綺麗に手入れされた艶やかな長髪を一房持ち上げる。途端、ふわりと鼻腔を擽る香油に思わず鼻を鳴らせばくすくすと控えめに漏らされた笑い声にはっとして指を離そうとしたら良い、と落ち着いた低音で遮られた。

「我が触れよと言ったのだ。そのまま続けてくれ」
「う、……はい」

 確かに触れろと言ったのは尾崎さんだけど、それは私が彼の持つ長くて綺麗な髪に不躾な視線をじっと向けていたからで。それに気付いた彼が気になるのなら触れてみるか? と提案してくれて私が狼狽えていると痺れを切らした彼がええい、そんな視線を寄越しておいて間怠こい。良いから触れよといつもの温厚な口調が変わってしまったので慌てて長髪へ手を伸ばしたのが事の次第だが、なんだかむずむずするというか気恥ずかしいと思うのは私だけだろうか。ちらりと覗き見た尾崎さんの横顔は変わらず涼しげで、恐らくそう思っているのは私だけなのだろう。
 持ち上げた髪を指から離せばまるで絹のように滴り落ちる。一本一本がしなやかでコシと艶とハリがあり、なんだろう。私の女としての何かが負けた気がしてならない。どうやったらこんな美しい髪になれるのか不思議だ。もう一度一房手に取れば指先に巻き付けて遊んでみる。くるりとうねった髪の毛は、離すと癖などつかずに元の真っ直ぐとした形に戻っていった。

「け、形状記憶……」
「何を言っておるのだ汝は」

 感動に打ち震える声を上げた私に呆れた声音が返ってくるもその声色はどこか優しい。指先から髪を落としたり巻き付けたりして遊んでいると、だんだん別の欲求が生まれてきた。お、怒られたりしないかな。
 そわそわとしだした私に気付いた彼が今度は何じゃと尋ねてきてくれたので編み込みをしたくてと控えめに言ってみる。

「編み込み?」
「はい。尾崎さんがしている三つ編みと似たような編み方なんですけど髪が長い方が結いやすいので」

 私はほら、短いからと自分の髪を摘まんで言えば成程と一つ頷き汝の好きにすると良いと言ってもらえたので遠慮なく好きにさせてもらおう。
 寝台の傍に置いてある椅子に腰掛けていたのだが、編み込みをするなら近付いた方がやりやすいと行儀悪く足で椅子を動かしぴとりと寄せる。己の足が邪魔になるので横に投げ出し臍を彼に向け両腕を伸ばした。枝毛切り毛縮れ毛一つ見当たらない髪を掬い取り丁寧に編み込んでいく。
 懐かしいな、昔こうして妹の髪の毛を結っていたっけ。長髪で、誰譲りなのか不明だがサラサラとした髪質だったので結うのが楽しく、毎日櫛で梳き結い上げるのは私の役目だった。私にアルケミストという能力が発覚してから国定図書館に籠もりきりになったお陰で家に帰れず妹の髪に触れないで何ヶ月経っただろう。

「楽しそうだな」
「え?」
「汝がそう、楽しそうにしているところを初めて見た」

 思わず手を止めて翡翠色した眼睛を見つめる。目元に紅をつけた彼はどういう意図を持って発したのか判別つかない色をしていた。

 特務司書は自ら戦う力を持たない。嘗ての文豪を転生させる力を持つ、それだけだ。戦場に赴き侵蝕者と戦うのは転生した文豪の役目、侵蝕され傷付き戻ってきた文豪をただ迎えることしか出来ない。
 それ故、出来るだけ彼らが侵蝕されないように采配する必要があった。彼らは戦うのが役目なのだからと言われてしまえばそれまでだが、人間のエゴで一度死んだ人間を転生させ戦場に向かわせるなんて私の道徳が痛むし単純に血を見るのは苦手だ。戦場となる有碍書を調べ上げどの武器を持つ文豪で会派を組めば最深部へ到達しやすいかを収集し、一人一人の精神状態・疲労度を逐一確認し念には念を賢者の石を持たせ無理のない潜書をこなしている。潜書に行く彼らの様子を見守る中、侵蝕され戻ってきた彼らを寝台へ送り回復させる中、ずっと緊張の糸が張り詰めたまま過ごしてきた。

 楽しそうにしているのを初めて見た、か。確かに私は特務司書に任命されて数ヶ月、楽しいと思ったことなんて一度もない。周りは偉人で年上の男性だらけだし私の判断を誤れば彼らが絶筆してしまう可能性もあるし。

「安心した。汝もそういった歳相応の表情が出来るのだな」
「──、」
「助手を任された時から汝を傍で見てきたが、いつも気難しい顔をしているぞ。もう少し肩の力を抜け。我等は汝が危ぶむような軟弱者ではない、見くびるな」

 真っ直ぐと射抜かれる視線に居心地の悪さを覚えて思わず視線を逸らして彷徨わせ、俯きがちに彼の髪留めを見つめる。

「侵蝕者と戦うのは我等の役目だ、汝がその事に気を病む必要など無い。こうして一々寝台に様子見に来る必要も無い、汝が保たぬぞ」
「は、い」

 なんとか返した言葉は酷く掠れていた。そんな私を見てか、大きく空気を揺らす音が耳に入り嗚呼、呆れられたかななんて思っていれば衣を擦る音が聞こえてくる。疑問符を浮かべて直ぐに、何かに包み込まれるような感触がし反射的に顔を上げれば眼前に整った顔立ちがあった。動揺して固まる私を余所に、私の背に両腕を回した彼は赤子をあやすような手付きで背中を柔く一定の韻律で叩く。

「我を頼れ」

 ぽかんと半口開け阿呆面で見上げる私に彼は言った。

「一人で握りを全て用意しようと思うな。有碍書の情報収集も会派の編成も戦場の采配も汝一人で全てこなすには無理がある。自分の力ではどうにもならんことも多い、何の為に助手である我が居る。老体だが、汝の力になれる事はある」

 慈しみを帯びる眦を細めた双眸から視線を逸らせない。彼の虹彩に映り込む私は酷く間抜けな顔をしているなとあまりの動揺に場違いなことを現実逃避に考えていた。そんな私の思考を知ってか知らずか彼は口端を吊り上げ悪戯めいた表情で言うのだ。

「阿呆面だな」

 気難しく悩んだ顔より今の方がずっと良い、と。

纏まらぬ洋墨

AiNS