眩いばかりの光量と視界を埋め尽くす桜吹雪の向こう側、すらりとした長身がうっすら浮かび上がるシルエットが徐々に鮮明となっていく中、そこに佇む男を見留めた瞬間呼吸が止まった。
 ひくりと咽喉が引きつる音。見開いた双眸に映る彼から眼が離せない。半端に開いた口唇は端から見れば間抜けに映るだろうがそんな些細なこと、今の私に気にしていられなかった。
「へし切長谷部と申します。 主命とあらば何でもこなしますよ」
 そう告げ、こうべを垂れて傅く彼の綺麗に分けられた旋毛を何処か泣きそうになりながら見詰めていた。


 柔い声が聴こえる。私の、大好きなその声は私の名前を紡いでおいでと手招きをしているようだった。誘われるようにふらりと彼に近付いて体育座りした脚の間に躰をすっぽりと収め心臓に小首を当てて眼を閉じる。とくんとくんと脈立つ音の心地良さに意識がたゆたいながら彼の名を呼んだ。背中に回された手が呼び掛けに応えるように数度ぽすんと叩いて此方から見えない彼が薄く笑うのを空気で感じ取り連られるようにして私も笑う。幸せだと。
 揃いの指に嵌められた、飾り気のない素朴なデザインの輪がひっそりとその存在を主張していた。

 新たに降ろした刀剣に本丸の案内をと仕えていた近侍に頼んで執務室への帰路を辿る。動揺を悟られないようにしながら口許に笑みを浮かべて「ようこそ、へし切長谷部様。 貴方が具現されるのを心よりお待ちしておりました。 どうぞそのお力をこの審神者に、歴史に仇なす輩を屠る為にお使いいただければと存じます」とにこやかに友好的に言うのはなかなかに骨が折れた。常ならこの言葉は契約の証、降ろされた付喪神を歓迎しその目的を伝え、喚び起こした張本人を眼に焼き付かせ仕えるべき主であると認識させる為の行為であるが今日程心底嫌になった日はない。
 ──へし切長谷部。
 煤色の髪に薄藤の眼晴を持つ美丈夫。真摯に貫いた双眸の奥に潜む強い意志は彼の人と瓜二つだった。思い出してしまえば、未だ両手が震える程に。
 彼を視界に入れたくなくて俯き加減にぴっしりと締められた釦の下、胸元の飾り結びを見詰めていたが不躾な主であると思われなかっただろうか。些か早口に紡いで近侍へ引き継がせたが不自然ではなかっただろうか。
 ぐるぐると不安ばかりが駆け巡る。開けた襖を後ろ手で閉めてそのまま凭れ掛かるようにずるずるへたり込んだ。
──頭の中では理解出来ている。
 彼と彼の人が違うことくらい。髪色だって眼の色だって全然違う。身長だってあんなに高くはないし慇懃でもなかった。でも纏う雰囲気が縁取られた眼差しが、そっくりで。
(重ねてしまったこと、申し訳ないなあ……)
 降ろして初っ端、過去の亡霊に一瞬でも縋りを見せてしまったことへの恥。双方への罪悪感。一介の人間を畏怖すべき神の末端へ重ねたこと、これから共闘すべき仲間を私の唯一無二の恋人に重ねたこと。
「しっかりしなくちゃ」
 全く別の人間(片方は神だが)を同じ視線で見てしまうのは失礼だと重々承知している。ぱしんと頬を両手で挟み込み己を戒めてから気合いを入れた。私は、歴史修正主義者と闘う為に喚び起こされた刀剣の付喪神を使役させる為に存在する審神者である。現世を捨てこの身を神に捧げると誓ったあの日。自らあの温もりを暖かな居場所を捨て去ったあの日。私を引き留める力強い指先。眼晴の奥に涙を堪えて眦だけは吊り上げたまま、問い質す声。どれも、未だ鮮明に思い起こせる。傷付いた表情に左手を伸ばそうとして私にその資格はないと思い留まったときに見えた、嵌められた揃いの指輪が私を責めているようだった。
 双眸を閉じて息を吸う。いち、に、さん、し。肺に溜まっていく新鮮な空気は蟠りを振り払っていくようだ。大丈夫、私はやれる。余計なことは考えず審神者としての役割を使命を果たすことだけ考えれば良い。眼を開けて考える。次は何をしようか。上への定期報告書はもう少し様子見をしながら書かなければならないからまだ先で良い。今日のノルマは順調にこなしているし心配はない。第一部隊の各刀剣の錬度は疎らだったが第三部隊に低い者は移し検非違使に遭遇しない程度に合戦場を度々変え錬度を上げてきたからそろそろ編成し直すのも良いだろう。部隊長の石切丸に意見を聴いてみないと。そうして新たに空いた枠に今日鍛刀したばかりのへし切長谷部を様子見で闘わせてみて。否、人の躰に慣れさせる為に手合わせから始めてみようか。
 やるべきことが次々と浮かんで実行しようと畳に手を付いて立ち上がった瞬間。俯瞰した視線の先に映る左手薬指。ぐるりと囲うそれは、鈍い輝きを放つだけで何も言わなかった。

 *

 最近、夢を見る。へし切長谷部を降ろしてから厭に色彩を帯びた、彼の人の夢。口端に柔い笑みを湛えて此方を見やる彼の口唇が動いてそれに呼応するように並んだ私が手を繋ごうと伸ばして、もうすぐ触れるその瞬間、跡形もなく霧散する。伸びた彼の左手から覗く銀色から瞬いて。
 そうして私は曙光が差すなか飛び起きるのだ。
 今日もまた。

 息が乱れる。浅い呼吸に心臓が忙しなく動くのを、寝衣の合わせを握り締めた左手が聴いていた。額を伝う汗が気持ち悪い。背中もびっしょりと濡れているような気がする。このまま二度寝に入るのは些か生理的に受け付けないので起き上がり手拭いを持って井戸へと向かった。
 ぺたぺたと素足が床を踏み締める音をBGMに薄暗い廊下を歩く。あまり夜明けに出歩くことはないからなんだか新鮮に見えた。
 突っ掛けに足を通して外へ出る。本丸の季節を春先に設定して暖かな陽気とはいえ、夜風は張り付いた寝衣に突き刺さり身震いをしたがこれくらいが丁度良いかもしれない。冷静になれない頭を冷やさないと。
 この数日、へし切長谷部とはあまり関わりを持たないようにしてきた。元から刀剣との交流は自ら関わりを持たない主義である。近侍こそ任命してはいるが自分でやった方が早いこともあるから殆ど自分で済ませているし神の末端をこき使うのは気が引けた。だから、他の刀剣にも気付かれていないと思う。此処の本丸では必要以上の馴れ合いはしないとそう思われれば幸いだ。
 冷水に手拭いを濡らし固く絞って顔を拭く。首筋も擦り、残りは背中だが流石に外では憚れる部屋に戻ってからやろうともう一度絞り直したところで視界の端に何かが揺らめいた。地に落ちたそれを凝らして見やると桜の花弁で、辿ると夜桜が風に吹雪いている。不意にフラッシュバックするのは、桜並木を手を繋いで歩いたいつかの時。穏やかに緩める口許と靡く髪が、見えた気がして。
「──主?」
 突然聴こえた声に掻き消された。
 急いで振り返ると武装を解いた司祭服の持ち主が闇に浮かび上がるようにして立っている。
「へ、し切長谷部様……」
 動揺に声が揺れた。なんで今、よりにもよって彼が此処にいるんだろう。瞠った視界に映る彼とぼやけた彼の人の残像が重なる。戦慄く口唇で何かを紡ごうかして結局それは音にならない。そんな私に気付いていないのかへし切長谷部は「驚かせてしまった御無礼をお許しください」と頭を下げた。
「主が何処かへ行かれるようでしたので、護衛も付けず夜明けを出歩くのは例え本丸内であろうとも危険だと判断し後を追いました」
「あ……そうでしたか」
 お気遣いありがとうございますと震える口唇を叱咤して何でもない風に装う。大丈夫、薄暗いし少し距離があるから此方の様子は気付かれていない筈だ。
 それにしても何故彼がこのような時間帯に起きているのか。まあ大方私が起こしてしまったのかもしれない。新たに降ろした刀剣は、人の身や人間の生活に不慣れであるのを考慮していつでも頼れるよう次の刀剣がやってくるまで私室の隣の一室で過ごすように指示している。気配に敏い彼らのことだから私が襖を開け足音を立てて歩いた時点で起こしてしまったのだろう。申し訳ないことをした。
「して主」
 砂利を踏む音が一歩近くなる。闇と同化し濃くなった薄藤が二つ、私から逸らさず真っ直ぐ射抜くのに居心地の悪さを覚えながら次、放たれるであろう言葉を予測して待つ。
「此処で何をしておられたのですか?」
 問われると思った。
 内心でごちて、「寝汗をかいてしまったのでそれを拭いに」と簡潔に答える。へし切長谷部は納得したように一つ頷いて成る程と言った。
「しかし女人が一人で出歩くのは感心出来ません。 部屋まで送ります」

『こんな時間まで仕事熱心なのは感心するが、夜道を女性が一人で歩くのは危険だ。 近くまで送る』

「──ッ!」
 息を呑む。思わず口腔から出掛かった彼の人の名を掌で塞ぐことでせき止めた。ぱさりと布が地面に落ちる音が遠く聴こえて、しかしそれを拾おうという気等おきない。ふらつくように一歩後退するとへし切長谷部の訝しげな声が聴こえた。如何されました、との問い掛けに答える余力なんてない。
 違う。彼は彼の人じゃない。眼前に居るのはへし切長谷部という名の刀だ。そう頭では理解していても心が認めない。どうやら私はまだ彼の人を振り切れていないらしい。
「顔色が優れませんね、早く部屋に戻られた方が宜しいかと」
 いつの間にか目の前まで来ていたらしいへし切長谷部が俯いていた私の顔を覗き込む。薄暗さのなかでも映える薄藤が彼の人の持つ色と違って何処か安心した。
 私の落とした手拭いを拾い上げ洗い直して「行きましょう」と催促する。それでも動けない私に失礼、と断りを入れて恭しく私の右手を取った。半ば引き摺られるようにして少し明るくなった廊下を歩く。手袋のない繋がれた素手を見て唇を噛み締めた。こんな簡単に繋げられるのに、なんで。底の空いた砂時計から零れ落ちる砕砂のようになんで彼の人の手は。
「主」
 そう呼ばれて顔を上げると「着きましたよ」と視線で横の部屋を差す。いつの間にか部屋の前まで来ていたらしい。歩みが止まっていたのにも気付かなかった。
 ありがとうございます、と頭を下げて逃げるように襖を開ける。居た堪れなかった。彼は私を純粋な心配だけでここまでしてくれたのに私は彼の人のことしか考えていない。駄目だ、しっかりしなくちゃ。審神者として刀剣を束ねる者として──。
「お休みなさい、主」
 不意に掛けられた言葉にばっと後ろを向くとなんとも言えない表情をしたへし切長谷部が「良い夢を」と言って立ち去ろうとする。慌ててその背中に「お休みなさい」と返して、襖を閉めることすら忘れて消えた背中を眼で追った。

『お休み』

 頭の中で響く言葉が離れない。だって未だ思い出せる。本丸での生活、慣れない戦場での采配や精神を疲弊させる霊力を使った手入れ等に忙殺され忘れてしまったと思っていたけどそんなことはなかった。
 慟哭に叫ぶこの感情の名を本当は知っている。でも出来ればそれは忘れたままでいたかった。
'16.3.26

慟哭に叫ぶ感情の名を知らない振りをする

AiNS