する話


よく考えてみたらーーいや、よく考えなくとも、とてもとてもとてつもないことを体験したのだろうけれど、僕たちはまるでおっとり刀で急かされたかのようにぽかんとしていた。鈍足の感情はまだ追いついてこない。
ただ、今分かることは。

「帰ってきたのね」

そう、僕達は帰ってきたということである。


ゆっくり息を吸うと、屋敷の庭に咲く花の香りが鼻腔に溜まる。ふわりとした甘い香りに目を閉じると、視界以外の語感が研ぎ澄まされていく気がした。

「あら、物思いにお忙しいのかしら?」

ころころと鈴の鳴るような声がして、目を開ける。それなのにいっそう強くなる花の香りに振り返ると、自分とよく似た髪色をした少女が朗らかに笑ってこちらに歩いてくるところだった。
なるほど、花の香りは彼女のせいか。正確に言えば彼女ーーリクルの持っている花束のせい。

「忙しくはないけれど。暇を潰してはいた」
「くすくす。何を考えていたのかしら。まあ、想像は付きますわ。ヴェルデルったらあれからずっとですもの」
「ずっと?僕はそんなにぼうっとしていることが増えただろうか……それは申し訳ない」
「そうじゃありませんわ。ただ、色んなことをその時々に浮かべていたものが、すべて一つのことを考えるようになっただけのことよ」

ーーかくいうわたくしもそうなのだけれど。だから分かるのかもしれないわね。と。
リクルは摘んできた花でちまちまと冠を作りながらそれはそれはおかしそうに笑う。その表情は少女というにはひどく大人びていて、自分よりも長くその目に時を映してきたのだと思い知らされる。
そう。長く生きていると僕なんかじゃあ手を伸ばすこともはばかられるような遠くから物事を考えるようになる節があるーーあの人のように。

「ほら、また」

僕はしまった、と口を噤んだ。そんな僕を見てリクルは声を出して笑う。つられて僕も笑って、 空を仰いだ。

あの日ーー僕達が見知らぬ場所に飛ばされた日。あれからもうすぐ1年になる。僕は少しだけ大人になって、もうあんなふうに無闇矢鱈に喧嘩をふっかけたりしなくなったーーと思う。元来喧嘩をするような気性ではないし、周りの人も穏やかなのだから、比較のしようがない。それが僕自身が成長したから怒らなくなったのだとすれば、そういうことなのだろう。見た目的にもすべからく変化があったけれど、まあ当たり前すぎるので割愛しよう。
リクルはあまり変わらない。それも、仕方がないことだろう。彼女の見た目が変わるものだとすれば、もうとっくに要介護のよぼよぼのおばあちゃんである。リクルは変わらない。面白いことを記憶に留め、面白いことを追い求めて今日も楽しそうに生きるのだ。惜しむらくはそれをずっと隣で支えていけそうにないことである。

あの日、死闇と名乗った彼は、まるでヨーグルトにスプーンを入れるかのように簡単に“扉”を開けてみせた。扉というよりもサーカスの火ノ輪みたいな輪郭に、身を縮ませたのはここだけの話である。断じてびびったんじゃない。
青く温度のない静かな炎がゆらゆらと不安定に円をかたどっていて、その先は今までお菓子を食べていた部屋の壁ではなく、ぽっかり続く黒だった。影でも闇でもなく、どこまでも続く黒はランプの光すら意味なさなそうで、思わず曖眼々と名乗ったよく分からない女を見遣った。グレーなのか紫なのか、光の加減で天蚕糸のように光る髪の毛をきっちりとまとめた彼女は、その髪型と同じようにきっちりと足を揃えて立っていて、あの中では一番手っ取り早く僕の思っていることを理解してくれそうだったのだ。いみじくも彼女は期待通り僕の訝しげな視線にいちはやく気がつくと、大丈夫よ、と続けた。

「この人は死神だけど、みんなのよーくご存知で一番有名な神様と一番仲良しなの。今回もその人の尻拭いできたのよね?」
「うんこがうんこ拭いてもうんこなんだけど、肥溜めってうんこでもあり肥料でもあるから解決できるだろってことで引き受けてやっただけだ。別に人助けでもねえし、率先したわけでもねえよ」
「1回の台詞の中で何回言うんですか」
「おう、お前の親父の尻拭いだぞそんな口聞いていいのか蛇野郎」
「ねえ僕のカーストってこんな最後のシーンになってもなお回復しないの?」

エヴァという穏やかそうな少年がまだ何か喚いていたけれど、僕は曖眼々という女性の言葉のみを咀嚼してみた。けれどよく分からなかったのでとりあえず帰れる、大丈夫、とだけ反芻する。
あとは火ノ輪を潜るだけなのだけれど、真っ黒なそれに足が竦む。けれどリクルを先に行かせるのは騎士としての心が許さなかった。

「いつまでグダグダしてるのよ」
「え、」

ちょっと待て、という前に背中に細い衝撃。転びそうになりながら数歩前に進んで振り返る。そこには青い炎の枠の向こうでを見開いているリクルと腰に手をあててふんぞり返るたるるがいた。犯人は言わずもがなである。
ーーと、いうか。

「ヴェルデル、あなた普通に潜っていらっしゃるじゃない」
「……やっぱり?」
「ねー!なんてことはないでしょ?信じるものは救われるのよ。大丈夫って神様が言うのだから大丈夫なのにビビってるの見てるとこう、クイッと」
「お前は黙れピンク頭!!!」

思わず指をさして叫ぶ。まだ喉の奥でくすぶる罵詈雑言は無尽蔵にあったけれど、それを飲み込んで指を下ろした。
もうーーもういいと思った。
僕は市場近くにーー炎の枠に片手を置いて我関せずとそっぽを向く猫耳の天鵞絨の髪をした彼に向き直った。
彼は神さまだという。死神ーーだという。

「あの死神様。僕がこっちに跨いでしまったけれど、特になんの変化もないんですけれど……」

恐る恐る、畏れ多い神に問いかける。死神様はなにということもなさげにこちらに目を向けた。その動作は音のした方を確認するだけのような、まったく関心のないもので。

「ん?ああ、だってお前らはお互いがお互い一緒じゃねえと不安がるだろ。不安は不安定の元で不安定は精神からきて身体に繋がる。上手く転送できなかったらまたお前らを探して回収して転送しなきゃいけない。それはとてもめんどくさいことなんだよ」
「えっと、つまり、僕達二人が一緒にここを超えないといけないということでしょうか?」
「そんなとこ。お前らの覚悟ができ次第教えてくれればいつでもさようならできるようにはしてあるからごゆっくりやれや」

ごゆっくりと言われても、あとはリクルがこちらに来るだけなのだけれど。
拍子抜けした僕らの間には例えにくい微妙な空気が流れていた。ごくり。音はしなかったけれど、リクルが意を決したように唾液を飲み込むのがわかった。

「行きます」

リクルがこんなにも顔を強ばらせて緊張するだなんて、そういえばそうそうにお目にかかれるものじゃあないな。なんて場違いなことを考える。僕と違ってひとつの大きな柵を持たない彼女は、いつも奔放でいつも無鉄砲でいつも柔らかな世界にいた。森羅万象生きとし生けるものが怖がるはずの寿命を持たないーーいや、恐怖するほど短な紐ではない彼女。それは怖いもの知らずとも言えることだった。
そんな少女のナリをした彼女が、まるで本当に少女になったかのように色の薄い唇を噛み締めてドレスの裾を持ち上げている。揺らめく炎に温度はなく、空気の流れすらないけれど、ちらりと視界に入れては裾に燃え移らないか気にしているようだった。
何故だだったのか、今でも分からないけれど、僕はそれを黙って見つめていた。いつものように手を貸すこともなく、ただ、黙って。
よしんば、リクル越しに各々好きな様に行く末を見守る別世界の人達に意識を向けていた。
ーーかつん。
細いヒールが、がらんどうな黒に染み混む。音に合わせて素知らぬ顔をしていた死神様が目だけでこちらを気にかけていて、あ、やっと踏み出したのかと他人事のようにぼやけたことを考えた。

「踏み越えたーーいや、踏み戻ったのね」
「まだ踏んづけてるなうって感じですけどね」
「そんな擦れっ枯らしなこと言わないの。ここは笑顔で良かったと喜んでお別れを申し上げて手を振る場面でしょう?」
「んー、まあそれもそうですね」

ーーなんて。
赤い髪の少年ーーもうここはそんな容貌の描写ではなく、彼の名前であるエヴァと呼んでやることにしよう。彼女、曖眼々さんも、そして、くそファンキーファッキンピンク頭のことも、たるると呼んでやることにしよう。(本名を忘れたわけではない。断じて……何だっけ)
ふわりと手に温もりが重なる。圧倒的黒の最中で、僕の手をつかめる者なんてーー掴もうとこちら側にこようとする者なんて一人しかいない。僕は確認するまでもなくその温もりを掌で包み込んだ。小さくて柔らかなそれは掌の中で強く握り返してきた。
まず何を言うのが正解なのだろうか。ありがとうと言うのもどこか違和感がある。何故ならば僕達は自分からお邪魔したわけではないのだから。あまつさえ向こうの失態と向こうのお遊びに付き合った結果なのだから、感謝の言葉をまず僕の口から申し上げるのはなんだか違う気がして。
そんなことを頭の中でぐちぐちと考えていても、埒が明かない。僕は頭を振り払ってリクルの腕をわざとらしく引いた。

「帰ろう」
「ええ、帰りましょう」

そう、頷き合う。
ーーじゃあ行くぜ。
死神様ーー死闇さんが2度目の決め台詞を呟いた。
そのおりしも、温度のない炎がさめざめと枠を燃やして小さくなっていく。ぽろぽろと黒の奥に埋まっていく景色にほんの数時間にも関わらず一抹の寂寥感を覚えた。
なにか、何か言わなくちゃいけない。
でも絶対に感謝したくないし謝りたくないけれど!

「ばいばい!」

たるるがにっぱりと人懐っこいであろうむかつく笑顔で手を振ったのが見えた。それにつられて、エヴァも手を振る。彼はどこか後ろめたそうに眉を下げつつだけれど、その口元は笑顔を認めていた。

「ありがとう、おはぎ、とても美味しゅうございましたわ」
「お口に合って何よりよ。こちらこそ申し開きができないけれど、楽しくもあったわ」
「わたくしもですわ」

僕がたごまっている間に、ろうたけた二人が笑顔で小さく手を振りあった。落ち着いた雰囲気に僕の口からもぽろりと言葉が転がっていく。

「忘れてなんかやらないからな!」

口走ってから自分でも意味が分からないことに気がついて、結局口を噤んだ。

「ふ、ふふあはははは」

誰が吹き出したのか、分からない。けれどみんな笑っていて、我関せずだった死闇さんすら肩を震わせていた。

「忘れんじゃないわよー!!!」

たるるが言う。あいつとは、きっと長く付き合っていればもっと仲良く言い合えたかもしれないなと思った。そう、まるでト〇とジェ〇ーみたいな関係に。

「本当は調整して忘れさせなきゃいけねえんだけど、ま、いいんじゃねえの」

そう、誰に向けたのか悪戯めいた口振りで了承した死闇さんが、窓をふくみたいにぽろぽろと閉じかけていた炎をかっさらった。

視界に広がるのは圧倒的な黒で。声も音もなく、光もなく、これが視界であるのかさえ疑問を呈したくなるような黒。
ーーちょっと待て。帰り方を聞いてない潜ってすぐ帰れるわけじゃないならどうしたらいいというんだ。
ちらりとリクルを見る。いささかしゅんとした耳に不安を煽るような言葉を飲み込む。
大丈夫、少し歩こうか。と言って手を引こう。

「だい、」

そう、口を開こうとした途端ーー上から細く光がさした。まるで布巾着を開けるように広がる光が眩しくて目を閉じる。揺れてるわけじゃないので足元がおぼつかないだとか落ちそうだとかそう言った危険は感じないけれど、だからこそ何がどうなっているのか、目に見えない不安が黒の地面からはい出てきている気がした。
そしてーー


「結局、どういう原理ーーいや、原理なんて不明なのだからそうだな、どういった過程で戻ってこれたんだろうな」
「さあ?神さまのことを知るのは罪ですわ。神のみぞ知るならば、私たちは無知を全うするべきでしてよ」
「それもそうか」

なんて。お互い笑い合う。
本当は忘れていなければならなかったこの思い出話をしている時点で、無知を全うすることは難しいんじゃないかとも思ったけれど、それを知らないフリをする。
僕達はあの日、たまたま知らない人たちと会っただけ。それだけで僕達の世界とかそんな細かな情報は何も知らない分からない。そう思うことにしよう。そうでなければ、記憶を抜き取られて、忘れたことさえ忘れられてしまいそうで。
きっとリクルも同じように思っているのだろう。彼女はあれからほんの少しだけ言葉を選ぶ様になった。
ただ、僕達は今日も思い出す。
きっと明日も思い出すだろう。

「お喋りをするならお茶にしましょう、ヴェルデル。グリーンティ、いれるの上手になったのよ」

キッチンの棚に缶がひとつ増えた。それが無くなるまではきっと明日も明後日も、僕達は不可思議なあの日の香りを楽しむのだろう。
ーーさあ、お茶にしよう。
僕はリクルから花を受け取ると、一緒に庭へ歩き出した。




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