飲んで呑まれて


漢字ふりがな「パッセンジャーさん」
 今日一日の仕事を終え、後片付けをしていたパッセンジャーは背後から掛かった声に振り返る事もなく、絶えず手を動かしている。
「如何されましたかルネッタさん」
 名を呼ばれた女性──ルネッタはぽっと頬を赤らめ、その幸せを噛み締めていたが直ぐに綻んでいた顔を引き締めると同時に咳払いをする。
「美味しいお酒を頂いたので、この後お時間があればご一緒にどうかなと思いまして」
 そう言いながらルネッタは酒瓶を取り出しパッセンジャーに見せた。それを見て漸く作業を中断した彼は口元に手を当てる……どうやら笑う所作らしい。そんなパッセンジャーの仕草に目を奪われそう……になりながら、ルネッタは言葉を続ける。
「もし宜しければですけど……その……無理にとは言わないですよ!? ただ少しだけでもと思っただけですから!」
 あわあわと慌てふためくルネッタの姿が面白くてつい吹き出しそうになるも、そこは堪えたパッセンジャーは彼女の琥珀色の瞳を見つめながら首肯する。
「ありがとうございます! では早速……」
 パッセンジャーの返事を聞いたルネッタの顔には花のような笑みが広がっていく。誰の目から見ても上機嫌な彼女の手から酒瓶が入った紙袋を預かると、パッセンジャーはそのままルネッタと共に歩き出した。

***

 ルネッタの部屋へと移動して来た二人は向かい合ってソファーに腰掛けていた。テーブルの上には既にグラスが用意されており、中に注がれた綺麗な色合いをした果実酒が揺れている。
(パッセンジャーさんがわたしの部屋に居るなんて夢みたい)
 普段から仕事の合間にちょこちょこと会話を交わす事はあったのだが、それはあくまでも同僚としてのもの。こうして二人きりになる事はなかった為、ルネッタにとってはまさに夢のようだった。
 ちらりと横目でパッセンジャーの様子を伺うと丁度彼もルネッタの方に視線を向けたところであり、ばっちり目が合ってしまう。慌てて目を逸らすものの、心臓は激しく脈打ち始める。このままではまともに話す事も出来ないと判断した彼女は、取り敢えず話題を振る事にした。
「このお酒、ハチミツをふんだんに使用していてとても飲みやすいらしいんです。パッセンジャーさんのお口に合うと嬉しいんですけど……」
 差し出されたグラスを受け取ったパッセンジャーは小さく頭を下げると早速一口含む。そしてゆっくりと味わった後に喉の奥へと流し込むと、再びルネッタの方を見た。
「確かに飲みやすくて美味しいですね。ただ、アルコールが少々強いような気が致します」
 全てを見透かしているかのような言葉に冷や汗をかくライアだったが、何とか表情に出さずに済んだようだ。
「そっ、そうなんですか? で、でもパッセンジャーさんに気に入っていただけたみたいで安心しました! まだまだおかわりはありますよ!」
 ライアは空になったグラスに新しい酒を注ぎ、パッセンジャーに差し出す。
「ルネッタさんはお飲みにならないのですか?」
「えっ? あ、はい! わたしもそろそろいただきます! お腹も空いてきましたし!」
 パッセンジャーからの問いに反射的に答えてしまえばもう飲むしかない。腹を括ったルネッタは勢いよくグラスを掴むと中身を飲み干した。
(……っと、駄目駄目。酔い潰れちゃったら何のためにパッセンジャーさんをお誘いしたのか分からなくなっちゃう。しっかりしないと!)
 心の中で自分を叱咤しながらルネッタは二杯を飲み終えると、盛り付けられた料理を凝視しているパッセンジャーに目をやる。
「こちらの料理はルネッタさんがお作りになられたのですか?」
「はい! ……と言っても簡単なものばかりでお恥ずかしい限りですが」
「いえ、どれも美味しそうです」
「パッセンジャーさんから褒めてもらえるなんて光栄です」
 嬉しそうに微笑むルネッタだがその頬はほんのりと赤く染まっている。その様子に気付いたパッセンジャーはほんの僅かに目を見開く。
「顔が赤いですよ」
「えっ!? あっ、これはその……お、お酒のせいですね、きっと!」
 指摘されて慌てるルネッタであったが、パッセンジャーはそれ以上追及する事はなく「そうですか」と呟くだけだった。その反応を見てほっとしたルネッタも食事を再開する。
「新しいお酒注いでおきますね」
「私に気を遣わず、ルネッタさんもご自身のペースで召し上がってください。私はこの程度では酔わないので大丈夫ですよ」
「……ありがとうございます」
 自分の事を気にしてくれるパッセンジャーの優しさが身に染みる。その一方で自分の考えを見透かされているような気もして、少し恥ずかしくなったルネッタは誤魔化すように酒をあおる。そんな彼女の姿を眺めながらパッセンジャーもグラスを傾けた。

 それから暫くは他愛のない話をしながら食事を楽しんでいたが、突如パッセンジャーはテーブルの上に突っ伏してしまった。
「パッセンジャーさん?」
 アイスブルーの瞳は瞼の奥にしまい込まれ、薄い唇は静かに閉じられている。
 事前に用意していたタオルケットをパッセンジャーの体に掛けると、ルネッタは彼の寝顔をまじまじと見つめながら胸元に手を当て、高鳴っている鼓動を抑えるべく深呼吸を繰り返す。
(睫毛長くて肌はツヤツヤ。鼻筋も通ってるし、本当にかっこよくて綺麗……)
 酒にはそれなりに強いと言っていたパッセンジャーではあるが、用意されていた果実酒──それも特別アルコール度数が高いものをルネッタに勧められるまま飲んでいたのだから酔い潰れてしまうのも何ら無理もない。パッセンジャーが目を覚まさないよう細心の注意を払いながら、ルネッタは静かにカメラを構えシャッターを切った。
 彼女がパッセンジャーを誘ったのは彼が酔い潰れる様を己の目に収めたかった──ただそれだけである。
(やった! パッセンジャーさんの貴重な寝顔まで撮れちゃった!)
 ルネッタは興奮気味に保存された画像を何度も確認する。パッセンジャーを撮影したものは他にも沢山あるが、その中でも一番のお気に入りはこれだろう。
(パッセンジャーさんのお陰でこんなにも素敵な思い出が出来たんだと思うと感謝してもしきれないな。またきちんとお礼をしなきゃ)
 酔い潰れたパッセンジャーの姿だけでなく寝顔まで見れてルンルン気分のルネッタであったが、ここから先……深い眠りに落ちているパッセンジャーをどうするかまでは考えていなかった。ひとまず上にタオルケットは掛けたものの、このままでは風邪をひきかねない。
「パッセンジャーさんを、どうにかしない……と」
 強くそう思っているはずなのに、頭がまともに働かない。大して強くないくせにパッセンジャーが注いでくれたお酒を無下に出来ず、結局全て飲み干してしまっていた。
(風邪ひかないといいな、ぁ……)
 ルネッタの意識はそこで途切れた。

***

 優しく髪を撫でられる感触にルネッタはぼんやりとした思考のまま薄らと目を開けた。
「おはようございます、ルネッタさん」
 ライアの頭をそっと撫でていたその手は彼女の頬へと移動していく。その指先は温かく、心地良い。
「パッセンジャーさんのて、あったかい……」
 無意識のうちにその手にすり寄って甘えるような仕草をするルネッタだったが、ふと違和感を覚え再びゆっくりと目を開けていく。すると目の前には何故かパッセンジャーの顔があり、思わず息を飲んだ。
「えっ? ぱ、パッセンジャーさん!? どうしてここに」
 慌てて飛び起きたルネッタはベッドの上で後ずさったが、すぐに壁際に肩をぶつけ、あっという間に距離を詰められてしまった。逃げ場を失ったルネッタは混乱したままパッセンジャーを見上げる。
「何故と言われましてもここは私の部屋ですので」
「わたしの部屋じゃ……な、い?」
 部屋の中を見回したルネッタは漸くここが自室ではない事に気が付いた。それから昨晩の記憶を思い返してみたものの、酔い潰れて眠ってしまったパッセンジャーの寝顔を堪能した辺りから記憶がない。
「……酔った勢いで何かしませんでしたか? パッセンジャーさんに迷惑かけたとか、失礼な態度をとったとか」
 恐る恐る尋ねたルネッタに返ってきたのはパッセンジャーからの瞠目と沈黙であった。
「……昨夜の事を覚えておられない、という事でしょうか?」
「いえ、そんな事は……」
 咄嗟に否定したもののルネッタ自身、自分がどうやってパッセンジャーの部屋に来たのか分からなかったし、皆目見当もつかなかった。言い淀むルネッタにパッセンジャーは眉間にシワを寄せて難しい表情を浮かべる。
「覚えていないのであれば仕方ありませんね」
 そう言い切ってパッセンジャーはルネッタの頬に触れた。突然触れられた事に驚嘆するも、ルネッタは反射的に身体を強張らせるだけで特に抵抗しなかった。それどころか、もっと触れて欲しいと思ってしまうほどにパッセンジャーの体温を感じて安堵している自分に気付く。
(パッセンジャーさんの手、凄く落ち着く……)
 昨夜と同じように手に頬を擦り寄せてくるルネッタにパッセンジャーは目を見張った後に僅かに口角を上げ、そのまま彼女の耳元に唇を寄せる。
「ルネッタさんが眠っている間、貴女の寝顔を見ていました。とても可愛らしい寝顔でしたのでつい見惚れてしまいました」
「ッ!?」
 パッセンジャーの言葉でルネッタは一気に顔を真っ赤に染め上げた。そんな彼女の様子を楽しげに見つめながらパッセンジャーは言葉を続ける。
「妙齢の女性が男の前で無防備に眠るというのは自殺行為です。それに二人きりで酒を酌み交わすなど、そういう意図があると誤解されても文句は言えませんよ」
 頬を撫でていた手を滑らせてルネッタの腰を抱き寄せたパッセンジャーはそのまま引き寄せると、彼女の首筋に舌を這わせた。
「ひゃっ!」
 ぞくりと背筋に悪寒が走る。ルネッタは咄嵯にパッセンジャーの胸板を押し返すが、力の差は歴然だった。
「や、めてくださ……」
 抵抗するルネッタを気にする素振りもなく、パッセンジャーは彼女を組み敷き覆い被さる体勢になると、両手首を掴んで拘束してしまう。
「嫌なら私を突き飛ばして逃げればいい。まぁ、貴女の力程度では無理だとは思いますが」
 ルネッタの耳元に吐息を吐きながらそう囁いたパッセンジャーはそのまま耳に噛み付いた。ルネッタの口から悲鳴に似た声が上がる。
「以後お気を付け下さい。何かあってからでは遅……」
 そこで言葉を区切ったパッセンジャーは再度彼女の顔を見つめた。赤い顔をして口をパクパクと開閉させている様はさながら金魚のようだ。
「ルネッタさん?」
 ゆっくりと彼女から退き、声を掛けたパッセンジャーへの返答はない。自由になった両手で顔を覆ったルネッタは小刻みに震えているように見えた。
(少し意地悪をし過ぎてしまったようですね)
(ぱ、パパパ、パッセンジャーさんに食べられるかと思った……! そうなってもいいかな、って少しは思っ……って、何考えてるの!?)
 心の中で呟いたつもりがどうやら実際に口に出してしまっていたらしく、パッセンジャーは一瞬惚けた顔を見せた後、小さく吹き出した。その様子に羞恥心を煽られたルネッタは涙を滲ませながら睨み付ける。
「わ、笑わないでください! わたしは至って真剣です!」
「ふっ、失礼しました。あまりに可愛らしい反応でしたので、つい」
 謝罪を口にしたパッセンジャーだったが、やはり笑いを抑えきれないようで肩が揺れてしまっている。
(昨夜から色んな表情のパッセンジャーさんを見られて幸せ過ぎるし、パッセンジャーさんがわ、わ、わたしを組み敷いて……これ以上思い出してたら間違いなくわたし死んじゃう……!!)
 再び脳内で叫んだルネッタは勢いよく布団を被ってしまった。その様子を見たパッセンジャーは苦笑しつつ、ベッドの縁に腰掛けるとそっと布団の上から頭を撫でる。
(パッセンジャーさんの優しい手付き、好きだなぁ……。ずっとこうしていて欲しいかも……)
 布越しに伝わる温もりに心地良さを感じた紫月2はいつの間にか眠りに落ちていった。
「言ったそばから……ここまで来ると尊敬すらしてしまいます」
 呆れたようにそう零したパッセンジャーは名残惜しそうにルネッタの頭から手を離すと、静かに部屋を後にした。
 その後、目を覚ましたルネッタは今に至るまでの事を思い出し悶絶していたが、暫くしてここがパッセンジャーの部屋であると把握してからは「パッセンジャーさんの匂いに包まれてる〜! ずっとこの部屋に居たーい!」なんてはしゃぎながら、ベッドの上でゴロンゴロン転げ回るのであった。


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極夜