耳をそばだてながら、落ちかけたスクールバッグの肩紐を直す。大粒の雨みたいな桜の小雨が、細かく視界で揺れるのを目で追う。また一つ、花弁がアスファルトに臥した。
その時だった。

「今年ーーいや、今月かな。今月に入ってから行方不明者が相次いでいるのはご存知のことよね?」
「ああ、あれか。僕のクラスの子もひとりお隠れしてしまったから。記憶に新しいよ」
「まだ死んでない死んでない。隠れてはいるけれどもそうじゃなくて」
「そうじゃないことは百も承知さ。それで?行方不明者が出ることによって、君が早起きをしなければならない何かがあるっていうのかい?」
「別に、私がしなければならないことなんてないわ。でも私にしかできないことがあるから、こうしてらしくもないことをしているのよ。らしくあるために、らしくないことをしているんだもの、日増しに目覚めが悪くなるのがひしひしと感じるわ……」
「そんなことまで生徒会の役割なのか、それはえも言われぬ有様にもなるね」

大風呂敷を広げて語った春の雰囲気に似つかわしくないため息が、春めかしい色の彼女から零れる。
先ほど今日は、と言ったけれど、訂正する必要がありそうだ。たるるは今日も早起きをして、今日も気が塞ぐ思いで何かとにらめっこをするのだろう。去年の晩秋に生徒会長から引き継ぎをうけてからというもの、呆れるほど忙しない。それが落ち着いたかと息をついた矢先にこれだ。この学校は、たるるに休息を与えるつもりがないらしい。その皺寄せを請け負う僕の気持ちにもなっていただきたいーーと言いたいところだけれど、推薦されて一方的に任された会長の任を身を粉にして責め果たしている彼女を前に、僕の気苦労なんて取るに足らないこと甚だしいのだから、今は何も言うまい。
長すぎない睫毛が伏せられた目を翳らせている。ため息をついたまま、黙ってしまったたるるに笑いかけると、何よ、とけんもほろろな答えが投げつけられた。どうやらお気に召していただけたようで何よりだーー裏返しの反応で。
だから僕はもう一度重ねて笑った。

「たるる、言ってごらんよ。君のためなら僕のろうりょは無尽蔵さ」
「鼻を劈くようなくっさい台詞ねって罵倒してさしあげてもいいんだけど、やめておいてあげるわありがたく思いなさいよ感謝してあげるんだからバーカ!長髪野郎!!」
「長髪は君もじゃん!って……うん?え?どっち?」

今日も強気に元気!とどこかの聖女の名前をした怪盗の決め台詞を叫びながら、たるるは生徒玄関のドアの向こうに走り去っていってしまった。ーー陸上部も脱帽する速さで。取り残された僕も、のったりと校門をくぐる。
時刻は7時と半分を回ろうとしていた。




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