短編BL小説


 恋愛というものを、僕は生まれてこの方したことが無い――と思う。
 俗に言うリア充が妬ましい嫉ましい。
 ――ああいやだ。こんな自分も、他人も、大嫌いだ。
 地面を睨んでいた目を上げる。色んな人の笑顔がやたらと目について仕方がない。感情がきらきらと輝いて見えて、そのあまりの眩しさに目を細めた。
 羨ましい、とは思う。
 素敵な恋がしたい――とも思う。
 けれどもしかし、無理矢理そういうものをしようとは、どうしても思えなかった。学校祭間近にこぞってさほど好きでもない相手に告白してイベントを楽しむような、そんなことはしたくなかった。ちっぽけなプライドというものだろうか。自分は偽物を手に喜ぶほど安くないという。
 やがて望みすぎたものは歪曲してしまった。
 僕には縁が無かっただけ、縁さえあればそれを結ぶことができるのに――と。
 だから、だからこそ、縁は見逃さない。
 奇しき縁を取り零したりはしない。

「何で下向いてんの? 眩しいの? 何が眩しいのか、聞かないでおいてやろうか?」
「.......」
「とりあえず、これ――サングラスやるよ」

 零したりは――しない。


 小寒のこの時期に、僕、昴稲穂は甲斐甲斐しくも中庭のベンチ――ではなく木の根本へと歩いていた。吹き溜まりで吹きっさらしのそこにいる、先客に会うためである。セーターにパーカー、その上からジャケットまで着ているもこもこの後ろ姿に駆け寄る。

「お待たせしました! はい! ジュース買ってきましたよ!」
「おうさんきゅう――って、ええ? 嫌がらせ? 頼んでないけど買ってきてくれることに甘えてる俺への嫌がらせ? お前それならそう言ってくれたほうが嬉しいわ。この季節に冷た〜いはねえよ。さすがにねえよ。大地も身も心も充分冷たいんだからこれ以上なにを冷やせって言うんだよお前の頭か? おおん?」
「被害妄想をしたいのか凄みたいのかどっちかにしてくださいよ。というか、だったらこんなクソ寒いところにいなきゃいいのに」
「人が多いところが苦手なんだよ.......」
「知ってます。だから付き合ってるんじゃないです。こんな甲斐甲斐しく優しい後輩いませんよ。ほら、先輩、ジンジャーエール好きでしょ? 僕ちゃんと覚えてるんですから! 先輩の好きな飲み物も食べ物も朝起きる時間も何処から身体を洗うのかも受けの傾向も攻めの顔つきも」
「後半はみなまで言うなってツッコミたかったのにそれが流れちまうくらい怖いことさらりと吐露したぞコイツ。怖いよ何で知ってんだよ」

「それは、みなまでは言えませんね」と買ってきたジュースのプルタブをかしかしと開ける。ちらりと流し見れば、黒縁メガネの奥の目をくしゃくしゃに細めながら、先輩もちゃっかりプルタブに爪を引っ掛けていた。
 結局飲むなら最初から文句を言わなければいいのに。そうしたら、もっと可愛げがあるというものだ。いや、可愛げは僕の専売特許である。渡さぬ。
 僕は女子顔負けの(以前クラスメイトに言われた)笑顔を浮かべて、先輩の隣に腰掛けた。木のゴツゴツした根元は、お世辞にも座り心地がいいとは言えなかったけれど、そんなことは、今のこの時間のためならどうだってよかった。

 入学式のトキメキも落ち着いて、春たけなわな頃に知り合ったこの先輩は、梅音(めの)先輩という。下の名前は忘れた。誰も呼んでいるところを見たことがないのだ。とりあえず、他の人からはメメくんと呼ばれているので、郷に入っては郷に従えということで郷の外からもそれに倣って僕もメメ先輩と呼んでいる。
 一方的な出会いは、入学三日目の部活紹介の時だった。
 ステージの右側で淡々とベースを弾く様はあまり目立つものではないはずなのに、どうしてかひどく目に留まって、目が――離せなかった。他の子達はボーカルやギターの人にきゃあきゃあと嬌声を上げていて、それが当たり前だと顔面偏差値的にもすべからくそうするべきなのに、どうしてもできなかったのだ。
 それから、廊下で見かけることが――いや、僕が勝手に探してしまうことが増えた。話しかけるわけでもなく、た――見かけるだけ。特定の人とつるんでるわけじゃないみたいだったけれど、グループに入ることに苦労していなさそうな人。物静かで前を歩く方ではないように伺える人。それが僕の勝手な印象だった。
とはいえ、最初はきらきらした人達の中にいるのだから、所謂パーリーピーポーだと思っていたのだけれど、それはそうそうに打ち砕かれることとなる。

「あの、はじめましてで早々なんですけど、何を書いていらっしゃるんですか!」
「.......うん? 何ってびー.......ホァッ?!」
「なになに? BLですか?」
「なんだお前誰だお前俺の前後左右を取るなやめろ! つうか誰だよお前」
「もしかしてえ、メメ先輩って腐男子なんですか?」
「質問に答えろよ。あとボケに対してのツッコミは.......って、いうか、なんで名前知ってんの。まじで誰だよ」
「あ、じゃあ先輩ってホモなんですか?」
「意思疎通をしてくれないか!」

たまたま見かけた先輩は、1人だった。夏に差し掛かろうとしていた日差しを避けるように廊下の端にしゃがんで、何かを読んでいるらしく、僕の存在には気づいていないようだ。
 そっとにじり寄って手元を覗き込む。いじっているのはタブレット端末で、画面に一心不乱に書き込んでいる。読んでいるのかと思ったら書き込んでいた。
 しかも――あまり描写しにくいものを。
 語り手としてはちゃんと言わなければならないんだけれど――そうだとも、そのへんは重々承知している。けれどもけれども、僕にだって言い淀むことの三つや四つ、五つや六つあるのだ。
 突然話しかけた僕に、彼は分かりやすく肩をびくつかせた。
 ――ぞくり。
 まるで猫の毛が産毛立つよつに、背骨がそそり上がった。
 とっさに胸元に画面を押し付けたとしても、もう遅い。この目はしっかり見てしまっている。無駄な足掻きというものだろう。

「ねえってば――」
「ねえってば、はこっちの台詞。まず俺の質問に答えて」
「まずっていうから、先に質問したのは僕ですよ。会話見直します? これ文章なんでスクロールすれば戻れますけど」
「メタいな?」
「ええ、僕って結構リアリストなんですよ」
「リアルとかそういう問題じゃないだろ」
「――で、何を書いていたんですか? まあ見ちゃったんで、大体想像は付いてますけど」
「見たのかよ.......。あー、じゃあ、もういいよ。引くなよ」
「引かないですよお」

眼鏡越しにおそるおそるこちらを伺う目に、ほびっきりの笑顔をぶち当てる。まさに面食らった顔と、少し後ろに引けた重心に、思わず笑みが深くなった。あ、ちょっと三白眼だ。新しい発見である。

「お前の尋ねてきたことは概ねその通りだよ。俺は、BLを読むし書くし――を、隠してる腐男子。けれども――ホモじゃあない。俺自身はノーマル.......だと思う。ああもう、まじで最悪だよ。お前、絶対バラすなよ。タイの色からして1年だろ、これは先輩命令な」
「言いませんってば。だって――僕も同じだから」

 ――は?
 きょとんとした顔に、開かれた目が映える。物腰柔らかそうにその時々で笑うところを見たことはあるけれど、こうやって驚いてるところを見るのは初めてだ。そもそも、至近距離で仰ぐこと自体が初めてなのだけれど。
 僕は未だに抱えられているタブレットをひょいと取り上げた。「あ?! おい!」と小さく声を上げたけれど、阻止できるほどの瞬発力は持ち合わせていないらしい。

「わーお」
「やめろ! 見るな! いっそ殺せ!」
「けっこうディープですねえ。いや、ここは尾籠なと言い換えて.......」
「実況しないでやめてもう殺してくれ安らかに社会的に死にたい」
「何勝手に滅亡思想に陥って死に方まで強請ってるんですか。早まらないでくださいよ。言ったでしょ? 僕も同じだからって。実は僕もこういうの好きなんですよ。オススメの作者さんをそらんじられるくらいには。まあ、僕の場合は投げかけた質問すべてに――イエスと答えますけれど」
「.......冗談だろ?」
「冗談だと思います? なんなら今から好きな作者さん言っていきますね。かぶったら語りましょうよ」
「それは、いいけれど。いや、そうじゃなくてそこじゃなくて――」

先輩は気まずそうに目を伏せた。長い脚が折りたたまれた膝に顎をのせて、チラチラと僕を見上げてくる。ほんの少し三白眼気味の目がチクチクと鋭く刺さる。やっぱり思ってたより目つきが悪いんだなあ、なんて。
 その一挙一動に、目が離せない。困ったり照れたり、いつもは伺えなかった感情そのものが見える。至近距離で、僕にだけ向けたもので。

「お前って」
「稲穂です。僕の名前は、昴稲穂」
「昴か」
「稲穂です」
「すば」
「稲穂」
「いn、ふほ」
「……噛んだ」
「か、噛んでねえし。お前みたいににこにこきゃんきゃん近寄ってくる奴はい……犬彦で充分だろ」
「はあ? さすがに失礼すぎません?! なんですかそれっ! 僕が犬みたいだって言うんですか?」

むっと、不満を顔で押し出す。犬は好きだけれど、昔から犬みたいだと言われることをあまり好ましく思えなかったからだ。まるで言いように手懐けられているような、その時点で見下されているような気がしてならなかった。だから分かりやすく、むっとした――わざと、むっとした。
 僕のとがった声に、1度きょとんと顔を緩めた後、先輩はこれ来たとばかりににったりと笑った。

「犬が嫌いなのか? じゃあさ、取引しようぜ。俺って結構顔が広くてよ――まあ広いだけなんだけれど。犬彦ってニックネームを学校中に広められたくなければ――お前が進んでそう呼んでって言っていたなんて広められたくなけりゃ、俺がそういうホモとかBLとか好きなこと、誰にも言うんじゃねえぞ」
「そんな事しなくなって広めないですってば。それに例えば僕が違うよって言い触れ回ったところで年と3年は先輩のほうを信じるだろうし、部が悪いですよ」
「どうだか。俺みたいなフラフラしてる奴は絶対的な味方になってくれるって確証を人に持つことはねえし、持たれることだってないよ。顔が広くてもそういうところはシビアなもんさ。だからどうにか手を打ってお前.......」
「稲穂」
「.......犬彦に広められないよう言葉やモノとして言質とらねえと、信用ならないの」

「まじで言うなよ」と再三念を押される。深く膝に埋められたせいで表情こそ伺えなかったものの、丸められた背中とシャツから覗く首の骨が、僕に弱気なんだよと見せつけている。
 優位のようで――決して上に立とうとしない。
 命令しているようで――後輩の僕に頼み込んでいる。
 そんなことに気付いたらもう、背中がむずむずして、鳩尾のあたりが持ち上げられているような感覚になった。
 僕は釣り上がる口角を抑えることなく笑う。
 信用できないというのなら、疑うことを諦めさせればいいんだもの。

「じゃあこう言い換えましょうよ。 秘密を共有しましょう*lも言われたくないし、言わない。その代わり僕のこと監視してください。僕は見返りに先輩と趣味を語り合います。今まで隠してきたんでしょう? 楽しくおしゃべりできるだなんてヲタクとしては早口になるほど嬉しいじゃないですか!」
「確かに監視するのは――.......ってあれ? 待ってお前のメリットでかくね?」

先輩が顔をちらりと上げる。「そんなことないですよう」それに合わせて、おでこを突き合わせれば、先輩はまた顔を膝に埋めてしまった。

「ちかい」
「で、どうですか?はいですか?イエスですか?うぃーですか?スィーですか?ヤーですか?んでーぃよですか?」
「最後初めて聞いたぞ、それはどっちの返事だ?」

余韻すら端に流れてしまうくらいたっぷり間を取って、先輩は僕の問いかけを咀嚼するように頷く素振りを見せた。まあ、全部はいなのだけれど。考えを飲み込むというより、答えを反芻しているようなそれに、催促したい気持ちを抑える。
 ――はあ。ため息が零れる。僕ではない。僕は期待で溢れそうな口を抑えるためにむしろ息を止めているのだ。そろそろ苦しい。
 「そうだな」小さくてスラックスに滲んでしまうのではと思うほど息のかかった声が耳に届いた。

「そういうのも、悪くねえな?」

近づいたのは僕とはいえ、顔を上げた先輩の、あまりの至近距離の笑顔に(あと止めていた息のせい)ノックアウトされたのは僕のほうだった。

■■■

「と、まあ冒頭に戻るのだけれど。回想長すぎたなあ」
「何言ってんだお前」

結局、大人しくジンジャーエールを飲んでいる先輩に何でもないですよ、と笑いかける。ふうん。それに疑問すら抱かず関心を木の根っこに向けてしまった。
 あの初夏の出会いから、僕の観察するだけの日々は打ち切られた。廊下で見かけるたびに声をかけてはひっついてやった。最初こそ驚いたり困ったり周りの冷やかしに軽口を叩いたりはしていたものの、今となってはアポなし用無しで三年の教室に馳せ参じても「あ、ポチくんが来た!」と、他の先輩に言われる始末だ。
 趣味を理解して共有できる相手に出会ったことがないのだろう。何だかんだ言って、会いに行くと少しだけ前髪を直してすぐにこちらに来てくれる。場所を変えよう、だなんて言ってタブレットの中身を操作し始めるのだ。まったくほとほと、素直じゃない。

「そういえば、この間のオンリーイベントで買った本読む?」
「読みますー! 僕、勉強ばっかりだからイベントとか行けないんですよね。だから羨ましいなあ」
「一日もあけらんねえの? あまり根詰めすぎても要領悪くなるよ」
「そうなんですけど、しないと馬鹿になっちゃうかなって罪悪感が込み上げてくるんですよ。だから、本屋さんで買う専です」
「そっちのほうが勇気いると思うんだけれど.......」
「慣れれば大丈夫なもんですよ」
「犬彦は可愛いから買ってても変な顔はされねえだろ。手を出したくなっちまったりしてな。巷の腐女子の格好の餌なんじゃねえ?」
「んぐっ」

――カワイイ? 手を、だしたくなる?!
いや、僕は可愛いしいい子だけれども、この先輩野郎はさらりと何を言っているんだ。天然か。

「そうですよ、僕はいい子ですよだから大丈夫なんですよ」
「いや、いい子とは言ってないんだが」
「そ、そうだ。そうそう! 聞いてくださいよ! 僕みんなからポチって呼ばれるんですよ?!犬彦が嫌だからってこうしてるのになんでこうなるのー!」
「..............」

僕が忠犬よろしくお昼休みや放課後に先輩を出迎えているからだということは小耳に挟んだから知ってはいる。ちなみに「もしかして二人は付き合ってるの?」と直接聞かれたこともあるのだから、そんな風に周りから見られてるだのんてポチってあだ名もいいかもしれないなんて思い始めているけれど――そうじゃなく。
 それに、こうやって仲良くしている理由は、お互いのメリットのための契約ではない。少なくとも僕はとっては。もう、そういう言葉の区切りで表されると嫌だと思うくらいには、なっているのだ。

「.......先輩?」
「お前は、まだそう思ってる?」
「え?」

先輩はジンジャーエールの缶を親指で凹ませながら呟いた。たぷん、そのたびにまだ幾分も減っていない中身が揺れる音がする。
普段は背が高すぎて見上げることしか出来ない先輩の横顔をまじまじと伺う。少しだけリタッチをサボっているらしい生え際が、少しだけ茶色かった。

「俺は――そういうの無しでお前が俺のところに来てくれるの待ってたりする.......時もある。だから犬彦って周りの奴らには呼ばれたくないし、教えてもいない。ポチってお前が呼ばれるのも、犬って思ってるのが俺だけじゃないみたいで、俺の犬じゃないみたいで、本当は少し嫌だよ」

「お前はそうじゃないんだよな、ごめん」そう目を細めた先輩を、僕はきょとんと見つめることしかできなかった。
 何を言っているんだこの先輩野郎。僕は最初に申し上げたはずなのだ。
 ――質問すべてにイエスと答えますけれど、と。

「すみません先輩。僕ったら勉強ばっかりしすぎて物分り悪いみたいなんで、もっと端的かつ単刀直入かつ簡単な言葉で言ってください」

目を伏せて、視線だけそっぽを向く。先輩が困っている時と迷っている時の癖だ。もしも困っているのなら、僕はなんて悪い子だろう。人を困らせるのはよくないって教えられてるのに。けれどももし、望むらくは思ってることが言えずに、迷っているだけだとしたら――
 それはなんて、願望。幸福への、願望だろうか。

「俺だけの犬彦でいて.......欲しいって、思うのだ。多分ーー独占欲? かも。」
「.......」

先輩は恋をしたことがないと以前話した時に言っていた。女の子にも勿論――男の子にも。
 元々他人に対して感情の薄い人ではあるのだろう。執着とは無縁そうだ。そんな彼の、惹かれるものの条件が性別ではなかったのだとしたら、彼は――彼は今まさに。

「メメ先輩、頭撫でてください」

少しだけ開いていた距離を詰めて、ブレザーに寄りかかる。何でだよ、とぶちくされながらもタブレットを置いて手を伸ばしてくれるあたり、彼は本当に絆されやすい。僕より大きくて筋張った指が髪の毛の間をすいていく。肩に頭を預けてそれを撫でてくれているだなんて、むず痒い。それを享受している先輩も、むず痒い。
 僕は目を閉じて口を開いた。

「先輩、最初に僕とした会話を覚えてます?」
「なんだよ突然。覚えてるけれど」
「僕がした質問も?」
「勿論だよ、俺は顔を覚えるのは苦手だけれど文字や言葉やシチュエーションを覚えることに関しては並外れてるんだぞ」
「あはは、そうでしたそうでした」

こちらから手に頭を擦り付ければ、くしゃくしゃと乱暴に撫ぜくり回される。でも痛くない。

「――僕は質問すべてにイエスと答えますけれど」

ぴたり。先輩の手が止まった。頭を差し出したせいで表情は伺いしれない。それは、相手も同じことのはずだ。僕の表情も先輩には分かるまい。

「独占欲、どんとこいです。僕は最初から、先輩が好きなんですから。ねえ先輩。先輩は――どうですか?」

ただ乗せられているだけの手を掴んで、僕は顔を上げた。握った手は白くてゴツゴツしていて、右手にはペン凧ができいる。この手で、撫でられたりある時は頬を抓られたりしているのだと思うと、なんだか少し興奮した。
 先輩の面差しは、さっきと変わらなかった。目線だけでそっぽを向いたまま。けれど違うのはその顔色で。
 先輩?  寒さからか、ほの赤らんだ耳にもう一度問いかける。口は噤んだまま、こちらを見ようともしない。おそるおそる見上げるだけの時間は、不安不安でたまらなくて、息苦しい。
 ジンジャーエールの缶は親指のところだけ凹み跡が付いている。僕は何かを紛らわすようにじっとそれを観察していた。
 そのおりしも。

「稲穂」

珍しくしっかりと本名で呼ばれて顔をあげる。けれども、視界は暗くて、息が詰まった。

「――.......は?」

すぐに明るくなった世界に、後からやってくる唇が冷えていく感覚と、対照的な頬の火照りに、持っていた缶を頬に当てる。ひんやりしていて気持ちいい。あ、でも手がすごい寒い。
 笑えない。笑えない。反応しないように平常心を保たねばやばい。笑う暇がない。
 ぶわりと吹きさらしの中庭に風が吹いた。風のせいで顔にかかる髪の毛をはらうこともできずに、僕は呆然と真横の先輩を見上げていた。

「そういうことかもしれない」

さらりと耳の横に髪の毛が戻る。色んな意味で一線を取り払ったクリアな世界で、先輩の感情がきらきらと笑っていた。
 先輩の、親指で唇をなぞる様がいやに扇情的で。
 ああ――僕、このまま押し倒されてもいいかもしれない、と思った。



end
Twitterの企画でのお話でした。
ありがとうございます。




ALICE+