交代されたカエンジンが私の手持ち――キノガッサのマッハパンチにより呆気なく崩れ落ちる。これで相手の手持ちは最後、このバトルの勝者は私。
 お坊ちゃまトレーナーのミツグは悔しそうに表情を歪めながらも私に賞金を手渡し、瀕死となったポケモンをモンスターボールに収め早々と立ち去ろうとする後ろ姿を待ってと呼び止めた。

「なんだい? 早く回復をさせに行きたいんだけど」
「これの分貰ってない」

 後ろに従えるキノガッサの首に下げられた幸運のお香を親指で示しつつ、相手の疑問に簡潔に答える。溜め息混じりにやや乱暴な手付きで追加の賞金を押し付けるとそそくさに去っていく相手を興味なさげに一瞥してから掌に残された数枚のお札に視線を移し、ぐしゃりと握り潰した。

「――やっぱ金持ち狩りは効率が良いわ」

 職業、異世界から来た元OL。現在非公認のポケモントレーナー。そのファイトマネーで生計を立てるしがない一般人である。

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 チルタリスに飛び乗り自分の住処がある119番道路へと向かう。本来ゲームならば秘伝技である波乗りと滝登りを覚えたポケモンがいなければ、そしてダート自転車を持っていなければ辿り着けない奥深く。どうやら現実世界となった此処では、空を飛ぶことのポケモンやテレポートを覚えるポケモンがいれば関係ないらしい。最初はゲームとの相違点を様々と見せ付けられているようで困惑したが今ではもう慣れたものだ。最初は怖々としていた飛行も今では手慣れ、生きる為の適応力とは常恐ろしいと実感している。目にも留まらぬ速さで過ぎていくホウエン地方を俯瞰しつつ考えた。

――明日。

 明日で私がホウエンに迷い込んで一年になる。
 一年。生まれ落ちた赤子が匍匐前進し、もしかすると立ち上がり歩くくらいには成長する歳月が流れてしまった。私が元の世界に戻れる手掛かりはまだ掴めていない。

「……帰らなくちゃいけないのに」

 異世界にただ独り置いてけぼりにされてしまった。
 久方振りの休みで買い物に出掛けていた帰り。逢魔が時、彼が誰時の帰り道。最寄り駅から自宅まで一番近道である川と公園に挟まれた小さな小道。そこを通り抜けた瞬間、一層風が吹き上げ砂埃が舞い上がるのを見て思わず目を瞑ったほんの一刻。再び双眸を開いた時には何処までも広がる晴れ渡った蒼い空があって。
 ざあと風により草が揺れる音と近くに滝があるのか勢い良く水の落ちる音、そして眼前に広がる美しい風景と裏腹に茫然自失としたあの瞬間は今でも鮮明に思い起こせる。
 世界に取り残されたあの日。野生のポケモンに襲われ傷だらけになりながらも命からがら逃げ延びたあの時。酷く懐かしい。あれから一年が過ぎようとしているだなんて信じられない。今でも此処が夢なんじゃないかと思うのに。
 時たまだが夢を見る。私が元の世界にいた頃の夢を。仕事をこなした帰り、コンビニで弁当を買い私の好きなゲームをして飽きた頃に眠る夢。今の私が切望している光景。命の危機とは無縁の世界。ああ、帰りたい。その為の切っ掛けを私は必死で探していた。


「今日はなんとか無事に戻れたよ」

 チルタリスをボールへ戻し茂みに隠れた私の住処へと踏み入れながらそう呟く。ただいまとは言わない。私の本当に帰る場所は此処ではないからだ。
 小さなテーブルに揃いの椅子、マット、キャンプ用の五徳、中古の冷蔵庫、古びたソファー、カラーボックスが数個と奥に二部屋あるというそれなりに広さを誇る内部に似つかわしくない簡素な内装。119番道路、辺鄙な場所に位置する茂みの秘密基地。此処が私を支えてきた場所、唯一の居場所だ。
 腰のベルトからモンスターボールを解き放つとキノガッサ、チルタリス、バクーダ、レアコイル、サーナイト、マッスグマが鳴き声を上げて姿を表す。これが私の手持ち全てのポケモンだ。六匹も出せば基地は流石に手狭になるが仕方ない、働いてくれたこの子達にご飯と回復をさせなければならないから。
 この世界の住人でない私にトレーナーカードは発行されない。即ち、ポケモンセンターにあるポケモン無料回復設備の御恩は受けられないということ。ゲームとは違いパワーポイントという概念がない為残数を気にしなくて良いのは幸いだが、ファイトマネーの大凡が傷薬や元気の欠片で消えていくのは痛い。ゲームでは腐らなかった木の実は当たり前だがあっという間に腐るし、回復アイテムの中でもコスパの良い美味しい水は重いしかさばるし何より一度に大量に飲ませる事が出来ない。元気の欠片より便利な復活草はポケモンとの信頼関係の証である懐き度が下がってしまう為常用出来ず却下。よって少々高価であってもリスクのない市販薬を選ぶしかないわけで。
 これがゲームと現実世界の違い。ゲームでは気にせずいられたことを現実世界では気にしないといけない。面倒だ、面倒なことこの上ないと軽く息を吐きながら各々好みの木の実を与え、今日の戦闘で付いた傷を薬で回復させる。それから基地を出て川辺で好きに水浴びをさせ汚れを落とす。水の苦手なバクーダには水に浸してから固く絞ったタオルで体を拭き、レアコイルは感電が怖いのではたきを使って。
 それらが終わってからようやく私の時間だ。基地に戻り奥へ足を向ける。ゲームでは丈夫な板を乗せなければ行くことの出来ない部屋だが、私はそこらの木を刈り取り板を作って乗せていた。なんという異世界DIY。ちなみに基地に置いている家具は私の手作りである。
 閑話休題、板を踏み締めたその先の一室には大型のたらいがどんと鎮座していた。何を隠そう、これが私の風呂場である。近くの川から水を引っ張っている為使い放題なのが利点だが、(当たり前だが)冷水なのでバクーダに温めてもらってから使わないといけないという不便さもあった。
 蛇口を捻り勢い良く溢れ出る水をたらいの中に溜め、その隣にバクーダを解き放ち熱風で水を温めてもらっている間に私は入浴の準備をする。着ていた服は棚の中へ。バスタオルは前日に準備済みだ。ワイヤーラックに置いているクレンジングクリームを取り出して化粧を落とす。化粧と言っても大それたことはしていない。元の世界からの持ち込みがあるとはいえ化粧道具は消耗品、決して安いものではないからケチって使用している。ファイトマネーを稼ぐ程度なら必要最低限のファンデとアイブロウ、チーク、リップ程度で良いが街に出るならアイシャドウを塗ってアイラインを引きマスカラを付け口紅を塗っている。面倒だが必要以上に目立たない為には必須のこと。
 木を隠すなら森の中という諺があるように、異世界から来た私を隠すなら人混みの中。だが街に滞在するには宿に泊まるかポケモンセンターに泊まるか、どちらかの選択しかない。どちらを選んでも支出は免れないからこうして野宿を選んでいるが、ならず者と思われない為に少しでも身綺麗さを表そうと私の囁かな努力だ。
 鎖骨に届く程の髪はこれ以上伸びる前に切ってもらう。あまり長くすると整髪するお金もないのだと思われそうだから。本来の髪色は黒だが茶色に染めている。街行く女性の茶髪率が多いから。日焼けしてしまわないよう日焼け止めは隅々まで塗る。手入れが欠けているとだらしがないと浮いてしまうから。
 浮かないように、違和感のないように。この世界の人達に紛れ込む、隠れ込む。量産型大学生という言葉を思い出すがまさにそれだ。異質な存在がいても、大衆に化け込めば気付かれない。こうして私は一年、誰にも私がこの世界の人間ではないと気付かれないまま過ごしてきた。美容代は馬鹿にならないが私が別の世界から来たと気付かれるリスクと比べるまでもない。
 それなりの値段がするクレンジングクリームを肌に塗り込め、バクーダのお陰で湯と化したたらいに溜まった水を桶で拝借し顔を洗う。もう一度桶に湯を汲み今度は洗髪。清潔感は髪に現れる為髪の手入れにはそれなりに気を使っていた。
 港で話題のモモンの実を使用したシャンプーとリンス、トリートメントの三点セット。これで洗えばふわりと甘い香りが長持ちし艶々の髪を得られると世の女性達に人気の品だ。肝心の効果の程はそれなりに出ていると街で顔見知りになったエリートトレーナーのお姉さんからお墨付きをいただいている。
 シャンプーを手で泡立ててから頭皮につけ指の腹で丁寧に洗う。洗い残しがないよう隈無く洗い流してからトリートメントを髪全体に塗り込め数刻程時間を置き、丁寧に洗い流す。この頃になればたらいの中の水量も十分な位だから蛇口を閉めバクーダに礼を述べてからボールへ戻した。柑橘の匂いがする石鹸で体を洗い、ふうと息を吐く。

(今日も疲れた……)

 視界に入った金を持っていそうなトレーナーへ片っ端からバトルを挑んでいた為疲労が蓄積されていた。バトルとは想像以上に頭を使うのだ。試合の展開を読み相手の裏をかく。此方の技を出すタイミング、相手の技・交代を読み対策を練り、持たせた道具を使うタイミングを窺う、……枚挙に暇がない。今でこそ大抵のトレーナーはレベル差を利用した力技で押し切れるが、私がまだ駆け出しだった頃はポケモンのレベルが低かった為ゲーム知識を利用した戦略で一勝を上げていた。

(今日は十五連戦。 賞金換算して七万数千円、今日は運良く金持ち系を引っ掛けれたから稼ぎは上々)

 欲を言うならもう少し稼ぎたかったが回復薬を使ってもポケモン達の顔に僅かに滲む疲労感が拭えないのを見て止めた。無理に押し進め、本来なら受けるはずのない傷を負えば薬の無駄になる。
 泡だらけとなった体を桶で流しつつちらりと自分の体を見下ろした。右手首に刻まれた歯型、左肘に残る引っ掻き傷、腹部には爪痕、右太腿に打撲痕、左足首にも傷が残っている。全て、私がこの世界に来てから受けた傷だ。右手首はポチエナ、左肘はサンドパン、腹部はザングース、右太腿はコモルー、左足首はラクライだったっけ。まだぴちぴちの二十歳なのにこんな傷だらけの体なんてと気が沈む。元の世界に戻った時なんて説明しよう。猛獣と戦っていました、とか? 強ち間違いではない。
 丁度良い湯加減のたらいに浸かり上を見上げる。明日で一年。そろそろ戻る切っ掛けを掴まなければいけない頃だろう。異世界サバイバルに順応している場合ではない。想像したくはないが時間切れで帰れません、なんてことがあるかもしれない。否、もう時間切れなんて言わないだろうか、はは、まさか。
 頭を過ぎった可能性に乾いた笑いを一頻りした後、私は無表情になって立ち上がる。

――明日、最初に居た場所に行こう。

 何が何でも切っ掛けを掴まなければ。戻りたいと思えるうちに。私がこの世界に完全に順応しないうちに。
 この一年、過ごしてきて命の危機に晒されることもあったし食べ物に困ることも数多くあった。けど、それでも生きていこうと思えたのは私が一人じゃなかったから。怪我をしていたジグザグマを介抱し懐いてくれてからこの子とどんな時でも共に居て苦難を乗り越えてきた。仲間が増え、賞金を安定して入手出来るようになってから元の世界に戻らなくても良いんじゃないかと思えきた。思ってしまった。
 けど、今でも思い出す。時たまだが夢を見る。私が元の世界にいた頃の夢を。ミスをして叱られることあるも同僚と飲みに行き愚痴を言い合いカラオケでストレスを発散し、食事はコンビニ弁当が主だが実家から送られる米とインスタント食品、私の好きな漬け物。発売を楽しみにしていたゲームを寝る間も惜しんで没頭し友人と感想を言い合う夢。家族、友人、同僚達はどうしているんだろう。突然私がいなくなって心配してないだろうか。泣いてないだろうか。
 それが気掛かりで、私が元の世界に戻ることを諦めればあそこに残してきた者を裏切ってしまうようで。

(それに、いずれこの世界には災厄が降りかかる)

 伝説のポケモングラードン・カイオーガの目覚め。ゲームシナリオが始まればこの二匹は悪の組織の手によって目覚め、世界を揺らがす事件が起こる。出来れば、その前に戻れれば良い。

(滅びるかもしれない世界に居ようだなんて誰も思わないでしょ?)

 この物語の主人公が、幼い少女か少年が世界を救ってくれることを知識として知っている。だが、此処は現実世界。本当に現れるのか、現れたとしても役不足ではないか。ゲームとシナリオが変わっていくなんて展開、ネットで数多く読み漁った私には不安材料でしかない。
 ゲームとシナリオが違えば、この世界を救う方法が知識として知っている私が動かざるを得ない。私が生きる為に。私が生きて、元の世界に帰る為に。

(出来れば、私が介入せずに済みますように)

 髪の毛から水を滴らせながらバスタオルを取りに行く。異分子がゲームシナリオに介入してしまえば何が起こるか分からない、というのがネット小説から得た知識だ。世界の強制力なんてものもあるし、一介の娘に出来ることなんて高が知れているだろうけど。
 がしがしと体と髪から水分を拭い、化粧水とナイトクリームを手早くつけてから下着を身に付け寝間着に袖を通す。ボールに入ったバクーダを手に持ち浴室から出て残りのボールを回収してからもう一室へ向かう。質素なベッドと箪笥、カラーボックスが置かれた簡易的な寝室だ。机代わりのカラーボックスに手持ちのボールを並べ傍に置いているベッドへ力なく横たわる。

「皆、お休み」

 ぼそりと呟いて眼を閉じた。明日は私の始まりの場所に行く。114番道路、付近には流星の滝。ゲームでは物語の鍵となる場所。私が最初、そこに居たのは何かの偶然だと良いのだけどと思いながら意識を手放した。
'16.07.30

異世界サバイバル生活

AiNS