男性術師をからかってはいけません


 目の前、という言葉ではまだ足りない。目と鼻の先にある整った顔を持つ男は口端を上げて薄らと笑みを作り、女性──ルネッタを見下ろしている。事の発端はほんの数分前に遡る。

「壁ドンを知ってられますか?」
 相変わらず突拍子もない事を聞いてくるルネッタに質問を投げかけられたパッセンジャーは少し考えたあとに返事をした。
「存じ上げておりますよ」
「あ、どうして壁ドンの話になったのか? という事ですよね!」
 余程の理由がない限りパッセンジャーにべったり引っ付いている恩恵か何なのか、パッセンジャーの事であれば何となく言わんとしている事が分かるようになってきた。それはパッセンジャーも同じらしく、ルネッタの言葉足らずな発言の意図を汲み取ってくれる。
「お昼を食べていた時に男性のどんな仕草にときめくかという話になって、その場に居た一人が『壁ドン』を挙げたんです」
「……ルネッタさんはどうなのですか?」
 パッセンジャーの真意を今回ばかりは汲み取れなかったルネッタはコーヒカップをテーブルに置いた後、首を傾けた。
「された事がないので分かりません」
「ならばしてみましょうか」
 真顔でさらりと言ってのけたパッセンジャーにルネッタはきょとんとした表情を浮かべてから、いつもの朗らかな笑顔を浮かべる。
「パッセンジャーさんが冗談を仰るなんてめずら……」
 言葉を言い切る前にパッセンジャーの顔が視界いっぱいに広がる。気付けば後ろは壁、前はパッセンジャーで一切逃げ場がない。
(えっと……これは夢かな?)
 自分の置かれている状況を上手く理解出来ていないルネッタは瞬きを繰り返してから視線を泳がせる。しかしこれは紛うことなき現実であり、目に見えて動揺しているルネッタの姿にパッセンジャーはえも言われぬ感情を擽られた。
「……、す」
「はい?」
 あまりにも小さな声であったために、拾い上げられずパッセンジャーは即座に聞き返す。
「ありがとうございます……今日と言わず明日明後日明明後日の仕事まで頑張れます」
 壁ドンとは何だっただろうか。パッセンジャーの記憶違いでなければ、女性がキュンとする仕草ではなかっただろうか。それなのに何故、目の前の女性は肩を震わせながら感謝を述べているのか。
「礼には及びませんよ」
 この位大した事もございません。そう続けようとした所で、パッセンジャーはルネッタの様子がおかしい事に気が付いた。パッセンジャーとは決して目線が交わらぬよう下を向き、先程一瞬だけ見えた彼女の顔は確かに真っ赤に色付いていた。
「ルネッタさん?」
 ほんの少しだけ距離を詰め名前を呼ぶと、か細い肩は大きく跳ねた。パッセンジャーが更に身体を寄せればビクッと大きく反応する様はまるで小動物だ。
(体調が優れないのでしょうか)
 もしそうであれば早めに休ませなければならないと、心配からパッセンジャーは手を伸ばした。それと同じタイミングで勢いよく顔を上げたルネッタの瞳は潤んでいて熱っぽい吐息が唇から零れるものだから不覚にもパッセンジャーはその様にドキリとしてしまう。
「……あ、ああ、あの、ですね! さっきわたしがパッセンジャーさんにお伝えした言葉には偽りはないのですが、徐々にこの距離の近さに耐えられなく……うう……」
 話している途中で呻き声を上げ、再び俯いてしまった彼女は顔を伏せながらも言葉を繋げる。
「……心臓が今にも爆発しそうなので、そろそろ解放していただけるとありがたいです……」
 ……と言われて素直に解放してやるほど自分は出来た人間ではないことを自覚しているパッセンジャーは、壁に付いた腕はそのままで空いた片手を伸ばし頬に触れた。ルネッタの反応は面白い位に分かりやすく、その表情からは羞恥の色が強く表れていて何とも言えない心地良さがパッセンジャーを満たしていく。彼女の視線から外れているのをいい事に耳元に唇を寄せると、小さく息を吹きかけながら囁いた。
「私の前以外でそのような表情を見せないように努めて下さいね」
 そんな風に釘をさす必要もないくらい、貴女は私以外に興味などないのでしょうけど……なんて伝えたら貴女はどんな顔をして下さるのでしょうね。そんな意地悪なことを考える自分に呆れた笑いが出そうになるのを抑えながらパッセンジャーは目を細めつつ、目の前にある小さな頭をゆっくりと撫でた。

***

「パッセンジャーさんも壁ドンをされたらわたしの気持ちが分かるはずです!」
 漸く壁ドンから解放されたルネッタはパッセンジャーが淹れたコーヒーを手に、部屋の片隅に対比した状態でそう言い放った。
(彼女の顔色は大分マシになったものの、まだほんのりと赤く染まっている)
「さて、どうでしょうね」
 ふ、と鼻で笑ったパッセンジャーにルネッタは頬を膨らませ不満げな表情を浮かべたかと思うと急にパッセンジャーと距離を詰め、脇下辺りに勢いよく腕を置いた。
「ふふん! わたしだってその気になれば壁ドンくらい……」
 得意げな表情で見上げてくるルネッタを見下ろしたパッセンジャーは徐に片腕を伸ばすと、そのまま彼女の腰を抱き寄せた。突然の出来事にルネッタは驚いた様子で身を固くしたが、直ぐに我に返って抗議の声を上げる。
「ちょっ!? パッセンジャーさん! 近いです!」
「ええ、近いですね」
 慌てるルネッタとは対照的にパッセンジャーは落ち着いた声でそう言うと、抱き締める力を強めた。
「自分から捕まりに来られましたので」
 パッセンジャーはわざとらしく口角を上げてそう言えばルネッタの顔は一瞬にして茹で蛸の様に真っ赤に染まる。そして、パッセンジャーの腕の中でルネッタは悔し気に歯噛みすると、彼の胸板を押し返しどうにかこうにか離れようともがく。しかしパッセンジャーの力には敵わず、結局されるがままになるしかない。
(壁ドンから解放されるまでヒィヒィ言ってたのに、自分からパッセンジャーさんに近付くみたいな事を……!)
 そんなルネッタの考えを見通していたのか、パッセンジャーは楽しげに喉の奥で笑うとルネッタの耳に唇を寄せて低く甘い声色で囁きかけた。
「妙齢の女性が不用意に男に触れてはいけませんよ」
「ひゃいっ!!」
 不意打ちを食らい、ルネッタは思わず変な返事をしてしまう。それを聞いたパッセンジャーは満足そうに微笑むと彼女を解放した。
「二度は申しませんので以後お気を付け下さい。……私だから大丈夫と思われているのかもしれませんが、紫月さんが思っているほど私は紳士的な人間ではありません……ルネッタさん?」
 ルネッタから何の反応も得られなかったパッセンジャーは彼女の方に視線を向ける。そこには顔をこれでもかと真っ赤にしたルネッタが口をパクつかせながらパッセンジャーの方を呆然と見ていた。
「……ぱ、ぱせんしゃーさ……ん」
 やっと絞り出したような掠れた声を出したルネッタにパッセンジャーは首を傾げる。
「どうされましたか?」
「……こ、こんな……こんなお色気が……パッセンジャーさんにはあるんですね……」
「おいろけ……? ああ、先程の事ですか。貴女があまりに無防備でしたので少しばかり意地悪をしただけです」
 恨めしそうに見つめるルネッタに対し、パッセンジャーは涼しい顔で受け流す。そんな彼を見てルネッタは何だか自分が子供扱いされている様な気分になり、悔しくて仕方がなかった。
「パッセンジャーさんは狡いです……」
「それはどういった意味でしょう」
「そういう所がです。…………そんな所もまた素敵なんだけどなぁ」
 ボソリと呟いたルネッタの言葉はしっかりとパッセンジャーの耳に入っていたのだが、彼は聞こえないフリをしてコーヒーを口に含んだ。そんなパッセンジャーの姿を目にしたルネッタは頬を緩ませながら、すっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干したのだった。


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極夜