姿見の前でどうしようかと眉を顰める。出来れば、一年前と同じ格好の方が良いのだろう。頭を打って記憶を失ったのなら同じように頭を打ってみるという荒療治が存在するように同じ状況下を作り上げることで問題が解決することは良くある話だ。それに、羽衣を隠された天女が天へ帰れなくなった、という昔話もある。
 ただ着るだけなら問題ない、捨てれずに取っているから。だが、私がこうして躊躇う理由があった。それは。

──ボロボロなんだよなあ。

 襟刳りが広いアシンメトリーな裾レースの淡茶色ワンピースは所々擦り切れ漂白剤でも落ち切れなかった汚れが点々とし、おまけに脇腹はザングースから受けた攻撃の所為で穴が空いている。中に着ていた胸元に大きなリボンのついた白いキャミソールも同様。パニエも裾が綻びているし、本来白色だったボレロは落ち切れない汚れで色が変わっている。レースアップブーティも山道や岩を越えてきた所為でヒールが擦り切れていた。

「やめよう」

 姿見に映るボロボロの格好をした自分を見て即断した。これで道を歩くなんて余計な注目を集める。それにこんなローブランドの服が羽衣のはずがない。天女でもないしね。
 いそいそと普段通り、動きやすい服装に着替え軽く化粧を施す。さっさと114番道路に行って手掛かりがないか確認しよう、何もなければ金稼ぎだと今日一日の計画を考えていたところに突如鳴り響くポケナビの着信音。一体誰からの電話だと訝しげにポケナビを手に取り画面に表示された名前に嗚呼、と表情を緩める。

「──マリナ?」
「あっ、メイ! おはよ。ね、突然だけど今日暇?」

 電話口の向こう、朝からハイテンションな彼女、マリナ。この間エリートトレーナー試験に合格したばかりの新人エリートトレーナー。半年程前にバトルをしその後バトルの指南をお願いしたいと言ってきた相手、私が記憶喪失であると偽り接している相手。

「今日? んーっと昼過ぎまでなら空いてるよ」

 彼女の誘いを断り元の世界に戻る手掛かりを一日中探すか。後回しにしても彼女の誘いに乗るか。一瞬の逡巡のち、私は是と返答していた。だって毎回ご飯奢ってくれるし。

「本当!? ならカイナのポケセン前で待ち合わせしない? 雑誌に載ってたランチがすごい美味しそうだったからどうかなって思ったの。あ、勿論誘う私が奢るから」
「やった、ごちになりまーす! カイナなら二時間くらいで着けるよ」

 肩と耳にポケナビを挟みながら支度を進める。髪を手櫛で整え、日焼け止めを取り出して露出した肌に塗りたくる。とはいえ、至る所に傷がある為隠すような服装だから差ほど塗る面積はないが。あ、街に行くのだからメイクをもう少し気合い入れたものにしないと。

「了解、それじゃあ合流するのは十一時くらいかな? ランチ終わったら鍛えたポケモン見てね」

 その言葉に了解の返事をして通話を終える。手早くアイシャドウやらアイラインやらを引くとスニーカーを履き爪先を地面へ叩いてリュックサックを背負った。
 さて、行こうか。あわよくば今日でこの異世界生活が終わりますように。


 ▼▲


 ヒトとポケモンそして自然が行き交う港、カイナシティ。カイナ市場やクスノキ造船所、コンテストライブ会場、ポケモン大好きクラブのある活気に満ち溢れた街だ。そこに降り立つとチルタリスをボールへ戻しポケモンセンターへ足を向ける。擦れ違う人、人、ポケモン、人、ポケモン。街行く女性達はそれなりに着飾っていて私も同様の格好が出来、うまく溶け込めているのか誰も不審な視線を向けてくることはない。その事実に心の中だけで息を吐き意識して背筋を伸ばしつつ目的の場所に辿り着けば素早く視線を彷徨わせる。

(いた)

 深緑の長髪を吹き抜ける潮風に靡かせる彼女。傍らにはカクレオンが控えていた。急ぎ足で傍に寄り「マリナ!」と声を掛ける。

「メイ! 久しぶりね、元気してた?」
「久しぶり。 勿論、元気してたよ。 あ。それはそうとエリートトレーナー合格おめでとう」
「電話でお祝いしてもらったからいいのに。でもありがとう」

 にこやかに微笑を浮かべる彼女の服の襟元には、エリートトレーナーを名乗るに相応しい者だけに贈られる徽章があった。エリートトレーナーとは、誰もがなれるものではない。ポケモン協会が年に一回、開催する試験の筆記・実技ともに好成績を修めることが必須条件。そして普段からの素行も重要視される。
 エリートトレーナーになれば出世の幅が広がる為目指す者は少なくない。昇格出来ればジムトレーナーだって警察にだってなれる。逆を言えばジムトレーナーや警察を目指すならエリートトレーナーにならないことには始まらないのだ。
 雑談を交わしつつ彼女の案内で件のランチがあるというカフェへ向かう。彼女曰わく、テレビでも紹介されたらしい。ちなみにその時のレポーターはミクリだという。

「ミクリ様が食べていたサンドイッチがとても美味しそうで美味しそうでずっと来たかったの」

 一人で行くのはなんだか恥ずかしいし、誘いに乗ってくれる子はメイしか浮かばなくて。
 そう言って恥じらうマリナへ口角を上げにこりとした笑みを返す。

「食べ物の誘いは大歓迎だよ! 私、昨日の晩から何も食べてなくてお腹ぺこぺこなんだよねえ」
「昨日の晩から!?」

 仰天する彼女がちゃんと食べないと、と呆れた物言いをするのを私は苦笑で応えた。私が食べずとも何日かは問題ない、最優先事項はポケモンと身嗜み。ポケモンが元気でなければファイトマネーは稼げないし、そこらのごろつきと一緒くたにされれば金持ち系トレーナーに相手されないし不良が同志かと言わんばかりに声を掛けてくる。

「ま、今日は遠慮なく食べて」

 その言葉にうん、と答えて重そうな木製のドアを開ける。取り付けられたベルがちりりと音を立てるのと鼻腔を甘い匂いが擽ったのは同時だった。


 オーシャンビューのお洒落なカフェで舌鼓を打った後に彼女の鍛えたポケモンを見、軽く手合わせしたりアドバイスを送ったりとしていたらあっという間に時計の針は十四時前を指していた。此処からハジツゲタウンまで一時間半位掛かるからそろそろ向かわねばいけない、夜に洞窟に出向いても見つかるのも見つからないだろう。
 ごめん、用事があるからそろそろこの辺でと一言断れば名残惜しそうな顔をしつつも了承してくれた。

「元々、昼過ぎまでの約束だったでしょ?」
「あはは。ごめんね、また行こうよ。今度は私が奢るし」

 そういう言葉は自分がちゃんと食べるようになってから言いなさいと説教じみた声で言われ肩を竦める。

「……生活は大丈夫なの?」
「私が強いってこと、一番弟子のマリナが良く知ってると思うけどな」

 そうだけどと眉を下げる彼女は、秘密基地で野宿してるんでしょうと潜めた声音で続けた。私のことを心配してくれているのは表情と態度からありありと伝わってくる。
 この世界で女性の一人旅はありふれたもの。だが野宿は危険性を鑑みて推奨されていない。大概の女性達はポケセンか宿泊施設に泊まっている。私もそうしたいのは山々なのだが。

「……まだ何も思い出せないし、そんな状態でポケセンとか病院行っても手詰まりだと思うんだ。それに、失踪者捜索一覧にも私のような人はいなかったでしょ? それって家族に疎まれたか家族がいないか、じゃない? 身元が判明していないのに、発行に厳しいトレーナーカードを発行してくれるとは思えないし」
「それは…………」
「だから、このままで良いの。大丈夫、私強いから今もファイトマネーでなんとかやっていけてるし!」

 明るい声で全然気にしてないと、大丈夫であると身振り手振りでアピールする。マリナは会う度、公共機関を頼った方が良いと口酸っぱく言ってくるから正直辟易していた。公共機関を頼るつもりなんて微塵もない。寧ろ私の立場を悪くするだけ。公共機関で記憶喪失と偽っても騙されてはくれないだろう、血を抜かれDNA検査されるはずだ。この世界に私のDNAはないからどういうことだと疑問視される。そうなれば話さざるを得ない。
 異世界から来たなどと頭がいかれたとしか思えない言動を繰り返す女性。この世界はゲームの世界でいずれ伝説のポケモンが目覚め世界は崩壊の危機に云々なんて信じる輩が何処にいる、精神科病棟行きで私は元の世界へ戻れる手掛かりを探し出すことは出来ないだろう。
 だから、行動を制限されることのない今の立場が丁度良い。
 私の態度から逼迫感がないと判断したのか、彼女は分かったと引き下がり内心で安堵の息を吐く。

「でも何かあれば遠慮なく言って。エリートトレーナーだから多少の融通は利くから」
「ん、分かった」
「それと──……」

 紡いでいた言葉を区切り、警戒するように周りへ視線を張り巡らす。何かを確認するような探しているような動き。どうしたんだろう、と私が彼女の視線につられ動かそうとしたところでその唇が秘密事を囁くかのような声量で動いた。

「アクア団とマグマ団の動きに気を付けて」
「──」

 告げられた言葉に息を呑む。最近動きが活発している、奴らは環境保護だ云々言っているけど犯罪行為を繰り返している、協会からも動向に注意すべしとの通告が出ていると続いた彼女の台詞は思考の海に阻まれた。

(今まで水面下でしか動いていなかったのに)

 確かに、ここ数日街やメディアで彼らの名を聞くことが増えた気がする。彼らの動きが活発化すればいずれ旅に出る主人公となる少女か少年だかとの衝突は免れない。それとも、物語が動き出そうとしているとでもいうのか。

「……うん、忠告ありがとう」

 私がこの世界に来て一年。物語が本格的に動き出そうとしている。伝説のあの二匹が、目覚めるのもそう遠くはないだろう。それを私は知っていて、出来ることは一体幾つあるんだろう。
'16.08.05

忍び寄る開幕

AiNS