靴を履いて、塾から外に出た瞬間、ぶわりと風が襲ってきてわたしは首をすくめた。
21時少し前。早朝に降った雨の影響で空気がぴんと澄んでいる。雲が全くない為、丸く満ちた月の明かりが惜しみ無く降り注がれている。星は霞んでしまい、まるで月だけが夜空に存在しているようだ。


「月も好きだよね」

塾の前でぼーっと月を見上げていたから、声を掛けられてそちらを向くまで少し間が空いてしまった。

「今から帰るの?」
「………あ、はい」

京治が白い息を吐きながら言う。彼の突然の登場に驚いたわたしは、言葉を返すまでにまた少し間が空いた上に、敬語になってしまった。それに京治が少し笑った。マフラーから僅かに見える口元がゆったりと上がっている。

「何で敬語」
「…びっくりして」

お気に入りのチェックのマフラーをもぞもぞと下げて言うと、京治はわたしとの間にあった数歩の距離を埋めて、帰るのひとり?と聞いてきた。わたしは頷いた。

「いつもは友達と帰るんだけど、今日はいない。母さんも父さんも今日は迎えに来れないし」
「あぁ、おばさん、夜勤?」
「うん、そう。父さんは出張中」

こんなふうに、両親が家を開ける日は今までにも何度かあった。小さい頃はその度に近所の赤葦家で面倒をみてもらっていた。中学に上がってからは、そんなことも無くなってしまい、わたしは家でひとりの夜を過ごしていた。

「じゃあ、帰ろう」

京治の言葉に頷いて、わたしは自転車を取って来るねと駐輪場に向かった。
カチャンと鍵を開けながら、小さく息が漏れた。どうもわたしは少し緊張をしているようだった。何に対してか。京治と話すのに対して、だ。
夏。裏山で彼と昔のように星空を見上げて以来、わたしは京治を意識している気がする。確信が持てないのは、あの時以降ほとんど彼とは会っていないからだ。親戚からの貰い物である梨を、赤葦家に届けに行った時にたまたま京治が出てきたのと、塾の窓から帰宅中の彼に手を振ったのが1回。それだけだ。学校も生活リズムも全然違うから当然といえば当然なのだけれど。

塾の前へ戻ると、京治はポケットに手を入れて立っていた。肩から下げた大きな鞄には、バレーの物が入っているのだろう。随分と落ち着いて見えるその立ち姿は、とてもひとつ年下とは思えない。自分のクラスにいる同学年の男子にすら、そんなこと思ったことなかった。

「お待たせ」

声を掛けると、こちらを向いた京治はすっと手を差し出してきた。

「ん」
「……ん?」
「自転車。押すよ」
「え、あ、ありがとう」

いつの間にこの幼馴染みはこんな紳士になったのだろうと思ったけれど、そういえば彼は昔から優しかった。その優しさが、年齢とともに"紳士的"な振る舞いになっていっただけの話で。

「勉強、どう?」

ちきちきちきと自転車のタイヤが回る。京治はわたしに合わせて、ゆっくりと歩いてくれている。

「ぼちぼち、かな」

現在は、迫ってきているセンター試験の為に追い込み中だ。今のところ、第一志望に受かる確率は6割。受けるかどうかは、センター試験の結果次第。

「志望校変えたんでしょ?こないだおばさんに会ったとき聞いた」
「…どこであったの?」
「家に来てた。おばさん、嬉しそうだったよ」

確かに、志望校を変えることを話した時は嬉しそうだった。やりたいことが見つかったのねと。わたしに難関校を勧めていた担任は渋い顔をしたけれど、友達も塾の先生もがんばってねと言ってくれた。

「がんばって」

そして、この幼馴染みも言ってくれる。わたしはうんと頷いた。
京治、と呼んで立ち止まる。彼にはどうしても言わなければならないことがあった。今こうやって目標を見つけて、それに向かっていけるのは彼のおかげだからだ。京治も立ち止まってこちらを向いた。

「京治が…夏に流星群見せてくれたから、目標ができたんだよ。…ありがとう」
「どういたしまして」

夏に、失っていたものを取り戻せて良かった。手遅れにならなくて良かった。進路のことも、この幼馴染みとの関係も。

どちらからともなく歩き出す。相変わらず夜風は冷たいが、ひとりの時より誰かといると、その冷たさもほんの少し和らぐような錯覚を受ける。

「…また、」
「ん?」
「ひとりになるときは呼んで。こうやって送るから」
「…いいの?」
「いいよ。この時間は部活帰りだし」

前を向いて喋っていた京治が、ちらりと視線だけこちらに落とす。わたしもぱちぱちと瞬きをして彼を見上げた。

「女の子だし、ね。危ないし」

関係を取り戻した、と思っていたけれど、それはどうやら違うような気がする。わたしたちは、こんなふうじゃなかった。京治はこんな大人びた優しい目でわたしを見ていなかった。わたしは京治といて、こんなふわふわした気持ちを感じたことはなかった。

「じゃあ、その時は…お願い、するね」

月だって、星だって、あの頃と何ひとつ変わっていないのに、それを見上げているわたしたちは、ほんの少し変わっていっているようだ。

自転車と満ち月

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