かしらかきなで さくあれて

 さわさわと、金色の波が揺れている。
 輪郭のきわやかな入道雲が、遠くの空に悠々とそびえ立っている。
 太陽が天辺から惜しみなく光を降り注いでいるというのに、不思議と暑くはなかった。

 特に何の前触れもなく、波由流は一人、一面の向日葵の中に取り残されていた。
 この世とは思えないような、見渡す限りのまばゆい金の海の中、どうにか見つけた微かな小道を掻き分けるように進んでいる。

 ほんの少し先を行くのは、先程たまたま出会った、恐らく同じ年頃の少年だ。
 青い鳥を肩に乗せた和装の少年は、顔を布で隠しているせいかミステリアスな印象を受けたが、口を開けばそれはもうフランクで虚を衝かれたものだ。

「あんたも迷子か?はは、俺もなんだよなあ。折角だ。出口を見つけるまで、ちょいと付き合っとくれや」

 言われるがまま、波由流は彼の後を追った。
 迷子と言う割に、その足取りは随分と迷いが無い。背の高い向日葵が時折目の端を掠めるので度々見失いそうになるが、背中に目が付いているのかと思うほどぴたりと待っていてくれるので、どうにかはぐれずに済んでいる。

「行けども行けども、進んでる気配がせんのだよなあ。はあー、参った参った」
「えー……ちっとも参ってなさそうじゃん。むしろ楽しんでるでしょ」
「お、解る?そうなんだよなあ!家の敷地から出たのは随分と久方振りなんだ。正直言うと帰りたくなくってさあ」

 だろうな。波由流は内心で軽く肩をすくめた。出口を探すと言いつつ、進む方向に悩む素振りすら見せないのだ。薄々勘付きもする。
 面布がひらひらと揺れる度に、上機嫌に緩んだ口元が見える。そうでなくても彼の声色は随分と開放的で、この現状を大いに満喫しているのがこれでもかと伝わってくる。やけに歩みが早いのも気分が高揚しているせいだろう。

 どうせ急ぐような用事も無いので、波由流はしょうがないなあと溜め息を吐くに留まった。振り回されるのは慣れている。あんたって良いやつだなあ、と彼はからから笑っていた。


―――――


 いくら綺麗とは言え、代わり映えがしない景色には疲労が溜まる一方だった。
 随分と歩き通しなことだし一旦休憩しようと、汚れるのも構わず地べたに座る。さらさらとした土の感触が心地良い。
 背の高い向日葵に縁取られた空をぼんやりと見上げる。進んでいるのかもよく解らない雲を眺めていると、やけに時間がゆっくりと感じられた。あれから太陽の位置は変わっただろうか。

 金色の花びらが揺れている。葉の裏や地面に虫が居ても良い筈なのに、植物以外の生き物がまるで見受けられない。正真正銘のふたりきりだった。

「どうせ夢なんだろうし、ちっとばかし愚痴って良いか?」
「夢じゃないかもしれないけど、それでも良ければ」
「あっはっは!だとしても、まあ、どうせもう会うことも無いだろ」

 現実感の無い景色に突如放り込まれてはいるものの、普段と変わりない、はっきりとした五感を携えて波由流は此処に居る。きっとそれは彼だって同じ筈だ。
 それでも。それでも良いから、彼は誰かに自分のこころを吐露してしまいたいのかもしれなかった。


「俺、軟禁されてんの」


 ひとりごちるように、彼はそう零した。

 肩に乗せた鳥の毛並みを指先でくすぐってやりながら、世間話でもするかのように言葉を紡いでいく。


「俺さあ。呪われちまったんだ。暴れてる神さんを鎮めようとした時にな。従兄弟を守ろうとしてドジッちまった。結局守りきれなくて、あいつも余波を受けちまってさ。まだほんの小さいガキなのに……ああ、情けねえなあ」

「十年後に死ぬことが決まってる俺に後なんざ継がせたところで、精々次の代までのほんの繋ぎにしかならねえだろ?でも俺は、歴代でも一等強い目を持って生まれてきたんだ。期待されてんのは嫌でも知ってたが、状況が変わっちまったもんで、まー荒れること荒れること」

「面倒事に巻き込まれんのはごめんだったから、俺は大人しく余生を過ごします、後の事はお好きにどうぞっつったんだが、あいつらは俺を野放しにするつもりは無いときた。そりゃそうだよな。なんたって俺は、特別だから。良い子だねって甘い顔して首輪付けて、行き着く先は種馬として飼い殺しだろうよ」

「で、俺が守った従兄弟はといえば、毎日罵声を浴びせられて、肩身の狭い思いをしてるんだと。『ただでさえ観世の目を持たない出来損ないのくせに、お前のせいで、歴代一素晴らしい当主になるかもしれなかったかの方の未来は閉ざされた!』ってな。はは。ふざけてんだろ」


 彼の声色は変わらない。口元は変わらず弧を描いているし、布に覆われた目の色を窺い知ることも出来ない。
 けれど波由流は、彼が心底家を憎々しく思っているのを、十二分に理解出来た。


「あんな家、滅んじまえば良いのにな!」


 目に痛いほど、くっきりと鮮やかな青空を背に、彼はからっと笑った。

 恨みなんてまるで一切抱えていないような、晴れ晴れとした笑顔だった。


 彼の身の上を知ったところで、波由流には安易に寄り添うような言葉を告げるのも憚られたし、彼もそれを望まなかった。本当に愚痴を吐き出したかっただけなのだ。
 だから波由流も、彼に合わせて何てことのないように相槌を打った。彼は満足そうにしていたから、それで良かったのだろう。

「逃げたり出来ないの?」
「出来なくもないがなあ…ただ逃げるだけってのも腹の虫が治まらんから、色々計画してるんだ。こいつも協力してくれる」

 なあ、と彼が呼びかけると、肩の鳥は肯定するようにくるると鳴いた。空の色とはまた違う、深い青の羽を持つ美しい鳥。恐らくは彼と縁を結んだ八十神だ。カンナガラで過ごす内に目が鍛えられた波由流は、既にこの鳥が普通の鳥ではないことに気付いていた。

 ――それだけが理由でも、ないけれど。

 波由流は多分、見たこともないこの鳥を、よく知っていた。



―――――



 再び金色の海を宛もなく進んでいると、ふと彼が振り返った。

「なあ、あんた名前は?」
「波由流。波に、自由の由に、流れって書いて波由流」
「へえ。苗字は」
「ん?千鳥だけど」
「……千鳥」

 布に阻まれて見えない筈の目が、じっくりと此方を見つめている。不快という訳ではないけれど、奇妙な感覚を覚えるのでどうにも落ち着かない。
 長い沈黙に視線を彷徨わせていると、彼の口元が、じわじわと嬉しそうに歪んでいるのに気が付いた。

「っはは。あはは!千鳥波由流か……そっかそっか。良い名前だなあ」
「……うん、ありがとう。おれも気に入ってるよ」

 小学生の頃、自分の名前の由来を作文にする宿題があったのを思い出した。
 波由流の名前は父が付けてくれたらしい。母に確認して得られた情報は、何故か父が母のことをとにかく大好きだったという惚気話ばかりで、父が何を思って名付けたのか、正確なところは解らずじまいだった。
 それでも波由流は、自分の名前が好きなことに変わりなかった。波由流にとっては、父が遺してくれた数少ないプレゼントという、その事実こそが己の名前の意味だったからだ。慈しんでくれていたことは解っているから、今更そこに内包するものなど些事に過ぎないのだ。
 ちなみに宿題は、母の惚気話を適当に良い感じに書いて提出しておいた。何時まで立っても本題に入らないと思ったら結局本題が書いてないと先生に叱られた。まるっと本題なのだが。

「ねえ、」

 彼に倣い、波由流も同様に名前を問おうとして――――やめた。

 彼が優しく微笑んでいる。きっと互いに気付いている。
 だから、明確な言葉は、胸の内にしまった。

「波由流。これ、あんたにやるよ。何かの縁・・・・ってことで」

 そう言って握らされたのは、御札のようなものだった。ミミズが這った跡の如く、ぐにゃぐにゃとうねった模様の一部に、目玉らしきものが見て取れる。風切羽のような形に切り取られているせいか、まるで孔雀の羽のようにも思えるそれは、霊符と言うらしい。

「助けになれば良いんだが、まあ、使わないに越したこたぁ無いわな」

 ふいに、彼は波由流の頭をぐしゃぐしゃと掻き回すように撫でた。彼が何事か呟いた気がしたが、あまりの力強さと乱雑さに驚いてそれどころではなかった。
 絡まった前髪を直している内に、彼は何時の間にやら音も無く数歩先を進んでいた。

「波由流」

 後を追おうとする波由流を押し留めるように、彼は軽やかに振り返る。
 そして、おもむろに面布を捲り上げた。

 青空と同じ色をした瞳が、柔らかく細められる。

「じゃあな」

 別れなど微塵も感じさせない調子で、彼はひらりと手を振った。

 呼びかける間もなく、金色の波の中に埋もれるように、彼は消えた。



―――――



 気付けば、波由流は一人、見慣れた街並みの中に取り残されていた。
 波由流の手には、彼から握らされたままの霊符が、確かに其処に存在する。

 彼が残してくれた数少ないプレゼントに、ぽたりと一滴、雨が染みて、消えた。



父母が 頭かき撫で 幸くあれて

▼観世 海遥 + かんぜ みはる
波由流の父。元カンナガラ。故人。

箱庭