結人さんちの子をお借りしました。


かちり、かちり。
時計の音がする。振子時計の重たい音だ。
静かな屋敷の中で、夏虫色の柔らかな毛を掻きむしりながら、性別のわりに長い睫毛の奥の目をしょぼしょぼとさせて男ーーグーリーは机に向かっていた。
いつもならけたたましい音でもしそうなほどトンデモな実験を繰り返し、経過と結果を研究と称してまじまじといじくり回す日々を送っているはずなのだけれど。
今日の研究室は少しだけ違った。
違わざるをえなかった。

ことのあらましはおおよそ六時間前、なんと明朝6時のことである。時針と分針がきっちり並んだ美しい時計の形は、いつもなら視界にも意識にも入れることはないだろう。けれどもグーリーの意識が汲み上げられると同時に、そのまっすぐな針たちが目に入った。
何が起こったというのか。意味が分からない状況にこれは夢なのでは?と瞬きをするために瞼を閉じーーれない。
正しくは閉じようとすればするほど逆方向に瞼がこじ開けられている状況なのである。
グーリーは心と口で同じことを思った。

「痛い痛い!乾く!眼球がかぴかぴになってしまうよ!」

ぎっちりとめくれそうなほどこじ開けている指と、それを剥がさせまいと固定する指はひどく冷たい。動くために必要な新陳代謝の温もりが感じられないどころか、体温に見捨てられたような、そのまま硬直してしまいそうな、そんな冷たさである。
ーーと、なると。犯人は1人しかいない。
自分にここまでの強行を平気なそぶりでやってのける人物は1人しかいない。2人もいてたまるか。
その冷たい指先の持ち主は、悲痛な訴えにも耳を傾けることはないようだ。叫ぶ声をものともしない、あからさまに自分のタイミングで喋りだした。

「おはようございます博士。英語で言うとGood morningです。フランス語でいうとボンジュールでしょうか。朝の六時ぴったり、とても気持ちのいい時間ですね」

「こんな目覚めがGood morningであってたまるか!!!俺はグットのGの字も認めないし時刻に至っては見ざるをえないよ!」

「グットのGはグーリー博士のGです。そして大変なことをしでかしてくださった博士のGはゴミ野郎ゴキブリホイホイにゴーして轟沈してしまえのGです」

「つまりはゴミ野郎ゴキブリホイホイにゴーして死ねばいい朝ってこと?!というかどのGだよ!ゴミもゴキブリもゴーもGだよ!!ってそんなことが言いたいんじゃないんだよそろそろ本格的にドライアイ(物理)になりそうなんだ。俺が何かしでかしたというのならば、教えてくれてもいいんじゃないかな!」

「……なるほど、むべなるかなです。それではご説明させていただきます」

「できれば俺の目が安全な体制で頼みたいところなんだけれど!」

「…………かしこまりました」

冷たい冷たい指先と同じくらい冷たい言葉がやっと離れる。反射的に瞬きをすると、瞼が眼球の上をぎこちなくすべる感覚がして、涙がでた。

「なにをするんだよーーカルちゃん」

「おはようございます、博士。お目覚めのほうはいかがでしょうか」

「二度寝はできそうにないけれど如何せん目をうるおすのに必死で目が開かない」

「それは何よりです」

生理的に流れる涙をぬぐいながら振り向く。
ーーああ、やっぱり。
グーリーの滲んだ視界に、ワインレッドの垂れ下がった三つ編みが揺れた。やあ。白くて白々しい寒色じみた女性の名前を軽快に呼んでみる。もちろん皮肉である。なんでしょう。けれど馬耳東風の如くことなさげに肌と同じくらい白い看護服に身を包んだ女性ーーカルヴァドスは何もわかっていないように首を傾げた。
その手には、ひとつのファイルが握られている。

「朝から熱烈な御挨拶をどうもありがとう。おかげで目が暑くて乾いてしまったよ。それで?こんな時間にわざわざ瞼をこじ開けるような真似をして俺を起こした理由はなんだい?おおかた、そのファイルだろうけれど」

「ええ。ご名答です。さすが妙ちきりんな方向に螺子がひん曲がっているとはいえ天才科学者です。お察しがよくて何よりです」

「なに、なんでそんな機嫌悪いの?」

むっとしながらボサボサの髪の毛をてぐしで整える。今日の彼女は1段と口が悪い。言葉遣いが悪いわけではないのが良いところとはいえ、口が悪い。ここまで口が悪いのは去年の暮れに晩ご飯の主食をショートケーキに、汁物をプリンアラモードに、副菜をベリータルトに、主菜をフルーツタルトしたときぶりだ。(あれはたしかにこちらが悪かったと思う。)
理由もわからずなじられるのはさすがに腹の虫がおさまらない。グーリーは睨め回すような視線をカルヴァドスの口元に向けた。この減らず口め。ばか、あほ、美人、くそかわナースめ。
ーーん?
そこでふと、彼女の血色の悪い腕に抱えられたファイルが目に止まった。薄い青のファイルはごく一般的な、どこででも手に入るようなもので、伺い見る限りでは特に異常ら見られない。さすがにまっさら、というわけではないけれど、少々使い込まれた別段この研究室に存在していることに対して疑問を抱くものではないように見えるが。それとも異常が見られないのがいけないのか、そもそも彼女に抱えられている時点で疑問を抱くべきなのか、二度寝できないほど目が覚めたとはいえそれなりにぼやけた頭で考える。
その正解は、顔色をひやりと正したカルヴァドスの平坦で事務的な説明によりつまびらかになった。

「こちらをご存知ありませんか?」

「へ?それは確か、研究結果を纏めた資料ファイルだよね?ご存知もなにも、そこにあるじゃないか。研究結果が知りたいのならば……」

「ええそうです。珍しく人のためになる真っ当な研究の資料です。幸いなことにこれはその結果のみを認めたものなのですけれど、博士は昨日、パソコンにへんな液体をぶちまけてパソコンごと資料データを潰してしまいましたよね?印刷していたからよかったものの、データを吹っ飛ばしたばかりです」

「お、おおう。そうでした」

「つまり、この印刷したものがただ一つのデータの残りになり、この印刷を元に書き直さなければならない。博士はそう仰られていました。写すのでしたら入力するだけですので手間はかかりますけれど思考はいりません。私でも手伝えます」

けれど。カルヴァドスはそこで言葉を止めた。
けれど?と聞き返す。けれども。彼女は手に持ったファイルをはらりと開いた。はらり、とである。資料の分厚いはずの音がーーしない。
グーリーは息を飲んだ。

「な、い……?」

そんなはずはないと、手を伸ばす。けれどもしかしその手は研究資料のファイルを掴むことはなく、いみじくも空を切った。
ーーそ、そんなはずはない。だって昨日確かに。
そんなグーリーの困惑に、何度目かになるため息をつきながら、カルヴァドスはさらに追い討ちをかけるように口を開いた。

「そしてこちらに、昨晩、うたた寝をしながら研究に没頭していた博士が書き殴ったメモがございます。覚えていらっしゃいますか?」

「…………ウン、オボエテルヨ!」

「いずれ叩き込んで差し上げますね。ではご自身でお書きになられたもの、ご覧いただけますか」

「え、ええいままよ!見るよ!見ればいいんだよね!?」

「はい」

なかばふんだくるように紙束を受け取る。
そして目を通してーー彼女の態度をようやく理解した。

「昨日の、資料……」

「よくおわかりで。ご丁寧に裏表びっしりとまたも身にならな……げふんげふん非生産的な実験で上書きしやがっていますね」

「意味ほとんど同じだよカルちゃん」

「は?」

「ごめんなさいカルヴァドスさん今すぐに書き直します。締切はイツデスカ」

グーリーはベットに潜り込みたい気持ちになった。ふかふかの布団にくるまれて、時計の針が最もシンプルな形になる時間まで眠っていたい。
けれどケーキ事件と同じくらいーーいや、規模でいうとそれ以上ーーの失態を犯したのは自分自身である。情状酌量の余地なく、反論も言い訳も言い逃れもできるわけがない。
流れ出そうになるため息と弱音をごくんと飲み込んで、グーリーは無造作にくくった髪の毛を後ろに流して立ち上がった。

「先方が受け取りにいらっしゃるのは明日ですので、今日のうちに終わらせておいたほうがよろしいかと。そうそう、私、博士を信じていますよ」

はいはい、と媚びる言葉を流してきっちりと脚を揃えて立つカルヴァドスの横を通り過ぎる。振り返り際にちらりと視界に入った彼女の表情に、皮肉も嫌味も冗談も、何もかもがくしゃりと口の端を釣り上げる材料になるだけだった。
ーーグーリーがカルヴァドスに弱いのは、仕草や言葉に限られたことじゃあないだろ、と誰かが言った気がした。


それから六時間、正しくは五時間と48分、もうそろそろ太陽も傾きはじめる時間である。
パソコンの画面を右往左往していたせいで、ブルーライトに焼かれた目はしょぼしょぼを通り越してだるんだるんになりかけていた。
死ぬ気でやれば3日かかったデータ整理も五時間で終わるものらしい。火事場の馬鹿力ってすごい。おかげで指先と脳みそは鈍い痛みを主張しているけれど、気にしたことではない。
あとはデータのバックアップと印刷の完了を待つだけである。ここで雷でも落ちないかぎりはつつがなく終えられるだろう。
ふう、と背もたれに仰け反りながら、壁にかかっている時計を横目で見やる。遠近感が麻痺したしょぼしょぼの目では秒針どころが数字すら見えなかった。

「今何時……」

「13時を回ったところです」

「う、わあっ!カルちゃんいたの!」

「博士の眼球がご老人のようにしょぼしょぼしてきたあたりからずっとおりました」

「結構前からいたんだね!?」

ーーええ。ところで終わりましたか?
労いのひとつすらかけてくれない無慈悲な確認の問にとりあえず頷く。あとは終了を待つだけのようですね、とカルヴァドスはパソコンの画面を見てから信用したようだった。

「それでしたらお昼ご飯でも召し上がりませんか?アフタヌーンティーにはまだ時間がありますから」

だらしなく背もたれと一体化しそうなほどだらけた姿勢のグーリーへこてんと首をかしげてお伺をたてるカルヴァドスに、しゃきんと背筋が伸びる。
イエスかノーか。疲れているのならばもう少ししてからにしましょうか、なんてこちらがどつしたのと心配しそうなほど手のひらを返して気遣いをチラつかせるカルヴァドスを見たら、答えなんて一択だった。

「もちろん、いただくよ」

そう言うと、彼女はほんの少しだけ嬉しそうに言うのだ。

「断られたとしてもその口にケーキの材料をねじ込むつもりでしたよ」

と。
ーーうん、イエスと答えておいてよかった。


庭にはもうそれなりの準備がしてあったらしく、育てている花が満開の季節ということも相まって、そこはまるで絵本にでてくるお屋敷のワンシーンみたいになっていた。

「今日はセイロンティーにしてみました。香りが主張しない種類ですけれど、やっぱり楽しみたいでしょうと踏んで、軽いサンドウィッチを作っておきました」

そう指差し確認をする彼女に、珍しいこともあるものだなあなんてにやついてしまった。
予め庭にセットしておいた青銅のくすんだテーブルは綺麗に掃除されて外に出していようには思えないほど汚れがない。月日で削れた粋なくすみだけがほどよくアンティークらしさを認めている。その上に並んでいるサンドウィッチは朝ごはんを食べていないグーリーの胃に対しての気遣いなのか、小さくて野菜がたっぷりとあしらわれているものばかりだった。セイロンの落ち着いた香りと、それを邪魔することなく仄かにパンと野菜の間からハムの匂いがする。卵はこの陽気だと匂いが人一倍たってしまうから抜いたのだという。
なるほど、凝り性なまでに真面目な彼女らしい取捨選択だ。
グーリーが座るのを確認して、カルヴァドスは丸いポットに手をかけた。透明なガラスのポットの中では、開いた茶葉がそっと落ち着いて色を出しているところだった。赤みのある深い茶色をたゆんと揺らしながら、カップに注がれていく。

「どうぞ」

しっかりとソーサーとティースプーンがマナー通りに差し出される。グーリーの感謝の言葉を聞くよりも先に、自分のティーカップへと紅茶を注いでいく彼女に歪みないなと思った。
博士と助手という立場こそ違えど、そこに生者と死者という種別こそ違えども、この研究室には上下関係というものがほとんど存在しない。それはひとえにグーリーがそういうことを重んじないきらいがあるからだろう。
ーーみんな友達で、みんな家族、それでいいじゃないか。
だからお茶をする時も当然全員分のお茶とお菓子が用意される。饗すわけではなく、ごく当たり前に。
カルヴァドスが椅子に腰を落ち着かせたところで、グーリーはにこりと笑って紅茶に手を添えた。

「晴れてるなあ。明日は暑くなるかな」

「天気予報ではこのまま天気は良好、気温は明日のほうが2度ほど涼しいとのことです」

「涼しいんだ? まあ、室内はエアコンがあるから暑くても寒くてもいいんだけどね」

「けれど直射日光にはゆめゆめ気をつけてくださいね。機材も液体も個体も気体も、熱によって爆発したら洒落にならないものばかりですので」

「大丈夫!冷蔵庫に入れらるものは入れてるし、俺片付けは得意なんだよ!」

「じゃあいつもしてください」

「それを言われると面目ない」

へらり。誤魔化すように笑う。それを分かっているのかいないのかーーおそらく全てを飲み込んだうえで、カルヴァドスはただ一言、お願いしますね、と言った。
暖かな紅茶が、彼女の冷たい唇に飲み込まれていく。音の少ない品のいい仕草、眼鏡の奥から見える長いまつげ、グーリーとは反対にきっちりと櫛を通して整えられた三つ編み。誰かが着飾った人形のような造りをしていると、皮肉めいたことを思う。

彼女には生体反応がない。例えば痛みで痙攣を起こしたり、分かりやすいのは膝を叩くと足が上がるという遊びも、彼女には通用しない。照れて顔が赤くなるところなんて見たことがない。(見せて欲しいけれども)
何故ならば、カルヴァドスはーーゾンビだから。
ゾンビ、リビングデッド、おきあがり、地域で呼び名こそ違えど、その根源は死者が蘇る≠ニいうものである。あまたの文献でもある通り、生者として蘇るのではないところがミソだ。死者は所詮死人であり、生命を吹き返すことはない。
生きる屍ーーまさにそのとおり。言い得て妙だと思う。
ある人によれば、ゾンビは死んでいるもの。ある人によれば、ゾンビは生きているもの。
その判断基準はそれぞれが持っており、一概に統一できるものではない。

ともあれ、なかなかにグーリーは思う。
ゾンビはゾンビという生き物≠カゃあないのかと。

「ねえカルヴァドス」

「なんでしょうか」

「生きるって、なんだろうね」

彼女ーーカルヴァドスが、その身がゾンビという個体である彼女本人が、どう思っているのか、それが聞いてみたくなった。
当たり前のように、昔みたいに目の前で紅茶を飲み、サンドウィッチをいただく姿は一般的に知られているゾンビとはかけ離れている。半身のみを有体に棺桶に突っ込んでる人を聞いたことはあるけれど、カルヴァドスはそうではない。1度棺桶を閉じられた人間だ。
彼女にとって、自分自身はどういった存在なのだろう。
カルヴァドスは紅茶を静かに置いて、こちらを見やった。

「……突然、哲学の話ですか?珍しいですね、化学的な、科学めいた話ならのべつまくなし、1人でえんえんと博士がお話されることはありますけれど、私に問いかけるだなんて」

「んー、なんとなくだよ。ほら、哲学ってそれぞれの主張みたいなものだろ?普遍論争なんてものもあったとはいえ、どちらも正しいことを言っているのと同じだったんじゃないかなって。唯心論と唯物論はいい例だよ。どちらかが間違えてるかなんて証明できないんだ」

「たしかに、むべなるかなですけれど」

「いいじゃないか。たまにはカルちゃんの持論をたくさん聞きたいんだよ」

「私なんかが、持論を提唱したところで博士の知識を揺さぶるにはいささか力不足に思えます」

「そんなことないさ!持論や自論は、揺さぶるものじゃない、積み重ねるものだからね」

「なるほど、そうきましたか。まあ、そういう解釈もありますけれど」

カルヴァドスはまた紅茶を持ち上げて、それに目線を落としたまま口を開いた。

「そうですね、私みたいな者ですらないモノが申し上げるのも烏滸がましいのですけれど、私はーー時の実感だと思いますよ」

「実感?」

「はい。私の結論から言うと、私自身は自分を生きていると思っています。こうして博士や他の子たちとお茶をしたり資料をまとめたり、それが大変だったり、時折ある簡単なものを楽だと感じたり。そういう時間の流れの重さを感じることこそ、私は生きている≠セと思いますよ」

もぐもぐも咀嚼する彼女は、自分を生きているという。
グーリーはカップに口をつけたまま、ふむ、と目の前の風景ごと記憶に刻む。
彼女といるのは楽しい。酷い言葉でなじられようとも、その奥にある優しさを知っているから。それが生きているという実感なのだろうか。
風が気持ちいいと感じること。
暖かくなってきた日差しに目を細めること。
資料に落書きしてしまって怒られたこと。
その尻拭いを誠心誠意やり遂げたこと。
カルヴァドスのお茶が冷めてもなお美味しいということ。
グーリーは紅茶をソーサーに戻してサンドウィッチを手に取った。口に含めばしっとりとしたハムとレタスがパンの食感を和らげている。うん、美味しい。緩む顔色をこらえることなく微笑むと、お口に合うようでよかったです、なんて優しい言葉の笑顔が返してきてくれた。
彼女は喜楽の表情が乏しい代わりに、こうやって声色でその全てを奏でてくれるのである。

「さっきの、」

「ん?」

カルヴァドスは顔色を正したままーーいつも変わらないのだけれどーー言葉を続けた。

「さっきの話です。では私からもお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「ん?いいよ」

「博士は、生きていると思いますか」

「俺自身がってこと?そうだね、俺は活き活きしているまで生きていると思ってる」

「それは、何故ですか?」

その問いかけに、手が止まる。
何故ーー生きているのか。
何故ーー生きていると思うのか。
はて、と思考に1度耽る。グーリー自身はまだ一度も生命活動としての死を体験したことがない。それは消去法で生きていることになってしまうのだけれど、そういうことではないだろう。
彼女の提示した、持論。
生きている実感。

「カルヴァドスは料理が上手だね。とても美味しい。他の子たちも一生懸命頑張ってくれて、それを俺に報告してきたり自慢してきたり、可愛いなって思う何時だって暇を持て余すことなく過ごしている、笑って泣いて、多忙な限りだよ」

「?なんですか、突然」

「そうやって、忙しいなって思うことが、俺の生きている実感なんだよ」

「…………とはいうものの、戯言でしたね。博士は私達とは違って百人いれば口を揃えて貴方は生きている≠ニ言われるのでしょうから」

「どうだろう?例えば俺がーー俺じゃなくても好きなことを奪われて、あるいはもとから好きなこともなく、ただぼうっとするだけの人間ならば、それは虚無であり、すべてが虚無で構成されて考えることを、生きていくためにどうするべきかを考えなくなってしまった人間は、どれだけ心臓が動いていようと、生命活動をやめたことがなかろうと、それは死ではないのかな。カルヴァドスが言ったように、生きている実感のない個体は、死んでいるようなもので、ふと虚無に包まれた時間は、それは狭義の死に他ならない、と俺は思うな」

「博士は、狭義の死を体験したことはごさいますか?」

「あるよ」

即答する。人は考える力を持った葦であるとかの哲学者は言っていた。そのことすら忘れるほどの虚無に身をやつしてしまったことがある。
けれどそれを彼女や今は出払っている人達に言うことはないだろう。墓場の果てまで抱え込むつもりだ。
きょとんと疑問符を浮かべて、次に質問してくるであろうことがらを遮るように笑う。こうすればカルヴァドスがこれ以上ふかぼりしてくることはない。彼女は良くも悪くも物わかりが良すぎるだから。
ーーそうですか。すべからくこれ以上聞き下げても無駄だと分かってくれたらしい。ため息まじりにそれだけ呟くと、彼女はまたサンドウィッチを食べはじめた。
なんでもないティータイムに、こんな深い話をしてみるのもまた一興かもしれない。
今度はみんなでティーパーティーでもしよう。そしていろいろな話を聞こう。
聞きたいこと、知りたいこと、言いたいこと、言われたいこと、たくさん話そう。
今は忙しなく立て込んでいるものがあるけれど、片付いたら、そうしよう。
グーリーは飲み込んだサンドウィッチの味を上書きするように紅茶を含む。セイロンの柔らかな香りが風と一緒に鼻を通り抜けた。

「ねえ、カルヴァドス」

「はい、いかがなさいましたか。私達のグーリー博士」

「今日は、いい天気だね」

彼女は答えなかった。
その代わり、風に撫でられた髪の毛の隙間から、伏せた目元を緩めたのが見えた。
ーーああ、今日はゆっくりと生きているなあ。


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