縋った想いの行く末は

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大戦後です。

生存していない人が生きてます。

スネハリです。

ハリーが先天的に女の子です。

ハリーが「妊娠」してます。

長編とは何の因果関係もございません。








「ハア!? 妊娠しただって!!?」

 麗らかなイギリスの昼下がり、平和の象徴のような子供たちの笑い声が聞こえてくる住宅街の一角にある一軒家にロンの悲鳴にも似た叫び声が響いた。

「......うん」

 未だに信じられないと口をあんぐりと開けているロンと、その妻でハリーの親友である難しい顔をしたハーマイオニーの視線から逃れるようにハリーは自分の腹を抱くようにして俯いた。

「妊娠って...君、恋人いたのかい?」

 当然とも言えるロンの問いかけにハリーは力なく顔を横に振ると意を決して面を上げた。せめて親友たちだけには誠実でありたいと態々休みを合わせてもらって二人の愛の巣にお邪魔したのだ。ハーマイオニーはそんなハリーのかたい意志が込められた瞳を見て、ふっと相好を崩した。

「大丈夫よ、ハリー。私たち、親友でしょ?」

 そんなハーマイオニーの言葉と驚いてはいるが決して責めたものではないロンの言葉や表情に張り詰めていた息を吐き出し、初めてハリーは笑みを見せた。







 突然だが、ハリーにはずっと好きな人がいた。その人は陰険で根暗で贔屓もするけど、分かりにくい優しさを秘めた人だった。ハリーにとって、そして目の前の親友二人にとっても良い思い出など皆無と言える人かもしれないが、けれども彼はずっとハリーを守ってくれたのだ。何となく、徐々に彼のことが気になっていき、少しずつ彼を知ろうと見てきた。そして、いつしかーーー。

「じゃ、じゃあ、君のお腹にいる赤ちゃんの父親って...」

「うん...スネイプ先生」

「っ......」

 ロンは声にならない悲鳴を上げて、椅子ごと大きく仰け反った。だが、彼も仮にも闇祓いのエース。無様にそのままこけるようなことはなかった。

「やっぱり...」

「やっぱりって、ハーマイオニー知っていたのかい!?」

 ロンの驚く声とともにハリーは慌ててハーマイオニーを見た。この気持ちは親友二人にも打ち明けずに育んできたものだったからだ。

「スネイプ先生を見る貴方の瞳を見ていれば分かったわ」

 ハリーは自分の顔が真っ赤に染まっていくのが分かった。耳まで熱い。さすが慧眼をもつグリフィンドールの才女だ。彼女の目は誤魔化せなかったのだろう。

「でも...幸せいっぱいって感じにしては何か追い詰められたような顔をしているわ、ハリー」

 その言葉にロンは改めてハリーを見た。確かにそうだ。長年の想いが実り、愛する人ーーそれがスネイプだというのは甚だ疑問だがーーの子供を身篭ったのだ。もう少し晴れやかな顔をしていても良いはずだ。

「もしかして、結婚する前に妊娠したのが気がかりなのかい? ならお腹が出てくる前に籍を入れて式をあげれば良いさ」

「ちがうの、違うんだロン。あのね、僕はスネイプ先生の、」


恋人ではないんだーーー。


 再びロンの悲鳴が響いた。






 その後は大変だった。主に親友を手篭めにして妊娠させた!! と騒いで杖を片手に鬼の形相でスネイプのところへと今にも飛んで行こうとするロンを宥めすかして落ち着かせるのが。

「ハリー、どういうことか説明してくれるのよね」

 ロンほどでもないが険しい顔をしたハーマイオニーにそう念押しをされ、縮こまったハリーはコクリと小さく頷いた。

 ハリーは低学年の時分よりスネイプに想いを寄せていた。自覚したのは三年の頃だったように思うが、本当はずっと前から好きだったのだろう。けれども自分はまだまだ子供で。だからハリーは初め、大人になったら伝えようと思っていた。けれど、年が経つにつれヴォルデモートの影がちらつくようになり、闇の勢力の存在も次第に濃くなってきた。来年自分が無事でいられるかの保証はなかったのだ。だからハリーは五年生の時、スネイプに想いを伝えた。少ない語彙を駆使して、拙い言葉で、しかし混じり気のない愛情をぶつけたのだ。けれども彼の返事は、

『お前は何か勘違いをしている』

 その一言だった。短い、けれどハリーの決心を打ち砕くには十分すぎるほどの拒絶が含まれた言葉だった。まるで、冷水を頭からかけられたような心地だった。ハリーはその日、どうやって寮に帰ったか覚えていない。
 そして、その後彼の「記憶」を見た。それは自分の愚かな好奇心が犯した取り返しのつかない過ちだった。当然のことながら彼は怒り狂いハリーを部屋から追い出した。自分の父や名付け親、一歩下がって静観しているだけの優等生然としていた恩師に失望し、自分自身に絶望したが、何よりハリーを傷つけたのはスネイプの心の一番柔らかいところに今もなお縫いとめられているであろう母の存在だった。

ーーー私じゃなかった。先生が命をかけて守っていたのは、守りたかったのは。

 絶望するとともにどこか納得もしていた。自分が入学した当初から目の敵にされていたことに。そして、今後スネイプに愛されることはあり得ないのだと理解した。
 それからは恋どころの話ではなかった。安全だったはずのホグワーツという大木が揺らぎ、魔法省も乗っ取られ、そして、スネイプが裏切った。悲しくて、辛くて、手酷く裏切られた信頼と愛情は憎しみに変わった。あらん限りの罵倒を投げつけたが、彼の表情は眉ひとつ変わらなかった。その事実が、どうしようもなくハリーの胸を苦しくさせた。
 最後はヴォルデモートと共に死ぬことすらも受け入れた。けれども運良く生き残り、スネイプも一命を取り留めたのだ。その後、闇祓いとなったロンとハリー、魔法省に入省したハーマイオニーはスネイプとは定期的に行われる特別授業の折に訪れるホグワーツで、死喰い人の残党を捕まえるための作戦会議で幾度も顔を合わせた。前者は魔法薬学教授として、後者は元死喰い人の協力者としてだった。少しずつ、距離が縮まっていったように思う。しがらみから解放されたせいか多少険がとれたスネイプは嫌味は健在といえどとっつきやすくなったのは事実だった。だから、うっかりハリーは踏み込んでしまったのだ。
 慣れないお洒落をしてスネイプを食事に誘い、お酒を勧めた。話はほどほどに弾み、何度か口角を上げるスネイプも見れた。ただ、その優しい雰囲気に浸れるだけで良かったのに。

『ね、先生。家へ行ってはダメですか...?』

 腕に抱きつき、精一杯背伸びをして見上げた顔は、お酒と雰囲気にあてられながらも微笑んだ瞳は、少しだけ母に似ていただろうか。スネイプはだまって家へと連れて行ってくれた。そこからはあまり覚えていない。如何せん初めてで緊張していたのだ。けれども、スネイプの手つきが壊れ物を触るみたいに優しくて、蕩けるほどに幸せだった。日が昇る前に何とか隣で寝ているスネイプに気取られる前に痛む腰を叱咤してベッドから這い出し自分の服を拾い集めると起こさぬように魔法でナイトシャツに着替えさせた。そして、スネイプに杖を向ける。

『ーーオブリビエイト』

 零れた呪文は少しだけ震えていた。






「じゃあ君は、スネイプのその日の記憶を消して新しく捏造したのかい?」

 震えるロンの声にハリーは頷いた。ロンの白い顔がより白くなる。自分が浅慮なのは重々承知だが、今回ばかりは親友二人にも呆れられたかもしれないとハリーは俯いて目を逸らした。

「大丈夫よ、ハリー」

 気づいたらハーマイオニーの暖かな腕に抱きしめられていた。

「私たちは貴女の味方だから」

 思ってもみなかった言葉に咄嗟に顔を上げてハリーは二人をまじまじと見た。

「そうだな。ハリーはどうしたいんだ? 僕たちは君の親友だろ」

 相手がスネイプなのは気に食わないけど、そう付け加えたいつものロンにハリーは肩の力が抜けるのを感じた。

「君たちが、僕の親友で良かった」

 ありったけの感謝の念を込めてありがとうと呟くとロンは得意げに笑い、ハーマイオニーはハリーの頭を優しく撫でてくれた。

「あのね、僕はしばらく闇祓いを休職したい」

 ハリーはまだ膨らみのない平たいお腹を一撫でするとそう告げた。

「キングズリーには流石に理由は言わないといけないけれど、世間には病気療養と公表したい。新しい家は決まり次第連絡するから、どうか秘密にしてほしい」

 ハリーは一息にそういうと、その美しいグリーンアイで二人をじっと見つめた。

「...スネイプ先生には言わないつもりなのね」

「...先生をこれ以上私に縛りつけたくない。今度こそ、掛け値なしの自由を、幸せを掴んでほしいから」

 ハリーの意志を秘めた瞳に、強い決意が込められた言葉に二人は何も言えなかった。ハリーは猪突猛進な性格で一度決めたことを決して曲げたりはしない芯の強さを持っていた。だから、そんなハリーを支えるのは親友二人の仕事なのだ。

「分かったわ、ハリー。絶対に私たちだけには何処にいるのか教えてね」

「...ありがとう」

 ハリーは今日初めて、心からの笑顔を見せた。











 とある日、魔法省の人影の少ない地下の一角にハリーの親友二人の姿があった。

「なあ、ハーマイオニー。今日はハリーの所に行く日だろう? 何か買っていこうか」

「そうね。ふくろう便で日用品は買っているみたいだから、ケーキとかどうかしら。ハリーは甘いものが好きだから」

「いいね。じゃあそうしよ......」

 いきなり言葉を止めてまるでこの世の終わりのような顔をして自分の後ろを凝視している夫を不思議に思ったハーマイオニーはロンの視線を追うように振り向いた。

「何やら、興味深い話をしておりますな」

 そこにはいつも通りの黒ずくめの服に身を包み、けれどももう取れないのではないだろうかと思うほどいつもの数倍は濃い眉間のシワが刻まれた悪鬼のような顔をした魔法薬学教授の姿があった。

「ス、スネイプ先生」

 零れた言葉はどちらのものだっただろうか。十人に聞いたら百人は死喰い人だと断言しそうなほど恐ろしい眼光で此方を睨みつけ悠然と歩み寄ってくる姿は学生時代の恐怖を思い出させるには十分なものだった。

「我輩の気配にも気づかずお喋りとは全く嘆かわしい。闇祓いの名が泣きますぞ」

 それはあんたがわざと気配を消していたからじゃないかという文句はすんでで飲み込んだ。今のスネイプに楯突くのは勇気ではない。無謀だ。

「やはり、貴様らはあいつが何処に姿を眩ませたのか知っているのだな」

 確信したような響きを孕ませた声音は蛇に睨まれた蛙の気持ちを想像させた。

「ええ、スネイプ先生」

「ハーマイオニー!?」

「落ち着きなさい、ロン。隠し通すなんて無理よ」

「ほお、やけに素直なのだな」

 スネイプの、二人が学生だった頃と変わらない何処か含みをもたせた言葉にもハーマイオニーは怯むことなく続ける。

「けれど、ハリーの居場所を教える気はありません。これは彼女の願いなんです」

 真正面からスネイプの顔を見て挑むようにハーマイオニーは言った。思ってもみなかった言葉にスネイプの瞳がかすかに揺れる。

「行きましょう、ロン」

「待てグレンジャー!」

「もうウィズリーです。いい加減慣れてください。私たちはハリーの願いを裏切りません。けれどーーー」

 探すなとは言っていませんよーーー。

 呆気にとられたかのように動きを止めたスネイプにハーマイオニーは笑いかけるとロンの手を取り姿眩ましをした。





 休職して早五ヶ月、誰が見ても分かるほどお腹を大きくしたハリーの日常は至極穏やかにゆったりと流れていた。今日はロンとハーマイオニーが来てくれる日で、日に日に過保護になる二人が訪れて強制的に座らされる前に紅茶を用意して客人をもてなす準備を始めた。

ーーーコン、コン

 玄関の扉を叩く音に小さな疑問を感じながらもハリーは扉の方へと歩く。
 けれども、約束の時間より少し早いけど仕事が早めに終わったのかなあ、と大して警戒もせず、扉を引いた。

「いらっしゃい! 早かっ......」

 ハリーは想定外の出来事に言葉を失う。今、自分の身に起こっていることが理解できなかった。いや、理解するのを脳味噌が拒んでいたのだ。

「なんで、スネイプ先生が......」

 そんなハリーの呆然とした言葉が聞こえているのかいないのか、フンと鼻を鳴らしたスネイプの瞳がある一点で縫いとめられたかのように止まった。

「あっ......」

 ハリーはそれに気づくと自分のお腹を庇うように抱きしめた。最悪だ。

「その腹は...妊娠しているのかね」

 疑問符の付いていない確信めいた追及にじわりと浮かんできた何に対するものかも分からぬ涙を隠すようにハリーは俯いた。零さなかったのはもはや意地だ。

ーーーああ、ばれてしまった。





 先ほどとは打って変わって通夜のような空気の流れるリビングで二人は向かい合うようにして座った。自分で淹れようとして何故か止められ淹れてもらった貴重な魔法薬学教授の紅茶が入ったティーカップを手持ち無沙汰に弄りながら未だスネイプを直視できずにハリーは俯いたままだ。
 何て言われるだろう。認知してほしいとは思っていないけど、今責められたら泣いちゃいそうだよ、と考えれば考えるほど思考のドツボに嵌り悪い方へと流れていってしまう。

「君は...」

 どれほど経っただろうか。数分程度かもしれないがそれはハリーにとって今までで一番長い数分だった。
 勝手なことをしたのは自分だから、せめてどんな罵倒でも目を見て受け入れなければならないと顔を上げたハリーはやっとスネイプを視界に入れた。そこでハリーは初めていつもとは違うスネイプの微々たる表情の変化に気づいた。

(あれ、先生。何でそんなーーー)

 何かを堪えるような瞳をしているんだろうーーー。

「いつ結婚をしたのだ?」

 ハリーは我が耳を疑った。目の前にいる顔色の悪い陰険教師は今、何と言った? けっこん? 誰と? 誰が? え、えーーー、という風に脳内はあっという間に疑問符で覆い尽くされ、先ほどまでの思考も彼方遠くに飛ばされて戻ってこない。ハリーは質問の意図を掴もうと必死に頭を回転させ、そしてやっと自分が失念していたことを思い出した。

 僕、スネイプ先生に忘却術をかけていたんだった!!!

 それを思い出した途端拍子抜けしたような気持ちになって脱力した。あまりにも日常が平和すぎて少しボケていたのかもしれない。

「......ポッター?」

 うんうんと一人納得していると完全に放置されていたスネイプが唸るようにハリーを呼んだ。何故だか今日の彼は機嫌が悪いみたいだ。短気さに拍車がかかっている。

「僕は、結婚していませんよ」

 ハリーは紅茶を一口飲んでそう告げた。深い香りが鼻を抜ける。

「...何だって? じゃあその腹の子の父親は」

「それはお教えすることはできません」

 ハリーはスネイプの言葉に被せるようにそう断言した。こればかりは絶対に知られてはならないのだ。

「......何?」

 スネイプ先生のこんな顔初めて見たなあとハリーはどこか他人事のようにそう思った。それほどスネイプは眉根を寄せて眼光鋭く恐ろしい形相をしていた。ロンが見たら卒倒ものだろう。ハリーが何か授業中にヘマをして減点罰則を重ねた時でさえこのような顔はお目にかかれなかったように思う。

「でも、先生。この子の父親は私の大好きな人なんです。誰よりも愛しい......」

 パキリと、スネイプの手元のティーカップが不穏な音を立てた。ああ、もうあれは使えないなと場違いにも考えるどこか冷静な自分がいることにハリーは気づいた。

「......結婚してくれなくてもか」

「ええ」

 地を這うような声で呟かれた言葉をハリーはすぐさま肯定した。後悔してなどいないが元はと言えば全て自分の責任なのだ。一夜の思い出だと思ったがこうして形に残ったのだ。これ以上の幸せはない。

「先生、時間大丈夫なんですか?」

 それっきり黙り切って石化したように微動だにしないスネイプに恐る恐るハリーは言葉を投げかけた。途端にスネイプの闇よりも暗い瞳が射殺さんばかりにハリーを睨みつける。

「貴様、また姿を消す気か」

「......え゛」

 図星だった。スネイプが再び自分を訪れることなどないとは思うが何となく自分の居場所は二人の親友以外には知られたくなかったのだ。

「ハリー、諦めたら?」

「ハーマイオニー!?」

 ふと、ここにはいない筈の親友の声がしてハリーは咄嗟に部屋の入り口に目を向けた。

「鍵が開いてたからな、少し不安になってお邪魔させてもらったよ」

 ロンが軽く手を上げてお土産らしきものをがさりと机に置いた。微かに甘い匂いがする。

「ね、ハリー。スネイプ先生は魔法薬学教授よ。定期的に通ってくださるのなら、きっと不測の事態に陥っても私やロンができないフォローをしてくださると思うわ」

 説得にしてはやけに有無を言わさない響きを孕んだハーマイオニーの言葉にハリーはぎこちなく頷くしかなかった。







あの後、ハーマイオニーとロンの登場で一旦は話が流れ、二人と入れ違いのようにハリーの家を出たスネイプは自宅に着くと身体を支えるように自室の壁にもたれかかって、右手でくしゃりと髪を乱した。脳裏に浮かぶのはいつかのハリーの姿だ。
 あれはそう、五ヶ月ほど前のことだった。魔法薬やら死喰い人の情報やらで頻繁に魔法省に出入りするスネイプはその日もハリーに会ったのだったが、どうも様子が少しおかしかったのだ。意識しなければ分からない変化だったが歩みがいつもより遅く、腰を庇うような歩き方をしていた。おまけに顔色は悪くその美しい瞳の下には隈までできていたのだ。

『寝不足かね? 全く、次の日も仕事だというのに』

『ええ、少し...』

 長年の癖で嫌味たらしくなったがハリーは何も言い返してこなかったので、本当に調子が悪いのかと珍しく本気で心配したが、何故か少しだけ気まずそうに何かを誤魔化すようにハリーは言葉を濁らせただけだった。

『ちょっと書類を届けてきますね...ッ』

 椅子から立ち上がった瞬間、腰を押さえるようにしてハリーは小さく呻いた。その時、スネイプの中に小さな疑惑が生まれた。けれども、あんなじゃじゃ馬娘がそれはないとその考えを追い出すように頭を振ったのだった。
ーーーけれども、その推測は正しかったのだ。

 パリンと何かが割れた音がした。音のした方を振り向くと背後の棚にあるフラスコが無残にも割れていた。この歳で魔力を暴発させたとは笑い種だ。乱れる心音を正そうと深く息を吐いても大した効果は得られず、脳裏に浮かぶのはハリーの笑顔ばかり。

『先生、好きなんです』

 いつか、己に向けられた言葉が過ぎる。頬を染めて、瞳を潤ませ、けれどもその豊かなまつげに囲まれた美しいグリーンアイは強い意志を秘めスネイプを見つめていた。
 ただただ、美しいと思った。石化呪文でもかけられたかのように指一つ動かせず、その瞳に釘付けにされた。けれども脳内で警鐘が響いた。
ーーー駄目だ。彼女を、ハリーを心の中に入れてしまったら。
 己は遠くない未来、彼女を傷つける。それも、癒えることはない大きな傷をハリーの心に作ってしまうのだ。己はハリーを傷つけるだけの存在にすぎない。
 スネイプはその時知らなかった。心をわけてしまわないように己を戒めている時点でもうすでに手遅れであることを。
 スネイプは分からなかった。それは彼が優れた閉心術士だからだろうか。自分の心のうちに生まれた痛みを伴う悲しみにも似た感情の名を。

 ああ、もう遅いのだ。すでに奪われた。名前も知らない、責任も取らないような軽薄な男に。己が慈しみ、気取られないように守ってきた、傷つけることを拒むばかりにまともに触れられなかった宝物を、何処の馬の骨とも分からぬ男に横から攫われた。いや、自分のものだったことなどないのだから攫われたなどと言えた口ではないのかもしれない。気づくのが遅すぎた。他人に心の内を見せないよう躍起になっていたからか自分自身ですら己の感情に知らず知らずのうち蓋をしてしまっていたのだろうか。

 あの子の瞳が己をうつさぬようになってから漸く気づくとは、何たる滑稽な!!

 いっそ、笑い飛ばしてしまいたかった。けれどもそれすらできなかった。そうするには心が育ちすぎていた。あの日彼女が向けてくれたような相手を思うだけの純粋な想いなどとうに通り過ぎ、知らぬうちに濁りきった欲が絡み溶け合い、スネイプの心の一番深いところに絡みついていた。それはまるでスネイプ自身すら雁字搦めにするように。






「邪魔するぞ、ポッター」

 あの日からスネイプは定期的にハリーの元へと通うこととなった。傍目には乗りかかった船を降りて放置するのも後味が悪いという風に渋々妊婦の身体に優しい魔法薬を携えて通っているように見えるだろうが、スネイプは不安だったのだ。ハリーはスネイプに居場所を告げなかった。つまりハリーにとってスネイプとはその程度の存在なのだ。歯牙にも掛けないような存在。それが幸か不幸かハーマイオニーの助けもあり、スネイプは通うことを許された。終戦を迎え教師と元教え子というありきたりな関係になった今、再び逃げられてしまえばもう二度と会えないような気すらしたのだ。スネイプは訪ねる度にハリーが出迎えてくれることに密かに安堵していた。だからこそ、何度ノックしても物音一つしない今のこの状況に顔に出ずとも焦っており、やむなく魔法で鍵を開けたのだ。

「ポッター、何処にいるんだ」

 足音一つ立てずにスネイプは廊下を慎重に進む。耳をそばだててもなお、不自然なほどに物音一つ聞こえない。闇祓いのエースであるハリーが遅れをとるとは思えないが今はなにぶん身重である。自然と杖を持つ手に力が入った。リリーを喪って二十数年、やっと見つけた大切な存在が再びこの手からこぼれ落ちるのかと想像するだけで気が狂いそうになる。

ーーー、スー......スー......

 微かにリビングの方から呼吸音が聞こえる。杖を胸の前で構え、スネイプはガチャリと扉を開けた。

「なんだ、寝ておるだけか」

 スネイプは杖をしまうと安心したように身体の力を抜いた。それもそのはず。ハリーはリビングの机に顔を突っ伏す形で穏やかに寝息を立てていたのだ。

「人の気も知らず阿呆面をしおって」

 それは滅多に聞かないような優しげな声だった。スネイプは口角を小さく上げるとハリーの頭をゆるりと撫でた。ハリーが起きていたら絶対にこんなことはしないだろうとスネイプは自嘲する。

「ん......」
 
 ハリーが小さく吐息を漏らすと自分の頭をスネイプの手に擦り付けるように動かした。寝顔は幸せそうなものだった。

「すき......」

 スネイプはその寝言を聞いた途端素早く己の手を引っ込めた。全身から血の気の引くような感覚とともに、何処か冷静な己がせせら嗤っている。

ーーー誰の夢を見ているのだ。

 愚問だった。このような幸せそうなあどけない寝顔を見せる相手は己ではない。知っていたはずだった。この子が己などに笑顔を見せるはずはないのにーーー。

 チリッと小さく痛みが走った。知らず知らずの内に手を握りしめていたらしく爪が掌に食い込んで血を流していた。けれど、この拳のぶつけどころは見つからない。ましてや今目の前で無防備に眠っている彼女にぶつけるなど言語道断だ。

「今だけは、許してくれ」

 そう呟くとスネイプはハリーの小さな身体を抱き抱えた。ハリー自身には見せたこともない優しい手つきだ。
 ハリーの腹に自然と目がいった。もう一人分の生命があることを主張するように誰の目から見ても確かなほど出てきたそれが憎いのかスネイプには分からなかった。ハリーの血を引き、けれども顔も知らない無責任な男の血も引いている子供が産まれた時、己はどう思うのか。まだその答えは出せそうにない。





 
「あれ、僕ベッドに寝てたっけ」

 静かに起き上がったハリーはそう呟くと小さく伸びをした。

「それにしても...」

ーーー幸せな夢だったなあ。スネイプ先生が出てくるなんて。

 ハリーは思い出したように小さく笑みをこぼし夢の中で撫でられた頭にゆっくりと触れた。





「ハリー、最近どうだ? 何か不便はないのか?」

「大丈夫だよ、ロン。ありがとう」

 今日もまた来てくれたロンが気遣うようにそう言った。その言葉にハリーはすっかり大きくなったお腹を撫でながら緩く首を振る。

「そうか。なら良かった。あー...スネイプとはどうだ?」

「別に何ともないよ」

 ハリーはロンの言葉にそう言って苦笑いを零すと紅茶を一口飲んだ。ハーマイオニーの淹れてくれる紅茶はスネイプのものより甘くハリーはどちらも好きだった。

「ねえハリー、貴女本当にこのまま黙っているつもりなの?」

 ハーマイオニーの何処か心配の色を含む言葉にハリーの動作が一瞬止まったが、次の瞬間にはいつも通りのハリーに戻っていた。

「言っただろう、ハーマイオニー。僕は言うつもりなんてないよ」

「でも、」

「大丈夫。僕には優しい親友が二人もいるんだから」

 そう言って何処か儚げに笑うハリーにハーマイオニーもぎこちなく笑みを見せた。
 それでも、とハーマイオニーは思う。

 きっと今のハリーに必要なのは親身に支えてくれる愛する人の存在なのではないか?

 いつもは冷静沈着なくせして変なところで不器用で鈍感な教師の顔を思い浮かべハーマイオニーは溜息をついた。













 コン、コンと玄関の扉を叩いた。この瞬間はいつまで経っても慣れそうにないと溜息を吐きながら扉が開くのを待つ。

「はーい! いらっしゃいませ」

 元気そうな姿に密かに肩の力を抜く。もし、己が知らない内に再び姿を眩ませられたら、そうでなくとも母体の容態が急変したらと恐怖にも似た心配は尽きない。

「あまりドタバタするな。もうお前だけの身体ではないのだから」

 自分で言っておいてその滑稽さに嗤いそうになる。己は今、どんな顔でこの無垢な子に言葉を吐いたのだろう。己の腹の底に巣食っているほの暗い感情もすでに自覚していると言うのに。

「ふふ、ありがとうございます。先生」

 だというのに、彼女はそう言って嬉しそうに笑うのだ。目の前の男の厚い面の下を知らないからそんな風に無防備にころころと表情を変える。

「先生、夕飯食べてないんでしょう? 一緒にどうですか」

 あまつさえ、彼女は己を引き止めるようなことを言う。慕われているのだろうか。学生時代のほのかな恋情を親愛に昇華させ、元教え子として純粋に己を慕う彼女を愛らしく思うと同時に憎らしかった。

「我輩が用意しよう」

「ダメです! 僕がホストなんですから。それに、ハーマイオニーとロンは何もさせてくれないんですよ。これくらいさせてください」

 そう言ってキッチンに向かう彼女の背中を追うように己もキッチンへと足を踏み入れる。最初は困惑されたが、何があっても対処できるようにだと告げたら納得したように以後何も言ってこない。ホグワーツに彼女がいた頃も似たような状況は多々あった。罰則として与えたマグル式鍋洗いの見張りなどがそれだ。けれども、その時とは流れる雰囲気も根付く感情も何もかもが違う。
 
 変わったのは己か、彼女か。

「ーーせい、先生?」

「ッ、ああ...」

「大丈夫ですか? ご飯できましたよ」

 冷めないうちに食べちゃいましょう、とエプロンを外しながら微笑む彼女にくらりと眩暈がした。
 これでは勘違いをしてしまいそうになる。ごっこ遊びにしてもタチが悪いではないか。やめてくれ。これ以上、揺さぶらないでくれ。

 懇願するように心が悲鳴を上げるのを出来上がった料理をひったくるようにリビングへ運ぶことで誤魔化した。







「魔法省の様子はどうですか?」

「どうもこうも。英雄が消えて早数ヶ月。変わらず忙しくしているみたいですぞ」

 そう嫌味たらしく片眉を跳ね上げさせて言うと拗ねたように顔を背けて頬を膨らませる。そう遠くない未来母親になると言うのにあどけない少女のような表情が彼女には良く似合っていた。
 
「そちらこそどうなんだポッター。身体の調子は大丈夫か」

「ふふ、先生が心配してくれるなんて新鮮です。大丈夫ですよー...あっ」

「!?どうした!」
 
「先生、蹴りました! 最近よく蹴るんですよー」

 触ってみてください! と己の掌を掴みその無防備な腹に押し付けてくる。振り解こうとすればすぐにでもできるほど緩く掴まれているにもかかわらず、己の男にしては細いがそれでも節くれだった土気色の掌が不躾にその柔い女の腹に触れる。ぽこんと小さな振動が掌に伝わってきた。挨拶か、それとも己の母を卑劣な男から守ろうとする子供の攻撃か。だがそんなことはどちらでも良かった。
ーーー温かい。ハリーのぬくもりだ。私が命をかけたこの子は生きている。服の上からでも分かるほど温かな体温をした、柔らかな皮膚の下の血潮すら想像に難くない。とくん、とくんとハリーの生きている音が伝わってくる、それともこれは己の心音か。

ーーーこれでは、まるで

 だから勘違いさせてくれるなと思ったのだ。母体の腹に触れることができる者など限られている。友人か、親兄弟か、それとも......

「んっ...」

 気づけばハリーの薄桃色に色づいた柔い唇に口付けていた。舌でこじ開け口内をめちゃくちゃに蹂躙する。腹に置いた手はそのままに自由な方の手でハリーの頭を固定して角度を変えながら深く深く口付けた。

 どれほどそうしていただろうか。ハリーが苦しそうに己の胸を力の入っていない拳で叩いたことで我に返った。離した唇を繋ぐ銀色の糸が名残惜しそうにぷつりと切れる。

「...はは、先生酔っちゃったんですか?」

 ハリーのとろりと蜜が解けたような美しい瞳から宝石のような涙がポロリと零れた。その瞬間、己の罪を自覚する。酒や口付けで火照っていた身体は芯から冷えていき、舌縛りの魔法をかけられたように言葉が出ない。ただ一つ分かったことはハリーがこの口付けを無かったことにしたいと思っていることだけだ。それが優しさなのかはたまた残酷なことなのか己には分からない。けれども、ハリーがそう願うなら。

「...そのようだな」

 ただただ胸がギシリと痛んだ。








 先生に、キスされた。
 いくら諦めようとしたからって先生のことが好きで、だからハーマイオニーに押される形で先生が渋々僕の元へ通っているのは知っていたけど嬉しくないはずはなかった。先生と僕と、そしてお腹の中の子と、三人でいるとまるで僕の願いが叶ったような甘い錯覚さえ呼び起こした。
 だから、僕はまた間違えたのだ。

 先生にお腹の中の子を感じてもらおうと手を押し付けた。けれども難しい顔をした先生からは固まってしまったかのように反応はなく。ああ、調子に乗っちゃったなと痛む心に気づかないふりをして手を離そうとした瞬間、力強く頭を引かれ気づいた時には先生とキスしていた。吐息すらも飲み込まれてしまうほど甘く深く痺れるキスだった。けれども、あの日見た記憶が僕を未だに縛っている。

ーーーちがう、ちがう。先生が求めているのは僕じゃない。

 嬉しいのに、虚しくってそのうち息が苦しくなって先生の胸を力の入らない拳で叩いた。唇を離し、漸く見れた先生の顔はどこか愕然とした様子だった。その表情で僕は理解した。

ーーーああ、やっぱり。

 このキスを先生はきっと後悔しているのだろう。ならば、僕にできることは...。

「先生酔っちゃったんですか?」

 零れた言葉は情けなく震えていて、落ちる涙に気づかないふりをした。
 
ーーーもう、ここには居られない。

 二日後に僕はこの家を後にした。













 スネイプは大変苛ついていた。ハリーにキスをして遠まわしに拒まれた後、自業自得とはいえハリーの元へ行きづらくなっていた。けれどもやはり心配する心が勝り、一週間後、意を決して訪れてみれば家はもぬけの殻で愕然とした。しかし、同時に冷静な己がせせら笑っていた。あの子を傷つけた報いだと。だがそこですごすごと引き下がるスネイプではない。ハリーに好かれる見込みがないのは分かっていた。嫌われるならそれでいい。せめて己が陰ながら見守れる場所にいてほしいと。でなければ不安で狂ってしまうとどこまでも自分本位に、やけっぱちにも似た心情に陥っていた。

「ウィズリーとミス・ウィズリー! ハリーの居場所を知らないか!?」

 魔法省を我が物顔で歩き回りやっと見つけたハリーの親友二人、唯一の手がかりに開口一番にそう叫んでいた。己がハリーのファーストネームで呼んでいるのも気づかずに。

「...先生」

 スネイプの悪い人相をますます歪めさせたような顔を振り向くなり見たロンの身体が恐怖で石化呪文をかけられたように強張った。
 けれどもハーマイオニーはロンとはまた別の理由でその凜としたかんばせを歪めさせた。

「知っていたとして、私たちがそれを教えるとでも?」

「ッ!?...」

「ハリーは何も教えてくれなかった。けれど、貴方が傷つけたのは確かでしょう」

 図星だった。何も言えない。確かにハリーのことを考えれば己はいない方がいいのかもしれない。それでも、とスネイプは思う。

「頼む...我輩はあの子と向き合いたい」

 生まれて初めて元とは言えど己の生徒に頭を下げたように思う。けれどもなりふり構ってなどいられなかった。今は目の前の二人に縋るしかスネイプに手はないのだ。あの子のためなら自分は何だってするし何だってしてきた。

ーーーいや、これは我輩のためか。

 けれど、あの子がほしい。何よりほしい。不器用で猪突猛進なくせして涙もろく、心根の優しいあの子。何よりも大切な宝物ーーーハリー・ポッター。

 頭上から溜息が降ってきた。これ見よがしに大きなそれにスネイプの顔は苦虫を噛み潰したようなものになった。

「分かりました。けれど、条件があります」

「なんだ」

「ハリーの子供の父親が誰かを当てることです」

 思ってもみなかった「条件」にスネイプは瞠目する。ハーマイオニーの意図がわからなかった。

「ハーマイオニー!?」

「いいの、ロン。これできっと解決するわ」

 その言葉にスネイプは思わず眉を顰めた。この二人、特にハーマイオニーの企んでいることが影も掴めない。だが、最後のチャンスであることだけは本能で理解した。少しでも選択を誤ることは許されない。

「ノーヒントでは流石のスネイプ先生も無理でしょうから、ヒントを差し上げます。ロン!」

「えっ、僕!?」

 W流石のWのアクセントを強くしてルージュの引かれた唇を三日月にして笑うハーマイオニーに眉間のシワが濃くなるのをスネイプは感じた。

「ハリーの愛する人はどんな人?」

「うーん、怖いし優しくない。僕、ハリーにその人が優しくしてるところなんて見たことないよ」

 ぴくりとスネイプの口許が動いた。スネイプはもともとそこまで沸点の高い男ではない。スネイプの脳内で靄のようなぼんやりとしていた男のイメージ像がどんどんと陰りを見せてくる。そのような男にハリーは心をおめおめと奪われ、己は指を咥えて見守るしかないのかという誰への怒りかも定かではない激情がせり上がってくるのを拳を握りしめて耐えていた。そんなスネイプが見えないのかロンは調子づいたように続けていく。

「んーあとは、口を開けば嫌味ばかりだし、顔も怖いし、そもそも性格があんまり良くないような......って僕ばかりに言わせないでよ! ハーマイオニーはどうなのさ?」

「そうね、」

 そこまでどこか呆れたように口を忙しなく動かしているロンを静観していたハーマイオニーが初めて口を開いた。ロンよりかは余程有効なヒントが聞けるかもしれないとスネイプはハーマイオニーの一挙一動に注目する。

「ハリーはホグワーツにいた時からその人のことが好きだったのよね」

 ...は?

 一瞬、時が止まったようにスネイプには感じられた。今、目の前の才女は何と言ったのだ? 「ホグワーツにいた時から好きだった人間?」そんなもの、とスネイプの思考は忙しなく展開されていく。そしてある一つの可能性に辿り着いたが慌ててその考えを頭から追い出した。それはあまりにも希望的な観測だったからだ。難しい顔をして閉口したスネイプに今日初めてハーマイオニーは微笑みかける。

「これが、最後のヒントです......その人はホグワーツで教師をしています」

 にっこり、と笑んで何でもない風にハーマイオニーはそう告げた。途端、空間から酸素が奪われたようにスネイプは呼吸ができなくなる錯覚に陥った。そんなスネイプをどこか面白がるように笑うハーマイオニーは、胸ポケットから取り出した紙の切れ端にサラサラと何かを書いてスネイプに握らせる。

「大丈夫ですよ、きっと先生の思っている人ですから」

 最後に呆然としてどこか焦点の合っていないスネイプの瞳を正面から見据えながらハーマイオニーはそう断言した。
 聞きたいことはスネイプにはたくさんあった。それでも、その全てを後回しにしてでもやりたいことが、行かなければいけない場所がある。

「ミス・ウィズリー、恩にきる。そして、ミスター・ウィズリー覚えておくがよい!」

 逸る気持ちを抑えながらスネイプはくるりと背を向けて叫ぶようにそう言うと歩を速めた。後ろでロンが何で僕だけ!? と叫ぶ悲痛な声が響いているがスネイプの耳にはそんなもの入ってなどいない。目指すは、ただ一つ。一刻も早く、ハリー・ポッターのもとへ。












「先生に黙って引っ越しちゃったから、怒っているかなあ...」

 誰もいない、前の家より少し手狭になったがそれでも一人では十分広く感じるリビングでハリーはポツリと呟いた。誰も言葉を返すものはおらず、ただその呟きは空気に溶けていく。

「怒ってくれたら、嬉しいなあ...先生」

 ハリーは意地悪で陰険で、それでも誰よりも強い愛しい人の顔を思い浮かべた。こんな時でも出てくるのは不機嫌そうに眉間に縦皺を刻み込んだいつもの顔。

「ふふ、先生。大好きでした」







「何故、過去形なのですかな?」

 ハリーの心臓がどくり、と跳ね上がった。あまりのことに声が出ない。毛穴という毛穴から汗が吹き出てくるような感覚に陥る。

 なんで、教えていないのにーーー

 ハリーは胸に手をやってきゅうっと拳を作った。きっと幻聴だ、そうに違いない! と思っているにもかかわらず鳴り止まない心音はそのままに恐る恐る後ろを振り返る。

「我輩のことなど、もう」

 ああーーー

「好きではないと?」

 なんで、いるの?

 そこには、最後に会った時から何も変わっていない、いや少しだけ隈が濃くなって窶れたように見える最愛の魔法薬学教授の姿があった。

「せ、んせ」

 口内の水分が全てとんでいったような掠れた声でハリーは無意識に言葉を紡いでいた。その様子にスネイプは器用に片眉だけ跳ね上げる。

「質問に答えてもらおう」

 スネイプは依然追及の手を休めない。ハリーは何が何だか分からず、その忙しない疑問はいつしか自暴自棄な怒りを生んだ。

「ッええ、好きですよ!! 先生は迷惑でしょうけど! 僕は、先生を愛してる!!」

 一度振り切ってしまったらそこは勇猛果敢なグリフィンドール生。次から次へと堰を切ったようにスネイプへの愛を叫ぶ。
 

 しばらくして、一通り言いたいことは言い終わったのか肩で息をしながらハリーは涙で潤んだグリーンアイで気丈にもスネイプをキッと睨み上げた。その様子にスネイプはあからさまに溜息を吐く。

「言いたいことがいくつかある」

 そう言うとハリーにスネイプは一歩近づいた。何を言われるのか、ハリーは戦々恐々としているが、どうしてかスネイプの黒曜石のような底の見えない瞳から目が逸らせない。それはまるで逸らすなと言わんばかりにハリーのグリーンアイを強く見つめているからだろうか。

「一つ、お前の気持ちが迷惑だ、などと言っていない。二つ、私を責任も取らない軽薄な男にさせないでくれ」

 その言葉にハリーは瞳が零れ落ちんばかりに見開く。涙が一筋重力に負けてハリーの瞳から落ちた。

「な、んで...記憶、消したのに」

「ほお?」

 ハリーの断片的な呟きを拾い上げたスネイプはねっとりとした地を這うような声を出してみせた。ハリーはあからさまに肩を跳ね上げさせる。

「迷惑に、なると思いまして」

「だから先ほどから言っておるだろう。お前の気持ちは迷惑ではないし、責任は取らせていただきたい。...いや、この言い方は狡いな」

 そう言うとスネイプはその程よく筋肉のついた男の腕をハリーに伸ばした。咄嗟に身を竦めて縮こまるハリーをそのまま抱きすくめ、耳元で脳髄に刷り込ませるようにビターチョコレートのような声で囁く。

「愛してる」

 ハリーはその告白を聞いて目を見開くとヒュッと呼吸が止まったかのように喉を鳴らし、次の瞬間宝石のように光を反射させ輝く大粒の涙をその美しい双眼からとめどなく零す。

「...なぜ、泣く」

「だって、せんせい。母さんが好きなんでしょ? 私は、かわり」
 
 ハリーのその言葉にスネイプは腕に込めた力を強くした。語彙の少ない己が憎らしいとでも言うように顔をしかめる。

「確かに、最初は重ねて見ていた。けれど、お前とリリーは違う。そして、今は、私は君を、ハリーを愛してる」

 ハリーはスネイプの一人称の変化になど爪の先ほども気づかず、ただ言われた言葉を反芻していた。

「...うそ」

「嘘ではない、嘘な訳がない。ハリー、君だけを愛してる。足りないのなら信じられるまで言ってやる」

「だって、先生。5年生の時、勘違いだって」

 段々と尻すぼみになるハリーの言葉にスネイプは苦虫を噛み潰したような顔になるとともに過去の己を殴ってやりたい衝動に駆られた。

「あれは、ダンブルドアの命令といえどお前を傷つけると知っていたからだ。それにーーー」

 スネイプはここで初めて躊躇う素振りを見せた。おずおずとスネイプの背中に控えめに腕を回したハリーが「先生?」と不安そうに尋ねる声が耳に入り覚悟を決めたように溜息を吐く。

「勘違いだと、ただの大人の男への憧れから来た気持ちで恋ではないと知らされた時、お前を易々と手放せないと知っていたからだ」

 それこそ、大人の余裕もかなぐり捨てて恥も外聞もなく縛り付けて閉じ込めてしまいそうだったからだ、とどこか決まり悪そうに告白するスネイプにハリーの心を埋めていた不安があっという間に払拭される。

「先生」

 ハリーはスネイプの背中に回した腕の力を強める。スネイプの自分より少し低いが心地よい体温が伝わってきて瞳を細めた。

「愛しています。ずっとずっと、好きでした」

 ハリーがスネイプにそう囁くとスネイプは僅かに口角を上げ「ああ」と返事をする。

「私も愛している。これからも、ずっと」

 スネイプはそう穏やかに囁くとハリーの唇に己のそれをそっと重ねた。この前よりも優しげでスネイプの口内の熱に溶けるような口づけにハリーの目尻から一筋涙が伝った。











 そういえば、とスネイプはハリーを己の肩に凭れさせ柔らかな癖毛を撫でながら思い出したように呟いた。その声に少し眠気が出てきたハリーは微睡みながら首を傾げる。

「私の記憶を返して頂こうか」

「...え゛」

 ハリーは完全に忘れていたとでも言うように瞳を白黒させるとゆっくりとスネイプから目線を逸らす。

「どうしましたかな、英雄殿?」

「...恥ずかしいです」

 意地悪そうに片眉を跳ね上げたスネイプからとうとうぷいっと顔ごと逸らすとハリーはそう呟いた。

「ほお? 恥ずかしいと、それなら」

 スネイプはそう言うとおもむろにハリーを姫抱きにしてリビングのソファーから立ち上がる。

「寝室はどこだ」

「えっと、そっちです...ってえっ!?」

 ハリーが指差した方へ方向転換をして歩を進めるスネイプはハリーを一瞥するとニヤリと口許を歪ませて獰猛な笑みを浮かべる。

「返して頂けないというのなら直接身体に聞くしかなかろう。身重だからな、優しくしてやる」

「ちょっ、まっ、えっえええーーー」

 ハリーの叫びは無情にも無視され二人は寝室へと消えていった。