貴女は貴女2


 パッセンジャーとコーヒーカップを幾度も見比べているルネッタが何を内に秘めているか、分かっていながらパッセンジャーは目を細めて真っ黒な液体を勧める。
「遠慮なくどうぞ」
「あっはい。有難くいただきます……!!」
 勢いよく一口飲んだルネッタが目を見開いてパッセンジャーを見つめる。その表情に満足した彼はゆっくりと足を組み替えた。
「うっ……に、っがい……」
 それはそうだとパッセンジャーは思う。彼女が愛飲していたのは砂糖とミルクがたっぷりと入った甘いコーヒーだったのだから。
「ブラックはお嫌いですか?」
「い、いえ! パッセンジャーさんが豆から挽いて淹れて下さったんですよね。こんな美味しいコーヒー初めて飲みました!」
 引き攣った顔で更にブラックコーヒーをすすろうとしている彼女にパッセンジャーは思わず吹き出してしまう。
「無理をして飲む必要はありませんよ」
「折角淹れて頂いたのに申し訳ないです」
 以前と変わらないルネッタの優しさに胸の奥がきゅっと痛むような感覚を覚えた。
 カップを半ば強引に奪ったパッセンジャーに目に見えて動揺しているルネッタを見ながら、微笑みながら言葉を続ける。
「これで飲みやすくなったかと」
「ミルクと砂糖を入れて下さったんですね。ありがとうございます」
 恐る恐る口を近づけた彼女は何度か息を吹きかけて冷ましてから一口含んだ。そして幸せそうに頬を緩めた後、もう一度礼を述べた。
「とーっても美味しいです。今まで飲んできた中で一番かもしれません」
「それは光栄ですね」
 パッセンジャーが手ずから入れたコーヒーを美味しそうに口に運ぶ彼女の姿を見ながら彼もまたコーヒーを口に含む。随分甘くなったそれを喉奥へ流し込みながら、ルネッタは目の前の男性を観察していた。
 この人は今何を思い、何を考えているのか? どんな些細な仕草にも注意を払ってしまう自分が居ることに気付いてしまった。それが何故なのか分からないまま、視線を向けることを止められない。
「どうかしましたか?」
「えっ!? あぁ、すみません。少しぼーっとしていて」
「疲れているなら部屋に戻って休まれては? 送りますよ」
 慌てて首を振る彼女だったがパッセンジャーはそれを冗談だと受け取ったらしい。優しく笑う彼の笑顔に心拍数が上がっていくのを感じる。
(私は何を考えてるの……?)
 頭の中でぐるぐると思考を巡らせているうちにいつの間にかコーヒーの大半を飲み干してしまったようだ。僅かに残っているカップの中を眺めながら呟くように声を出す。
「ご馳走様でした。本当に美味しかったです」
「ルネッタさんの口に合ったようで何よりです」
 深まった笑みに鼓動が高鳴っていく。このままではいけないと思うものの、身体が全く言うことを聞いてくれないのだ。それどころか段々と瞼が重くなっていく気がする。
「……あの、パッセンジャーさん」
「はい」
「なんだか眠たくなってきました」
 欠伸をしながら告げるとパッセンジャーは小さく笑って席を立った。そのままベッドルームへと案内されれば、ふかふかの布団に押し込められる。
「隣の部屋に居りますので、安心してゆっくりお休み下さい」
「は、い……」
 額に触れた冷たい掌を感じながら、ルネッタは眠りに落ちていく。意識が完全に落ちる寸前、聞こえてきた言葉は夢現の中でもはっきりと耳に届いていた。
「おやすみなさい。良い夢を」

 寝息を立て始めたルネッタの額から手を退けたパッセンジャーは静かに立ち上がると、カップの後片付けを始めた。暫くして全ての食器類を洗い終えた彼は、再びベッドサイドまで戻ってくると、その傍に置いてあった椅子に腰掛け穏やかな表情で眠る彼女をじっと見つめる。
 彼女の状態が安定するまでルネッタとパッセンジャーの両名は作戦への参加を控えるよう、ドクターから命令が出ていた。
(記憶が戻ってしまえば彼女はまた……)
 先日ドクターからルネッタが仲間を庇って負傷したと聞いた時は肝を冷やしたものだ。加えて、頭部の外傷による一時的な記憶喪失などという不測の事態も発生している。
「私の本心はどちらなのでしょうね」
 ルネッタの髪を撫でながらパッセンジャーが自嘲気味な笑いを漏らす。その瞳には仄暗い光が宿っていた。
「記憶を無くした貴女が私の名前を呼んだ時、どれだけ歓喜したことか……ですが、今の貴女にとっては私はただの見知らぬ他人に過ぎない」
 髪に触れていた手を頬へ移動させ、壊れ物を扱うかのようにそっと触れる。指先で肌の上をなぞるように滑らせると、くすぐったかったのルネッタが小さく身じろぎをした。
「早く思い出して欲しい。ずっとこのままで居たい……どちらの気持ちが真なのか」
 記憶が戻らなければルネッタは危険な作戦に赴き、傷を負うこともないだろう。だが、それは同時に彼女本来の姿を目にすることもないということだ。
「──私は一体、どうしたいのでしょうね」
そう呟いたパッセンジャーの顔に普段の余裕そうな微笑みはなく、その代わりに切なげに歪んだ表情を浮かべていた。


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極夜