甘酸っぱいストロベリー・コラーダの出逢い


重い足取りで、擦れ違う人に何度も肩をぶつけながら一人の女が歩いていた。

背丈も容姿も平均な彼女は、仕事も私生活も至って平凡だった。

平日は毎日、すし詰め状態の電車に乗り、勤め先へ行き、与えられた仕事を熟し、またすし詰めの電車に揺られ、自宅へと帰る。
たまに休日出勤もし、唯一の癒しは休日の惰眠だった。

至って平凡。
彼女、百合はそう思っていた。

それで満足していたし、変化は求めていなかった。

このまま適当に仕事をし、適当な年齢で結婚し、子供も二人ぐらい産んで。
子供の成長を見守りつつ、主婦業を熟し、子供も一人立ち、結婚して、孫の顔を見て。
そんな平穏な人生を送るつもりだった、それなのに。

百合の人生は、この日を境にガラッと。
まさに180℃、変わってしまったのだ。

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からんからん、とベルの音を立て、暗い茶色のウッドドアが開いた。

そのドアがゆっくりと開かれるとその隙間から、一人の女が顔を覗かせた。

恐る恐ると云った感じの様子だったが、きゅ、と唇を結ぶと店内へと足を踏み入れた。

百合が滅多に聴かないジャズが心地よい音で流れており、百合は少し安堵して、目に付いたカウンター席へ進むと、先客の男二人組から二席空けた椅子に座り、鞄をテーブルの下にあるスペースへと押し込んだ。

そして顔を上げるとバーテンダーの後ろにある棚に目が行き、ぴたり、と思考が止まってしまった。

それもそうだろう。
百合が酒を飲む時は、大抵が大衆居酒屋。
それも、分かりやすく写真付きでメニューが載っていたり、酒に疎い自分でも知ってるメジャーな酒しか置いていない。

だが、今、百合の目の前に並んでる酒は、百合が目にした事がない物ばかりだった。

流石にジンやウォッカは知っているが、それ以外は殆ど知らない。
それに加え、酒瓶のラベルは殆どが英語表記で、薄暗い店内では、はっきりと読み取る事が出来なかった。

いつまでも注文しない女にバーテンダーは何回も百合に視線を合わせたが、百合はそれどころじゃなく、止まった思考を必死に働かせ、このバーでも置いてそうな酒を頼む事に必死だった。

何なら置いているだろうか。

モスコミュール?モヒート?カシスオレンジ?

頭の中には有名なカクテルの名前は浮かんだが、残念ながら百合には飲めないものだった。
百合が飲める酒は本当に限られていて、軽い飲み口で、低アルコール、それでいて、甘い酒だった。

お子様味覚、なんて良く言われるが、本当にそうだと理解していた。

思考が脱線しかけた百合は、はた、と切り替え、再び必死に頭を働かせた。

あまりにも纏まらない思考に百合の背中には変な汗が浮かび、額にもうっすら汗が浮かんだ時だった。

考える事に必死だった百合の前に一つの薄ピンク色の液体が入ったグラスが置かれた。

音も立てず静かに置かれたそれに、百合は目をぱちくりさせ、口を開いた。


「あの…、こ、これは??」


女の言葉にバーテンダーはにこり、と笑みを浮かべ、こう言った。


「あちらのお客様からです」


そのバーテンダーの言葉に百合は一瞬の間を置き、店内に入った時に目に入った先客の男たちを思い出し、そちらの方を見た。

ぎこちない動きで男たちの方を見た百合が目にしたのは、百合が今までの人生で関わった事のない、そしてこれからも関わる事のないと思っていた、イケメンに分類される男。
おまけにこれまでの人生、男性に酒を贈ってもらった事のない百合には十分過ぎる程、衝撃的だったし、あまりにも現実離れした出来事だった。

百合側に座っていた男は、褐色肌に癖のある髪で襟足が長く、その襟足は赤色をしていて、少しキツめの表情をしていた。
その男の隣に座っていた男は、眼帯が真っ先に目に付いたが、髪は綺麗にセットされており、切れ長の目が印象的だった。
男は二人とも琥珀色の優しく甘い色の瞳を持っており、その瞳に吸い込まれてしまう感覚になった。

百合にカクテルを贈った眼帯の男は、にこり、と微笑み、もう一人の男との会話を再開させた。


「ありがとう、ございます」


そう言えば、お礼を言っていなかった。
それを思い出した百合は、緊張で言葉を途切れさせながらも礼を言うと、それに気付いた男は、もう一度笑みを浮かべ、手をヒラヒラと振り、会話を再開させた。

これ以上二人の会話を中断させてしまっては、申し訳ない。

男たちから視線を外し、目の前にある薄ピンクの液体を見詰めた。

パッと見は百合好みの酒だった。
色も薄ピンクで可愛らしいし、この色からするに何かミルク系の酒だろうか。

だが、問題は、飲み口だ。

百合はドキドキと心臓を動かし、ゆっくりとグラスに口を付け、一口含んだ。

そして、ごくり、と飲み込むと、パチパチと目を瞬かせ、次の瞬間にはふにゃり、と表情を緩ませた。

少しアルコールがキツイ気がするが、それ以外は全て百合好みの酒だった。

そうなると、一体どんな酒なのか気になるところで、バーテンダーへ声を掛けた。


「あの、すみません」

「はい、如何されましたか?」

「あの、このカクテル?は、何て名前でしょうか?」

「こちら…、で、ございますか?」


その言葉に百合が頷くと、バーテンダーが、にこり、と営業スマイルを浮かべ口を開いた・


「こちらは、ストロベリー・コラーダ。パイナップル果汁のものをピニャ・コラーダと言いまして、そのパイナップルの代わりにストロベリーリキュールを加えたものが、こちらのカクテルになります」


バーテンダーは澱む事無くスラスラと言ったが、百合には聞きなれない単語が多過ぎて、半分ぐらいは何を言ってるのか分からなかった。

たが、聞き返しても失礼だし、百合は表情筋を総動員し笑みを浮かべると、バーテンダーも笑みで返し、していた作業の続きに戻り、百合はホッと息を吐いた。

そして、さり気無く手元に置いてあった携帯で先程、バーテンダーが言っていた”ピニャ・コラーダ”と、検索バーに打ち検索をかけるとそのカクテルの画像がずらりと表示され、リンクをタップするとその作り方と材料が出てきた。

それにざっと目を通し、画面を閉じた。

ラム酒がどれだけのアルコール度数かは分からなかったが、然程気に留めなかった百合は、そのカクテルを一口、また一口と飲み進めた。

甘く、クセになりそうなカクテルに百合自身、気が付かなかった。

いつもより飲むスピードが上がり、自分が既にほろ酔い状態になっている事に。

いつもは、気を付けていた。
百合は酔うと面倒臭い絡み方をするからだ。

しかも、その時の記憶はちゃんと残っていて、後から穴に入りたい気持ちに襲われてしまう。

そうなるから、いつもは気を付けてペース配分をしていたし、自らストッパーも掛けていた。

それなのにホロ酔いになった事すら気付けず、気付いた時には、時既に遅し。
ぽぅ、と頬に熱が集まり、少し頭がぼぅ、として、座っているのに上体がぐらつく。

これは、自分が良く知っている症状だ。

まずい、とは、思ったものの、自分にはどうする事もできない。
出来るとすれば、時間が経ち、アルコールが無くなるのを待つだけだった。

これ以上酔わないよう、百合は二口分程残っていたカクテルを残し、ぼぅ、と目の前に並んでいる酒瓶を無意味に眺めた。

そんな百合に男が気付いた。
その男は褐色肌の男で、何となく視線を百合に動かしたのだ。

大した意味は無かった。
何となく、大人しく飲んでるな、程度の認識で見ただけだった。

だが、視線を動かして見ると、百合はぼぅ、と目の前の棚の酒瓶を見ていて、少し上体が揺れていた。

もしや、酒が弱いのに連れの男が贈った酒を無理に飲んだのだろうか。
もしそうならば、連れの男が申し訳ない事をしてしまった事になる。

悲しいかな、日本人の性で、贈られた物は無碍に出来ない。
それこそ、自分が苦手なモノだったものとしても、贈った相手がその場にいるなら、無理して消費しようとしてしまう。

その精神が働いてしまったのだろうか。

途端に罪悪感に襲われた褐色肌の男は、椅子毎百合に向き、口を開いた。


「無理して飲む事はない」


ぶっきらぼうにそう言った男だったが、その声には心配の色が含まれており、その言葉に百合は目を瞬かせ、暫く目を宙に彷徨わせると、百合も男の方へと体を向き直し、ポツポツと口を開いた。


「今日、仕事で小さなミスを繰り返したんです…、それは自分で処理出来るミスだったので、誰にも迷惑かける事はなかったんですが…」

「お、おい…」

「酔ってる…、の、かな?」


急に話し出した百合に、男たちは当然驚いた。
そんな事話されても、自分達にはどうにも出来ないのに。

だが、百合はそんなのお構いなしにドンドン話していく。

口を挟めないそれに、男たちは半分聞き流しつつ、適当に百合の言葉に耳を傾ける事しか出来なかった。


「お気に入りの傘をね、電車に忘れちゃったんです…、思い出して保管庫に電話しても届いてないって言うし…」

「それは、何とも言えないねぇ…」

「それに最近、大好きだった食べ物のアレルギーが出ちゃって、それを食べられなくなって…」

「食べられなくなるのは辛いよね、」


酔いも回っていた事もあり、身の上話しを始めた百合に男たちは非常に面倒臭そうな表情を浮かべたが、その内容に呆気に取られながら、相槌を打っていた。
だが、一息置いて言った百合の言葉に今度こそどう返したら良いのか分からず、お互いの顔を見合わせるしか出来なかった。

確かに酒が入り、酔いも回れば正常な判断も出来ずに初対面の男にすら、言ってしまうだろう。
酔っ払いの怖い所には、それがある。

でも、まさか。
まさか、初対面の百合からそんな話しを聞かされるなんて、思ってもみなかった。


「付き合ってた男性がいたんです…、でも、っ、一昨日、きゅう、に…、四か月も付き合ってSEXさせない女はつまらないから、お前要らない、っ、て、言われてっ、」


そう言って泣き出した百合に同じ男として分かるような。
でも、流石にその発言はクズだ、と、思えるし、何と言えばいいのか。

分かるような分からないような、複雑な心境になりつつも、口を開いたのは、百合にカクテルを贈った眼帯の男だった。


「気に障ったならごめん、先に謝っておくね」

「…、ぇ?」

「この場限りの仲だし、僕はキミの事を知らないから言える事だけど、同じ男としてその元恋人は最低な奴だ。女性をただの性欲発散の相手にしか思っていないような奴なんだ」

「〜〜〜〜〜ッ、」

「おいっ、光忠!!」


眼帯の男は思った事を正直に口にした。

言われたくない事を直接言われた百合は、みるみる目に涙を浮かべ、口をきゅ、と結んだ。
連れの男も良く知らない仲だからと言って流石に言い過ぎだ、と、止めに入ったが、眼帯の男は気にも留めず、更に口を開いた。


「そのまま、ズルズルと付き合って、キミが折れて体を繋げてもキミが傷付くだけなんだ。だから、そんな男と別れて正解なのかもしれない。それに…」


そこで言葉を区切って、眼帯の男は、目をすぅ、と細め百合を見た。
急に止んだ男の声に百合が不思議に思ったのか、俯いていた顔を上げ、眼帯の男に視線を移すと、その琥珀色の目と合った。

見透かされているようなその目に百合は時間が止まってしまったかのような感覚に陥り、息をするのを忘れてしまう程だった。


「キミは、体を繋げて愛情を確認するより、共に同じ時間を過ごし共感しあって、愛を深めたいと考えるタイプだろう?」


その男の言葉に百合は目を大きく見開き、数拍置いた後、涙をボロボロ流しながら深く頷いた。
そんな百合に眼帯の男は穏やかに微笑みを浮かべ、その表情は少し安心したかのようにも見えた。


「だから次は、出来るだけ相手を見極めて、幸せになって」


そう言って眼帯の男は、グラスに残っていたバーボンを一気に飲み干すと立ち上がり、それに倣って、褐色肌の男も立ち上がった。
そして、スーツの内ポケットから黒地に濃い赤のラインが4本入ったハンカチを女に差し出すと、それを百合は咄嗟に受け取ってしまった。

百合を心配した目で一瞬見ると眼帯の男と一緒にバーから出て行ってしまった。

お礼も言う暇もなく出て行ってしまった男たちに百合は、居心地の悪さを感じた。

だが、恋人と別れてから不思議と泣く事が出来なかったのに、男の言葉で初めて泣いた事で、幾分かつっかえていたモノが無くなり、酔いも若干醒めた。

そして、くるり、とバーテンダーに向き合うと、同じカクテルを頼んだ。

先程の男たち、男の言った事を思い出しながら飲んだ、ストロベリー・コラーダは、甘酸っぱく優しい味がした。


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バーを出た後、鮮やかなネオンの街を歩く二人の男は、先程の百合の事を考えていた。

随分と悪い、クズな男に引っ掛かったものだ。

余りにも世間慣れしていない様子の百合に、あんな調子でこのドロドロした社会でやっていけるのか、と、良くも知らない相手なのにそう心配してしまうのは、その状態の百合を見てしまったからには仕方ない事だった。

それにしても…、と、百合にハンカチを差し出した褐色肌の男は隣を歩く眼帯の男をチラリ、と見た。

さっき、あの百合に言った言葉は確かに正論だった。

だが、百合はその男に惚れていて、失恋したばかりなのに少々キツイ物言いだったのではないか。
だから流石に百合が可哀想になり止めに入ったのだが、眼帯の男は口を閉じる事はせず、話しを続けた。

眼帯の男は、遠慮せずにモノを言うのだが、それがタマに傷だった。

百合に同情した褐色肌の男は、深い溜め息を吐いて前を向いた。


「ねえ、」

「…、なんだ」


急に声を掛けられた事に褐色肌の男は驚いたが、平静を装い言葉を返した。


「今日は…、キミの部屋に行っても良い?」


甘く、蕩けるハチミツのような声でそう言った眼帯の男に、体中に鳥肌が立ち、背骨をゾクゾクしたナニカが走った。

それは、まるで情事の時のような感覚で、褐色肌の男は堪らず、熱の篭った吐息を吐き出した。

きっと気付かれた事だろう。
それが証拠に眼帯の男の目は獣のようにぎらついていた。

今更遅いかもしれないが、それを誤魔化すように眼帯の男の脇腹に拳を入れると、スタスタと先を歩いた。

急に脇腹に入れられた拳に足が止まったが、それが照れ隠しだと分かっていた。

眼帯の男は、ふにゃり、と表情を緩ませ、ゆったりとした歩調で男を追った。