彼のことは有名なアイドルの弟という肩書きなしに気になっていた。

 紫紺色の髪と瞳を持つ彼は、整った顔立ちと似た顔を持つ兄の所為で嫌でも人目を惹くらしく人目を避けるように裏庭を訪れていた。彼と初めて出逢った、と言えば語弊があるが(私が一方的に彼を知っていて幾度か擦れ違ったことがあるからである)彼に私が初めて認識されたのはその時だったと思う。

 彼は歌っていた。リズムもピッチも非の打ち所がない歌声で。
 何処か機械的な音は否めなかったがそれを陵駕する歌声だと思った。彼が歌い終わって私をちらりと一瞥すると特に何か言う訳でもなくまた歌い始める。
 邪魔しないようになるだけ気配を消していたのだが、気付かれたのなら消していても意味はないかと開き直り地面を踏み締めて私の定位置となっている大きな木の根元にシートを敷き座り込んで楽譜と書き掛けの詩を広げる。私がこの裏庭を訪れて必ずやる作業だ。本当に校内なのかと疑う程静かだし人は来ないしで作業が捗る絶好の場所だったのだが彼に見つかったとなると移転を考えた方がいいかもしれない。人目を避けるために此処に居るのだ。それなのに人が居ては気まずいだけだろう。というか歌うだけならレコーディング室がある。そこ使えよ。
(しっかし歌上手いな……流石Sクラス)
 先程も思ったがリズムとピッチに乱れがない。生身の、プロでもない人間がここまで歌えるとはねと感嘆してシャーペンを持ち、詩の続きを書き始める。
 彼の歌声をBGMとして聴き流しながら校正を重ねていった。

 ふとBGMが途切れていたことに気が付く。不審に思い顔を上げるとすぐ近くにある紫紺と眼があった。……すぐ近く?
「……」
「…………」
「……何か?」
 暫く無言で見つめ合っていたが根負けして尋ねてしまった。美形は心臓に悪い。
 彼は私の正面にしゃがんでいた。座っていないのは制服に砂が付くのを危惧しているからだろう。
「貴方が作詞し始めたときからこうして目の前に居ましたが。……なかなかの集中力でしたね、反応が一切なかったんで驚きました」
 気付いてからも特に驚いた反応がないのでここまで冷静に対処されると悲しいものがありますね。
 そんな言葉を無表情で淡々と紡ぐ彼は、「悲しいものがある」と言いつつも一切悲しそうには見えない。それよりも彼が意外と饒舌なのに驚く。
 常に冷静なイメージがあるため一言二言くらいで会話は終了すると思っていた。否、それは割とどうでもいいとして。
「……何か用ですか」
 書き終えたばかりの詩をまとめながら問い掛ける。わざわざ歌を止め私の目の前に座っているのだから用はある筈だ。これで特に何もなく単に彼の気紛れで話し掛けて来たのなら私は彼の認識を改めなければならない。
「どうでしたか? ……私の歌は」
「はい?」
「ですから歌の感想を尋ねているんです。 聴いていたんでしょう?」
 感想を訊かれるなんて思っていなかった私は少し狼狽える。確かに聴いてはいたがあくまでバックグラウンドミュージックとしての役割でしかなくそこまで集中して聴いていない。しかし正直に「集中して聴いていないので特にありません」と答えるのもどうかと私の良心が思ったので最初に持った感想を告げる。
「……リズムもピッチも、ここに楽譜があったなら譜面通り完璧だったと思います」
 そう言った瞬間、彼の表情が曇ったような気がした。褒めているのに何故、と疑問を覚えつつ言葉を続ける。
「でもリズムやピッチを譜面通りに歌うならロボットだって出来ますよ」
 世の中にはボーカ○イドという歌うアンドロイドだっているのだ。それらは与えられた楽譜を「その通り」歌う。しかし人間は違い、与えられた楽譜・詩から感情を読み取り想いを乗せて歌う。――彼に足りないのはそれだ。
「一ノ瀬さん。 貴方ロボットですか?」

 初対面なのに失礼な言い草だと我ながら思ったがあの時の一ノ瀬はそんな言葉を望んでいる気がした。
 彼は私の言葉に怒りもせずはたまた泣きもせず、成る程そういう見解もあるのですね、と呟き受け止めていただけ。
「君、名前は何と言うのですか?」
「……Bクラスの匿無名です」
 SクラスとBクラス。関わりのない私が彼に認識された瞬間だった。

'13.5.21

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