月桂冠を捧ぐ

合鍵を使って名前の暮らすアパートの一室に入ったとき、違和感を感じた。いつもならば、僕の来訪に気づいた名前の明るい笑顔と、彼女の愛鳥の美しい囀りが出迎えてくれるはずなのに。

「名前?」

こんな天気のいい日に、カーテンが締め切られて真っ暗な名前の部屋なんて、今まで見たことがなかった。いつだって、愛鳥の日光浴と、愛鳥のおやつ用に育てている野菜の為にと開け放っていたからだ。夜遅く帰りついた寝不足の日であろうとも、彼女は絶対に愛鳥の生活リズムを崩さなかった。僕が外泊に誘っても「あの子のお世話しなきゃいけないから」って、申し訳なさそうに断っていたあの名前が。

「なんだ名前、居たの」

ベッドの上の布団の塊が、中に埋まっているであろう彼女の呼吸に合わせて、僅かに上下しているのが見える。
彼女だってゆっくり寝ていたい日があるだろう。小鳥の世話くらい自分だってできるし、今日は久々に一日ゆっくりしようと思って訪ねてきただけだ。名前はお昼頃に起こすことにしよう。
カーテンを開けて、鳥籠を覗き込むと───



籠の中は、空っぽだった。


「昨日、死んじゃったの」

いつから起きていたのだろうか。震える声が聞こえて振り返った。
布団は、未だに彼女を覆い隠したままだ。

「昨日、いつもの朝みたいに、ご飯とお水をあげようと思って見たら、死んじゃってたの」
「…そう、」
「最近忙しくて、全然構ってあげられてなくて。一昨日なんて、家に帰った時間が遅くて、また明日あそぼうねーって言って、タオルをかけて暗くしちゃった。
あの子の最期の日だったのに、もう十年もずっと一緒に暮らしてきたのに、最後の最後で、私はあの子と触れ合う時間を、とってあげられなかった」

布団の塊や声が震えていなくったって、彼女が泣いていることなんて分かる。

「看取ってあげられなくて、お別れも言えなくて、私、最低のパートナーだった…!」

いつか彼女が言っていた。
名前の飼っている小型の鳥は、平均寿命が7〜8年、長くても10年と少しくらいなのだと。人間から考えれば短いその一生で懐いた相手を、生涯のパートナーとみなすのだと。

『だから、私はこの子のパートナーとして、絶対にこの子を幸せにしたい。この子の人生を預けてもらったんだから、当たり前のことなんだけどね』

僕が彼女と付き合い始める前、そう言いながら照れたように微笑んでいた彼女の顔を思い出した。

「名前」

そっと布団を剥ぎ取って、ベッドの端に腰掛ける。やっと見えた彼女の頭を慰めるように撫でながら


「……っ!」

名前の頬を流れる涙に口付けて、顔を覗き込んだ。

「僕がうっかり妬いてしまうくらいに、名前とあの子は最高のパートナーだったよ」

いつか彼女が泣いていた時、僕だって傍に居たというのに、恋人の僕より近くで彼女を慰めていたのはあの子だった。
彼女の涙を飲み込んで。
彼女の瞳を、伺うようにのぞき込んで。
まるで毛繕いでもするようにやさしく、彼女の指先をくちばしでなぞって。

「名前、お別れをしよう。遺された人がいつまでも悔やんでいたら、遺した人はきっといつまで経っても休めない」



「実はね、僕とあの子はライバルだったんだ」
「降谷さんと?あの子が?」

赤い目が、困惑を浮かべてやっと僕を見た。

「そう。どっちが名前を幸せにできるか、ずっと競ってたんだ。」

冗談めかして言っているが、本当のことだ。僕とあの子はいつだって、名前にかまって欲しくて、名前に愛して欲しくて、名前を幸せにしたくて、名前を独り占めしたくて。

「名前は最後の最後で、あの子の勝利に泥を塗るの?」
「え…」
「いつだって、あの子の勝ちだったんだ。僕が出会った時には既に、付け入る隙を見つけるのが大変なくらいに相思相愛で、幸せだったじゃないか。でも、そんなに名前が悲しんでいるなら、あの子の最期で僕が勝ったのかな?
…最期まであの子の勝ちにする事が、一番の手向けになると思わない?」


「…ありがとう。ずっと一緒に居てくれて、こんな私を幸せにしてくれて…私と出逢ってくれて。ありがとう。私、あなたと暮らせて、最後まで幸せだった」



名前の幸せを、一番近くで、一番長く願い続けた小さなライバルへ。この勝利は、僕から君への餞別だ。