ひともをし ひともうらめし

 波由流はこれまで己の中の感情を、努めて殺して生きてきた。

 期待も、後悔も、苛立ちも、恐怖も、好きも嫌いも。
 綯い交ぜに絡まりこんがらがって、じわじわと首を絞めていくのを、何も知らないふりをして、のんべんだらりと毎日を生き延びていた。
 色んなことに疲れ果ててしまったのだ。何度も何度も手を伸ばして、掴み損ねて、振り回されて、すっかりぼろきれと成り果てた翼じゃ身を起こすことすら敵わない。

 傷が引き攣れて痛むのがあんまりに辛いから、なるだけ身動きせずに済むように――こころが揺らがずに済むように、気怠げに目を伏せて、何もかもに諦観して、そうしてどうにか今日も形ばかりの生を保っている。

 それでも、心臓の裏側をじくじくと苛む痛みは、どうにも収まってくれやしなかった。


―――


「云知子のことを嫌いな奴の為に、云知子がわざわざ心を割いてやる必要なんて無くない?」

 どの口が言うのかと、波由流は内心自嘲した。いくら誤魔化そうが、たった三音の拒絶に何度も心を掻き乱されてきたのは他ならぬ自分自身である。

 それでも、そう零さずには居られなかったのだ。きっと直接問われれば曖昧に誤魔化したかもしれないけれど、同じ「目」の力で何かと気に病んでいる云知子のことを、波由流は何かと気にかけていたから。
 誰かを思えば思うほど心臓が擦り切れていく恐ろしさを、嫌というほど学んでいたのに。

 波由流は器用に振る舞っているように見せて、その実どうしようもなく不器用だった。さんざっぱらに傷付いて、半ば自暴自棄に投げ出したくせに、どうしたって人を愛してしまういきものだった。

 何時しか不器用なりに、軽い忠告という体で予防線を張ることを覚えた。どうせ言ったって変わらないけどね。ほらやっぱり。そうやって己の心を守ってきたので、今回も「自分がかつて通った道をみすみす通らせるのは寝覚めが悪い」と、それらしい理屈の盾を構えておいた。最早染み付いた癖だった。

「だって……」

 だけど、そんなハリボテみたいな抵抗は、あっさり瓦解してしまった。


「だって、誰にも嫌われたくないよぉぉっ……!」


 それは、津波だった。

 大人達に囲まれて何時も虚勢を張っていた彼女が、わあわあと等身大に泣き出すのを目の当たりにして、心臓を内側からがつんと殴られたような衝撃が走った。
 雁字搦めの糸を引き千切るような勢いで絞られて、全身の血液ごと巻き上げて眼球の裏側を焼いていく。思いも寄らぬ熱の奔流が、急速に喉元までせり上がってきてたまらない。

 ああ、こんなに。こんなにも、溺れてしまいそうなくらい息苦しくなることを、波由流は久しく知らない。だってずっと、波を避けるように生きてきたのだ。


 同じだ。

 おんなじだった。

 今でもずっと、波由流は誰かに嫌われることが、それで誰かを嫌いになってしまうことが、この世の何よりも恐ろしかったのだ。


「――――そうだね、……難しいよね」

 どうにかそれだけ吐き出して、そっと小さな子供を抱き寄せた。それっぽっちのことしか出来なかった。彼女の叫びに対する真に適切な回答を持ち合わせていないから、せめてもの代わりに痛みを分かち合ってあげたかった。

 波由流の腕の中で云知子はひとしきりわんわん泣いた。しゃくり上げては揺れる小さな頭を、波由流は云知子が泣き止むまでずっと撫で続けていた。

 ほろほろと頬を転がり落ちていく涙の、何処か万華鏡じみた反射の中に、波由流はぼんやりと己の影を見た。
 今の云知子と同じくらいの年頃だった時は、よく隠れてこっそり泣いていた。大っぴらに泣き喚けるような段階はとっくに越していたけれど、耐えきれるような強さもまだ備わっていなかったのだ。
 ピカピカのランドセルを背負って、友達百人出来るかな、なんて無邪気に笑っていたのはほんの一瞬だったように思う。気付けば変な奴だと遠ざけられて、それでも理解してほしくて、必死になってはから回るばかりだった。
 そうして荒んだ心が、大好きだった筈の人に悪意をぶつけろと囁くので、初めて明確に自己嫌悪を覚えた。毒々しいまでの見事な夕焼けが広がって、針山地獄の摩天楼のように思えたコンクリートの帰り道を、波由流はいっぺんたりとも忘れたことなど無い。

 今では重たいばかりのそれらを、指先で拭った涙と一緒に、優しくすくってもらえた気がした。


―――


「もう大丈夫!へいき!元気もらえた!」

 泣き止んだ云知子は、最初こそ気恥ずかしそうにしていたものの、何時ものような快活さを取り戻して――何処かスッキリした様子で笑っている。それが嬉しい。
 どれくらいぶりだろう、昨日までからは考えられないほど、波由流は心穏やかだった。

「ん、云知子が元気になったなら、良かった」

 波由流はもう気付いてしまった。言い訳なんて出来ないくらい、云知子が大切になってしまっていた。
 だから、たとえ波由流の独りよがりだとしても、差し伸べたこの手が少しでも云知子の心を安らげられたなら――それはどんなにかしあわせなことだろうと、傲慢にも願ってしまうのだ。


人も愛し 人も恨めし

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