「好きやで」


そう言って口角を綺麗に上げる。はにかむようにしてから私の手を握った。

安田章大は、ずるい人間だと思う。





「今日一緒に帰ろ」


初めてそう言われたのはもう1年ほど前になる…んだっけな。よく覚えてない。新クラス初の席替えで隣同士になった私たちは、まだ仲良くなりかけていた頃だった。そんなに仲良くなかったからこそ、照れずに頷くことができたのかもしれない。
帰り道がこんなに楽しいものだなんて知らなかった。彼とゆっくり歩きながら話す時間はあっという間で、時折流れる沈黙もそんなに苦にならなかった。

「明日からも一緒に帰ろう」

家まで送ってくれた彼が会話の流れのままそう言うから、私は「送ってくれるんだったら」と軽く答えた。「もちろん」彼も軽く答えてお互いに手を振った。

「帰りどっかよって行かへん?」

お互いの気まぐれで寄り道することが増えた。私は彼と過ごす時間が増えることが嬉しかったし、彼のいろんな一面が知れてただただ楽しかった。
『2人は付き合ってるの?』私と仲の良い友人、彼と仲の良い友人、両者から頻繁に聞かれるようになった。『付き合ってないよ』当たり前のように言う私に友人が驚いていたのが印象的だった。私たちは本当に付き合ってなかったし、たまにお互い別の友人と帰ることだってあった。

「部活入ってんけど、俺松岡と一緒に帰りたい」

少しした頃、彼は友達に誘われて軽音部に入部した。さみしそうな顔でそんなことを言うから「じゃあ待ってるね」と私は週3回教室に居残って勉強するようになった。ときどき彼の部活を見に行った。ギターを鳴らす彼は見たことのない人のようでかっこよかった。

「今日俺んち行こ」

彼とはいろんな場所に行ったけれど、どちらかの家に行くのは初めてだった。
「このDVDほしかったやつだ」2人で映画を見た。男の子の家にあがるのなんて滅多にないことなのに私はやけにリラックスしていた。

「また来てな」

彼との時間は相変わらず楽しい。特になんの話をしてたかなんて思い返せないほど他愛のない話でひたすら盛り上がって、ときどき真面目な話もした。
気が付けば学年が変わっていた。私たちは違うクラスになった。

「今日俺んち来る?」

行く!
元気よく答えると彼が笑った。彼の部屋にはもう私の私物が増え始めていた。

気が付けば私は彼のことを好きになっていた。いつからかなんてわからないくらい、さもそれが当たり前かのように好きになっていた。



「なあ松岡、キスしたい」



彼はずるい人間だと思った。
私が何か答える前に唇が重なった。離れて行った彼と目が合う。それは一瞬すぎてよくわからなかった。


「松岡、帰ろ」


あれからまた何もなかったかのように過ごした。なんだったんだろう。私はあの日を時々思い出しては胸を苦しめる日々が続いた。夢だったんだろうか。

「DVD借りて行かへん?」

彼の家に行く前にはレンタルショップに寄るのが定番になっていた。あの日を思い出して少し言葉に詰まる。それでも気が付いたら自然な流れで彼の家まで来ていた。
自分が意思の弱い方だなんて思ったことはなかった。口下手でもないし、嫌なことは嫌と言える性格だと思ってた。でも違う。彼を目の前にするとうまくいかないのだ。全て彼の思うまま。彼は私を誘導するのがきっと世界一うまい。


「目、閉じて」


彼の声に熱がこもったと思ったらあの日のように唇が触れた。そしてまた何事もなかったかのように日常が流れる。彼とのこの行為は彼の家に行く度、儀式のように行われた。

私たちは、どういう関係なんだろう。





「松岡、」



いつものように教室で彼を待っていた。緩く笑った彼が片付けを促す。勉強道具を鞄に詰め込んで優しく微笑む彼の隣に並んだ。

彼は、安田章大は、ずるい人間だと心底思う。



「……松岡」



彼の肩を押して唇を引き離す。なんとなく泣きそうだった。どうして彼がこんなことをするのかわからなかったし、彼を失うのが怖い私はなにも聞けずいた。



「好きやで」



どこか余裕さえ感じられるその言葉に少しだけ苛立ちを感じた。思い出したようにはにかんで見せて、彼は私の手を握る。

「わたしも」という返事以外答えられなかった。これも全部彼の誘導なんだろうか。ずるい。本当にずるい。
気が付いたら章大以外の男なんて考えられなくなっていた。それもたぶん、彼の思い通りなんだ。






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他の男を見る暇を与えず自分がいない生活を考えられなくするという安田章大の1年計画(完)




覚えてる方いらっしゃるでしょうか。サイト立ち上げた当初少しの間だけ公開してすぐにお蔵入りしたお話。





ミガッテ