案外脈はあるのかもしれない


 最後の一枚に目を通したドクターの口角が僅かにつり上がってる事に気が付き、ルネッタも彼と同様に小さく笑みを漏らす。
「ありがとうルネッタ。本当に助かった」
「ドクターから突然呼び出されて、極秘裏に任務をこなしてほしいと言われた時は驚きましたが……お力になれて何よりです」
 自前の銀髪に指を絡めながらそう言い放ったルネッタに目をやりながら彼は紙束を懐にしまいこんだ。
 昨夜から一人、任務の為にロドスを離れ、目的地に潜伏していたルネッタの頭の中はパッセンジャーの事でいっぱいだった。基地に居る間は片時も離れた事はなく、その姿はさながら親鳥の後を追いかける雛鳥のようにしか見えないと何度仲間達にからかわれたか。
 任務の為だとしてもパッセンジャーと離れるのはルネッタには耐え難い苦痛であり、今後同じような任務を課せられるのであればドクターと交渉し、パッセンジャーの隠し撮り写真などを譲ってもらおうと考える程に今の彼女はパッセンジャーに飢えていた。
(早くパッセンジャーさんのご尊顔を拝みたい……。あぁ、今頃何処で何をされているんだろう? 時間から考えて今はおひとりでコーヒーを飲まれている頃かもしれない)
 ルネッタ自身も気付かないうちにふう、と息を吐く。その瞳の奥底で愛しの青年の姿を思い浮かべているであろう彼女にドクターは苦笑いを浮かべた。
「長々と引き止めてしまってすまなかったね。今回の件、特にパッセンジャーには秘密にしておいてくれ」
「へ? どうしてですか?」
 ドクターから頼まれた依頼内容はパッセンジャーに関与するものでは無かった。それなのに何故わざわざ隠さなければならないのか理解できず、唸っているルネッタの顔をフードの奥から見つめながらドクターは頬杖を突き、言葉を続けた。
「ルネッタは分からない方が幸せだと思うよ。それより、こんな所で油を売ってる暇は無いんじゃないのかな」
「すみませんドクター! 失礼します!!」
 時計を確認した途端に慌ただしく部屋を後にしたルネッタは足早にパッセンジャーの自室に向かうと、扉の前で立ち止まりノックした。
「……開いておりますよ」
 返事を確認してから室内に入るといつも通りベッドの上で長い脚を組み、読書をしているパッセンジャーの姿があった。彼は本を閉じて立ち上がると、ルネッタの方へとアイスブルーの瞳を向ける。
「パッセンジャーさぁん!!」
 昨夜ぶりのパッセンジャーに感極まったルネッタは彼の胸に飛び込……もうとして、すんでのところ踏み止まると、コホンと咳払いをした。
「どうされました?」
 不思議そうに見上げてくる彼にルネッタは頭をぶんぶん振った後、ぎこちなく微笑み──そこでいつもにも増してパッセンジャーの表情が陰っている事に気が付いたルネッタは笑顔を浮かべたまま、彼に言葉を掛けた。
「もしかして昨夜からわたしの姿が見えず、心配……はたまた寂しいなどと思われていたのですね!?」
 そんな事は絶対にないとルネッタは分かっている。彼が関心があるのはドクター、シェーシャ、ケルシーの三者のみ。自分に対して特別な感情を抱いているはずはないと自身が一番良く分かっているし、パッセンジャーが自分を愛してくれずとも、彼の隣に居られるだけでルネッタには十分だった。
 やや間を置いてゆっくり唇を開いたパッセンジャーが今も双眸に己の姿を映している事に違和感を覚え、首を傾げたルネッタは青年から紡ぎ出された言葉を耳にすると、大きな目を更に大きく見開いた。
「えぇ。貴女の姿が急に見えなくなり、何かあったのではないかとドクターに尋ねもしたのですが、何の問題も無いと言い切られてしまい……」
 予想だにしていなかったパッセンジャーの言葉に思考停止したルネッタはその場で固まった。パッセンジャーさんがわたしの事を気にかけて下さっている? 一体どうして?
 抱き着こうとしていた体勢のままフリーズしてしまった彼女の前でパッセンジャーは再び口を開く。
「ですから今こうして、ルネッタさんの健やかな顔を見る事が出来て安心致しました」
 そう言って柔和な笑みを浮かべるパッセンジャーから優しい眼差しを向けられた瞬間、ルネッタの中で何かが弾けた。それはまるで、彼が操る雷のような衝撃であった。
「実はわたし……」
 ドクターからパッセンジャーへの口外禁止の言葉を思い出し、口を閉ざしたルネッタにパッセンジャーは極めて穏やかな口調で問い掛ける。
「私ではルネッタさんの力になれませんか?」
 先のパッセンジャーからの言葉で既にキャパオーバーしていたルネッタであったが、とどめとなるその一言で遂に限界を迎えた彼女はその場に崩れ落ちた。
(これはきっと夢に違いない! だってパッセンジャーさんからこんな言葉を掛けてもらえる事なんて、天地がひっくり返ろうと有り得ないのだし!)
 そう思ったところで、先程のパッセンジャーの発言を思い出す。あれらは全て自分の願望が生み出した幻聴ではなかっただろうか? もしそうだとしたら、自分はパッセンジャーにとんでもない迷惑を掛けている事になるのではないか?
 混乱を極めた頭で必死に考えを巡らせていたルネッタだったが、不意に目の前に影が落ちてきた事で現実に引き戻される。視線を上げるとそこには膝をつき、ルネッタの顔を覗き込むパッセンジャーの顔があった。
「ルネッタさん、大丈夫ですか?」
 心配そうな面持ちで声を掛けられ、ハッと我に返ったルネッタはみるみるうちに顔を真っ赤に染め上げた。
「だっ、だだだ、大丈夫! です! わたしは元気ですよ! はい!!」
 両手をバタつかせながら慌てて立ち上がった彼女はそのまま後退ると、脱兎の如くその場を走り去った。残されたパッセンジャーはきょとんとした表情をしていたが、やがてふっと表情を和らげると再び本を手に取り、読書を再開したのだった。

 一方、ルネッタは自室に戻ると扉の鍵をかけ、その場にへたり込んでいた。
(まさかパッセンジャーさんから、あんな言葉をかけて貰える日が来るとは思わなかった……。しかもあの言い方だとパッセンジャーさんは本当にわたしの事を心配してくれているみたい。うぅ……嬉しすぎて涙が出ちゃいそう)
 頬に手を当て、火照りきった顔を冷やしながらベッドの上でごろんと転がる。
(でも、どうしてドクターは任務の件をパッセンジャーさんに伏せておいて欲しかったんだろう?)
 どれだけ思考を巡らせても分からないものは結局分からず、考えが煮詰まったルネッタが行き着いた答えは──。
「例え話として、パッセンジャーさんに聞いてみよう!」
 名案を閃いたとばかりに手を叩いたルネッタは早速腰を上げて再び彼の部屋に向かおうとし……かけて、自分が部屋に戻ってきた理由を思い出し、枕に顔を突っ伏した。
「明日にしよう。今日は絶対に無理だ……」
 気を抜くとパッセンジャーの優しい声色が脳内に響き渡り、胸がきゅんと高鳴ってしまう。それを誤魔化すように、ルネッタは布団の中に潜り込み、固く目を閉じたのだった。

***

 翌朝パッセンジャーの隣に陣取り、朝食を共にとっていたルネッタは意を決して口を開いた。
「今から聞く内容は例え話なので、深く考えず直感で答えて下さいね!」
 突然の宣言に疑問符を浮かべながらもパッセンジャーは首肯する。
「分かりました」
「ありがとうございます。えぇと、例えばの話なんですけど……」
 そう前置きしてからルネッタはゆっくりと唇を動かした。
「もし、わたしがドクターから秘密裏に依頼を受けて一人で任務を遂行していたらパッセンジャーさんはどう思いますか?」
「そうですね……やはり、心配にはなります」
 少し考える素振りを見せた後、パッセンジャーが返した回答にルネッタは内心ガッツポーズをする。どうやらパッセンジャーは自分に何か隠し事をされているという事に気付いているようだ。
「総じて良い感情は抱かないと思いますよ。貴女にも、ドクターに対しても、ね」
 続けて紡がれた言葉にルネッタは大きく目を見開いた。
(どういう事だろう。ドクターがパッセンジャーさんでなく、わたしを頼るのが嫌ってこと? それなら腑に落ちるけど……)
 パッセンジャーの言った意味を考察しようとしたルネッタであったが、それよりも先にパッセンジャーから更なる言葉が投げ掛けられた。
「言葉の真意が分からない……という顔をなさっていますね」
「えぇ、まぁ……」
「もう少し詳しく説明致しますと『ルネッタさんが私以外の誰かと親しくしている』という状況に私は酷く嫉妬しているのです」
 そう言ってパッセンジャーはどこか寂しげな笑みを浮かべた。
「なるほど。そういう意味でしたか! わたしてっきりパッセンジャーさんが自分に好意を寄せて下さっていて、妬かれてるのだと……え?」
 また自分の早とちりでしたね! と頭を掻きながら謝罪しようとしたルネッタであったが、パッセンジャーの言葉を反覆して理解した途端、顔色を変えた。
「ごめんなさい、もう一度だけ聞かせてもらえませんか?」
「ルネッタさんが他の方と話している姿を見ると私の心に言い様のない苛立ちが募り、同時に強い焦燥感に駆られるのです。この感情の正体が何なのか、私自身よく分かってはいないのですが……。恐らくこれは独占欲と呼ばれる類のものなのだと推測しています」
 パッセンジャーはそこで一旦言葉を区切ると、真剣な眼差しでルネッタの目を見た。その視線を受け止めたルネッタは頬を赤らめ、瞳を潤ませる。
(そんな風に思っていてくれたなんて……。パッセンジャーさん……)
 感激のあまり泣きそうになるのを堪えつつ、ルネッタはどうにかこうにか言葉を絞り出した。
「わ、わたしも同じ気持ちです! パッセンジャーさんがわたし以外の人と楽しそうに話していると凄くムカムカしてくるんです。これが一体何を意味するのか最初は全然分からなかったんですけど、多分これって……ヤキモチだと思うんです!」
 そう言うとパッセンジャーは僅かに目を見開き、「そうなのですか?」と首を傾げた。
「はい! だから、わたし達はお揃いですね!」
 満面の笑顔で告げると、パッセンジャーも微笑みを返してくる。そのまま和やかな雰囲気に包まれ食事を再開させた二人だったが、ふとルネッタは思い出したように声を上げた。
「もし逆の立場でドクターとパッセンジャーさんが仲良さげにしていたら……」
「ルネッタさんは、私がドクターと仲良くしていると嫌な気分になるのでしょうか?」
 パッセンジャーの問いにルネッタは小さく首を振る。パッセンジャーとドクターはお互い信頼し合っている関係であり、ルネッタ自身も二人の間柄には好印象を抱いている。だからこそ、二人が親しげにしている場面を目撃したとしても特に不快感を抱く事はないが──それはあくまでも第三者視点に立った場合の話である。
「……あまりいい気分はしないかもしれません。パッセンジャーさんにはわたしだけを構っていて欲しい……なんて嘘、大嘘です!」
 勢い良く立ち上がったルネッタは「わたし、ちょっと用事があるんでした! お先、失礼しますね!」と言い残してその場を後にした。残されたパッセンジャーは「はて……?」と不思議そうにしていたが、すぐにルネッタの意図を理解して苦笑いを浮かべる。
「本当に可愛いですね、あの子は」
 パッセンジャーは呟き、椅子から立ち上がると長い脚を動かしてルネッタの後を追いかけるのだった。


prev next
[back]
極夜