寒い寒い一月がやって来て少し経つ。




一年始めの元凶




早く春が来ないかと待ち遠しいけれど、まだ今年は始まったばかりで寒さの本番はむしろこれからだ。
しばらくこの冬は続く。
だいたい暖かくなるのは四月も終わりの頃なのだと三十年近くも生きていれば知っている。春はまだ遠い。
白い息を吐いては夏を恋しく思うほどこの寒さにはうんざりしていた。

今日の銀さんは夜のお仕事に行っていた。
年末年始にお金を使い込んでしまったらしく、かまっ娘クラブのバイトで急遽生計を立てるらしい。
一緒に住んで養ってあげたい発言からまあまあ経つけど、私は未だに万事屋には引っ越してない。
理由は特にない、なんとなくだ。

神楽ちゃんには「いつ引っ越してくるアルか!」「早く一緒に住みたいアル!名前の手料理食べたいネ!毎日肉まん持って帰って来るネ!」と言われているものの、まだ時期じゃないかなとか思ってたりする訳で。
私も大概気まぐれだな、と自分でも苦笑してしまう。
そんな訳でまだ年季の入ったボロ長屋に住んでいる。

この季節の銭湯帰りはたまったもんじゃなかった。
片道十五分の道のりの間に完全に湯冷めするからだ。
マフラーをぐるぐる巻きにして服を着込んで足早にかぶき町を歩く。
今夜は銀さんちには誰も居ないそうで、神楽ちゃんは志村家にお泊り。
だからお風呂も今日は久しぶりに銭湯を利用することになった。

早歩きして来たおかげで体は辛うじてまだ熱を保ったまま、長屋に向かう裏路地に入る。
近道とは言え、暗い路地なので一人ではいつもここは通らないようにしている。
いつもなら銀さんと一緒だから平気だったけれど、今日は生憎一人。
それでもこの寒さには耐えきれず一人ではあったけど仕方なく近道を選んだ。

お金もちょっとは貯まったしいい加減自転車でも買おうかな、そう思っていた矢先。
少し前の小さな街灯に照らされた物陰がぼんやりひとつ。
なんだか背中にぞくりと寒気が走る。だが体が冷えてしまった訳ではなさそうだ。

そう、それは簡単に言えば嫌な予感。
危険な予感だった。
小柄な人影。
華奢な体のラインが半纏を着ていても際立っていた。
こんなに寒いのに半纏の下は薄着だと遠くからでも分かる。

どこかで見たことがある。
そう思った瞬間その影と目が合った。
あ、あの人だ。
そう考えた瞬間に相手はもう自分の間合いに居た。
ドキリとヒヤリが同時に体を駆け巡った。
脚がすくむとはこのことを言うのだろうか。
「あ」
と、何とも気の抜けた声が出てしまう。
緊張して固まっている体とはまるで別物のように、頭は妙に冴えていた。

「俺のこと、知ってるようだなぁ…」
気だるそうに話す口調。
頭の包帯は左目を大袈裟な程覆っていた。菫色の着物が半纏の下から身に纏っているのが見えた。
その少し小さめの体は総悟と同じくらいの身長でなんとなく親近感を持ってしまう。
しかし当の本人は総悟とはまるで別の殺気を放っていた。

「知って、ます…」
どうして正直に言ったのかは分からない。
関わってはいけないと頭でも体でも分かっていたはずなのに。
「へぇ…じゃあ何故逃げねぇ」
口角を上げてニヒルに笑う。
色香はあるもののどこか恐怖を感じる。
「分からないです…でも、貴方には…それなりの理由があることは知ってます… 」
緊張のあまり、途中で何を言っているのかさえ自分でも分かっていなかった。
それでも何か言わなきゃならないと必死に話していた。

「お前、名は」
「苗字…名前、です…」
「名前、か…」
「……」
「俺たち、また会える気がしねぇか…?」
ニヤリと妖艶に嗤いかけられた。
ドキリとするだけで私は何も言い返せなかった。
ただ目の前の男が話す度、白い息が出るのにやたら釘付けになってしまっていた。
この人も本当に存在する人物なのだと、心の中からそう思った。
まるでこの世に存在しないと思っていたものを見たかのような気分。
夢なのでは?と、どこか錯覚した気分でもあったがそれは確実に存在していた。

遠くでパトカーのサイレンの音がした。
「さあて…」
フラリとこちらに近寄って来る目の前の男。
一瞬殺されるのでは…?と脳裏に不安がよぎる。
この人はそういう人だ。きっと気まぐれで人を殺し兼ねない。

「そうビビんなよ」
どことなく銀さんに似たその低い声でククっと嗤われた。
銀さんより甘ったるい声。だけど狂気に満ちた声。
私は知っている、この高杉晋助と言う男を。

自分より少し高い背の男は、手を伸ばすと私の頭を撫でてきた。
「風呂上がりの女がこんな暗いとこウロついてると、俺みたいなのにヤラれるぞ」
またクツクツと嗤われる。
からかわれているのか、本気なのかも分からない。ただ感情が読めない。
触っていた髪から手を引くと、高杉さんは私を通り過ぎてそのまま路地を歩いて行った。
私は振り向くことさえままならず、気付けば体が冷えきっていた。

その後私は走るように家路を急ぎ、長屋の家に入ると同時に脚がまたすくみ始めて部屋にヘタリこんでしまった。
恐怖はもちろん、そこには変な興奮も混ざっていた。
ついにあの男と会ってしまったと言う興奮。
私はその日、布団に入りやっと温まった体とは別になかなか眠りにつけなかった。



「おはよーアル!名前!」
「おはよう、神楽ちゃん帰って来てたんだ」
いつものように休みの日は万事屋に遊びに来る。
「うん、銀ちゃんはまだ寝てるアル」
「昨日の仕事遅かったのかな?かまっ娘クラブ」
「彼氏がカマクラブで働いてるの許す女もどーかしてるアルよ」
神楽ちゃんの言葉にハッとした。
確かに普通に考えてみれば結構異常だ。恋人が生活のためとはいえ、女装してオカマクラブで働いているのをなんとも思ってない女だなんて。

銀さんとはこういう人。と言う理解がありすぎて私は本来恋人はこうであるべきと言う自分の理想が欠落していた。
恋人が銀さん、と言うよりは銀さんが恋人。銀さんだからこそ恋人なのだ。
だから銀さんは銀さんでいい。
万年金欠でも家賃滞納してても隣で鼻ホジっててもパチンコ行ってお金使い込んでも。
これが普通の男ならとっくの前に捨ててるけど、銀さんはこういう人だってことを知ってて惚れた訳だし。

「神楽ちゃんリンゴ買ってきたから食べる?」
「食べるアル!」
「んじゃ切ってくるね」
台所に向かおうとすると神楽ちゃんはそのまま台所について来た。
「そもそも名前は銀ちゃんのドコがいいネ?」
唐突且つストレートな質問にドキっとした。

「え、ドコって…」
「銀ちゃんマダオだし、マダオだし…マダオネ!」
「まぁ、そうだけど…」
「それに金欠だし、アホだし、ビビりだし」
「そうだね…」
四等分に切ったリンゴの皮を剥いていると、出来上がったものが次々と神楽ちゃんの胃袋に収められていく。
「それにいつまで経ってもジャンプ読んでるよーなガキんちょアル」
「そーだね…」
「そーだね、じゃねーだろ少しくらいフォローしろよ」
台所の入口で寝巻き姿の銀さんがコチラを見ていた。
頭には寝癖がついていて、天然パーマに拍車がかかっている。

「あ、おはよう銀さん、まだ寝てなくていいの?昨日遅かったんでしょ」
「まーなぁ」
大きなアクビをしてコチラに近寄って来たかと思えば神楽ちゃんの手にあったリンゴを奪い取り、口に頬張った。
「神楽オメー定春の散歩行ってこい、さっきうんこしたそーにしてたぞ」
「まじアルか!?」
神楽ちゃんは私の手にあった剥きかけのリンゴを奪い取りさっさと台所を後にした。
少し経つと先日私がプレゼントした真っ赤なコートとマフラーと手袋を着用した神楽ちゃんが定春を連れて万事屋を出て行った。

「アレ、めっちゃ気に入ってるみたいだぞ、散歩は汚れるから汚ねー方の着てけって言ってるのに聞きゃーしねぇ」
「良かった、気に入って貰えて」
「俺にはあーゆーもんは選んでやれねーからなぁ、助かるわ」
「ふふ、銀さんお父さんみたい」
「お父さんて…」
リンゴを剥き続ける私の腰に銀さんの腕が回る。
「危ないんですけど?」
「これ以上はなんもしませんー」
耳の裏に当たる吐息がなんともくすぐったくて笑ってしまった。

「そーいや名前、昨日帰り大丈夫だったか?」
「あ…」
一気に蘇る昨日の光景。
銀さんは私の様子をすぐに察知したのか、声のトーンを低くして私に問いた。
「なんか、あったのか?」
「き、昨日…会ったの…」
「誰に?」
「高杉……晋助…」
「な…」
銀さんも言葉を失った。
ここに来てまさかの人物の名前だったからだろう。

「なんもされてねーだろうな?!」
「う、うん、されてない」
「なんか話したのか?!」
「名前を、聞かれただけ…」
「名前?それだけか?他には?」
「それだけ…」
「なんだよそれ…どんな状況だよ」
「わ、分かんない…なんか一瞬で…私も殺されるかと思ってすごく怖くて…」
思い出しただけでまた脚がすくむ。
姿を見て何もされなかったのが今思えば奇跡のような出来事な気がする。

「お前のこと、知ってる風だったか?」
「ううん、名前聞かれたくらいだから知らないと思う…」
「そうか…」
「銀さん?」
「いや、俺絡みでお前まで狙われることがあるんじゃねーかと…可能性だけど、なくはねーからな…」
お互い思考を巡らせる。
だけど何も答えが見つかるはずもなく、結局はただの偶然だったとしか言えない。
でも私は何故かあの時に感じたことがひとつある。

“また、この男と会う気がする”
そう思えて仕方なかった。
ただこのことはまだ銀さんには黙っておいた。



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