第3話



斜め前をシエルとエリザベスが乗ったボートが先に川を流れる。エリザベスの翡翠のような大きな瞳が私の方を向き、嬉しそうに手を振ってくる。エリザベスとも久しぶり会えば、相変わらず可愛いものが好きらしい。けれど、綺麗にもなった。彼女はきっとシエルが悪魔と契約したなんて知らないのだろう。けれどきっとシエルを最期まで支える強くて優しい淑女になる。

「久しぶり、ボート遊びも」

セバスチャンと契約を交わしてから、色々なことをした。秘密の仮面舞踏会に繰り出したり、庶民の格好をして街に繰り出したり、一緒にオペラを観に行ったり、恋人のフリをして公園を散歩したりもした。

「お身体の方は、今日は大丈夫なのですか、リサ様」
「うん、今日は良い方」

身体は徐々に徐々に、病が蝕んでいるらしい。身体の節々が痛むのを、無理矢理薬で止めているがそれにも限度がある。そのうち使ってももう効かなくなる時が来るだろう。

「あ、そうだ。お願いがあるのよ」
「何でしょう?」
「本をね、買ってきてほしいの」
「本……ですか」

これから寝ている事が多くなるだろうから、その間に読む本が欲しい。ジャンルは何でも良かった。本を読むときは全て忘れられる。身体のことも、自分のことも。私は死ぬまでにあといくつの物語をこの頭に入れる事ができるだろう。セバスチャンは「かしこまりました」と了承した。
白い野ウサギが、短い脚を頑張って動かしてぴょこぴょこと草むらをかけている。

「アリスは、何で穴に落ちたと思う?」
「不思議の国のアリス、ですか。さぁ……、何故でしょう」

別に、アリスは穴に落ちずとも良かった。ウサギなど追いかけたりせずにそのまま姉さんの話を聞いたり、そうじゃなくとも違う遊びを始めれば良かったのだ。

「アレはね、女の子の通過儀礼」
「通過儀礼?」
「いずれ全てを自分で決めて、不測の自体に立ち向かわなければならないでしょ。何も持たずにひとりぼっちで」

たったひとりで訳の分からない人や物で溢れたワンダーランドに飛び込んだアリス。あの世界をアリスは楽しんではいない。常に緊張してあの場所にいるのだ。

「アリスっていうのは、少女の孤独。孤独の代名詞なのよ」
「あの奇天烈なお話がそんな意味を含んでいたとは」
「私はそう思っただけ」

私はその暗い兎穴を抜けて、大人になる矢先に死ぬ。少なくとも私はその夢幻と錯覚の世界に足を踏み入れなくて済むらしいけれど。

「悪魔って人間の本って読むの?」
「私は多少読まさせて頂きましたよ。まぁ、なぜ文章などというものを残したいのか、私には理解できませんが」

確かに文章は、本は言葉は永遠ではない。

「小説には、"人間とは何か"が書かれているの。そんな根本的なテーマを知らずに読んでいる人の方が多いけれどね」

死ぬまでにそれが見つかるか分からない。最終的には人それぞれにその"何か"が見つかればいいのだろう。
ゆっくりゆっくりとセバスチャンのオールの力でボートは川を流れていく。ズキンと、身体に鈍い痛みが走った。セバスチャンはわたしの身体を労わり、すぐにボート遊びを中止した。ボートから降りて木陰に腰を下ろす。

「シエルは良いの?」
「大丈夫ですよ、気配は感じていますから」

春の兆しを感じられる風が私達の間を通り過ぎた。

「セバスチャン」
「何でしょう」
「……キスをして」

そう言えば、彼は少し驚いた顔をした。だけど、私の横に膝をついて私の顎を少し上げる。セバスチャンの冷たい唇が私の唇に重なった。少しの沈黙の後に、目を開けて彼の胸に身体を預ける。

ものみな金色にかがやく午下がり
僕らの舟ときたらのんびりもいいところ
オール二本はまだへたくそな
おさない腕にゆだねられて
水先案内だって小さな手では
なかなか思うようにまかせやしない


To be continued…
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