離したくない、離さないで




「切島くん?」

 背中越しに、鈴がチリチリと鳴るような、女の子らしい可愛い声で名前を呼ばれた。
 え、と空気が抜けたような間抜けた声が数人から上がり、その場にいたほぼ全員が声のした方へ振り向く。俺はというと、なにせ名前を呼ばれただけだからその声が誰のものかなんて考えもせず、ほとんど反射で振り返ってしまった。

 今日は戦闘訓練の講評ついでに、ファミレスで飯でも食おうって話になったから、たまたま大所帯で歩いていた。女子は耳郎、八百万、芦戸、葉隠。男は俺と、上鳴や瀬呂が無理やり引っ張ってきた爆豪だな。
 中でも芦戸は連中の中でも割と後ろの方で葉隠と話をしていて、その声の主を視界に入れるのは、誰よりも早かった。

「なまえちゃん!」

 とてもとても嬉しそうにその女子の名前を呼び、駆け寄って「久しぶりぃ!」と抱きつく。女子の方も「わ、三奈ちゃん!」と嬉しそうな声を上げて、芦戸のタックルに近い抱擁を全身で受け止めていた。それを見て、うわ、と、思った。決して嫌な意味ではない。ただ、周りにいるクラスメイトにその存在がバレてしまったことが、なんとなく気恥ずかしかった。話せばなんとなく自慢になってしまいそうで、ずっと言えないでいたから。
 俺と、同中出身の芦戸以外は知らないこと。それは、爆豪と緑谷みたいに俺にも幼なじみと呼べる女の子がいて、その子と付き合っている、ということだった。

「やっぱり切島くんだった。えっと、久しぶりだね」

 二ヶ月近く、その笑顔を見ていなかった。千葉から県をまたいで雄英に通っていたから、会う時間なんてこれっぽっちも取れなかったんだ。だからメールや電話で近況を報告し合うだけの状態がここ最近ずっと続いていて、正直寂しかった。会いたかった。絶対になまえのことを手離すつもりはなかったから、むしろこの二ヶ月は俺の方が女々しく、執拗に連絡を取っていたかもしれない。それくらい、大切な大切な彼女だ。

「髪、本当に真っ赤に染めたんだ。一瞬誰だかわからなかったよ」
「あ、いや、うん、」

 うわぁ、俺、ダセェ。あれだけ電話やメールではいきがっていろいろと喋り倒してたくせに、いざ本人見るとこれだよ。二ヶ月。たった六十日ほど会ってなかっただけで、こんなにも顔見れなくなるもん?信じらんねぇ。顔、っていうか、全身がくそあちぃ。

「え、切島、ダレこの可愛い子!」
「おいちょっと紹介しろよ!」
「彼女!?ねぇ彼女!?」

 上鳴と瀬呂と葉隠がものすごい勢いで俺に迫ってきて、思わず仰け反る。芦戸があっけらかんと「そうだよー」と言ってのけ、公道のど真ん中だというのにどよめきが起きた。くそ、わかってるよ俺には不釣り合いなくらい可愛いだろこんちくしょう!

「え、マジ……!?切島ってこういう女の子らしい可愛い子がタイプだったんだ……意外……!」

 耳郎が信じられないようなものを見る目で、俺を見ている。意外ってなんだ意外って。確かになまえは小柄だし、パッと見同い年には見えないくらい幼い顔立ちをしてるとは思うけど。……そんな複雑そうな目で見てくれるな。

「あああわかった!切島おめぇこの間おっきいおっぱいのお姉さんがいっぱい載ってるエロ本見せてやったのに興味ねぇとか言ってたのそういうことかクソ!」
「はぁ!?今それ言うか!?ちょ、上鳴お前マジ黙ってろ!」
「低俗ですわ……!」
「上鳴アンタ最低だね……!」
「さいてー!」

 上鳴は相当悔しかったのか、突如思い出したかのように今この場で話すには最低最悪な発言をなまえの……というか女子の前で絶叫し、総スカンを喰らっていた。自業自得だし、耳郎なんかはイヤホンジャックの先を上鳴にぶっ刺す直前まで迫っていた。いいぞ耳郎もっとやれ。
 いいや、まてまてそんなことより、とはっとなまえの方を見る。どうやらエロ本なんとかの発言は、芦戸と高校生活について語り合っていたなまえの耳には入ってなかったよう。そんなことで怒るような器の小さいやつじゃない事は知っているけど、下世話な話が苦手なやつだから、聞こえていたら顔を真っ赤にしてだんまりしてしまっていただろう。ほっとした。ナイス芦戸。助かった。
 なあなあ、と瀬呂がこっそりと話し掛けてきた。「付き合ってどれくらいなん?」となんだかよくわからない期待を込めた眼差しでそんな質問をしてきたから、「幼稚園からの幼なじみで、付き合ってからはもうすぐ一年と八ヶ月だな」と返しておく。なんせ長く片想いをこじらせ実らせた恋であるから、そういったことは割と詳細に覚えている。そりゃもう嬉しくて嬉しくて相当舞い上がっていたんだろう。付き合うことになった日の学校の帰り道、浮かれすぎてダンプカーと正面衝突事故を起こしたくらいだ。もちろん咄嗟に発動させた硬化の個性で怪我一つなかったわけだけれど、車の方はベッコベコになっていた。あれは本当に申し訳なかった。
 想像よりも長い期間が飛び出したからなのか、リアルで詳細な年月が俺の口から出てきたからなのかはわからない。俺の返答に瀬呂は「へぇ……なんかすげぇな」と漏らしていた。おそらくその後に続くのは「あの切島が」という類の言葉なんだろう。なんかそんな顔してる。耳郎の耳にもそれは届いていたらしく、尊敬の眼差しを俺たちに向け、同じようなことをポツリと呟いていた。上鳴はその側で「じろう」とダイイングメッセージを残して倒れていた。

「切島、久しぶりに会ったんでしょ?もっとたくさんお話してあげなよー!」
「葉隠さんの言う通りですわ。私たち、先に行っていますから、どうぞゆっくりして来てください」

「え、あ、おぉ……」

 八百万の言葉に、ちらりとなまえを視界に入れる。さっきから、なんか変だった。久しぶりに会ったから、なのだろう。それまで十何年も一緒に過ごしてきて見慣れていたはずなのに、別人を見ているような気分だった。俺の記憶の中にいる一番最近のなまえと比べてみても、明らかに今目の前にいるなまえの方が可愛くて、愛おしい。勘違いじゃない、と思う。
 どうしよう、何話そう。かわいい。好き。
 ぐるぐると、ずっとそんなことが頭を駆け巡っている。ぜんぜん働いていない思考回路のせいで、面と向かって話すことすら今の俺には難易度クソ高ぇ。すっげー緊張する。なんで。幼なじみなのに。一年八ヶ月も付き合っていたのに。なんでたったの二ヶ月でこんなにもペース乱されてんだ、俺。

「切島、固くなりすぎ」
「は!?えっマジで!?」
「いや下ネタじゃないからね!?切島ほんと大丈夫?もう一分以上無言で見つめ合っちゃってるけど……」

 耳郎と芦戸が心底憐れむように俺を見ている。一分!?そんな経ってた!?いや、正直全然大丈夫じゃねぇ。芦戸、頼む、残ってくれ。何話していいんかわかんねぇ!顔あっちぃんだ!たすけて!

「だめだめ!切島は良くてもなまえは良くないと思うよ!ねぇ?」
「わ、私!?み、三奈ちゃんてば……!」

 ぼぼぼ、と顔を赤くして、居心地悪そうに俯くなまえ。は?え?どういうこと?芦戸に目を向けると、頑張ってね!と背中を思いっきり叩かれた。いてぇ!
 「いいねぇああいう可愛いカップル!」「切島さん、なんだか普段とは別人のようでしたわ」「真っ赤になってお互い見つめあっちゃってさ。一年半以上付き合ってもあんな初々しいのいるんだね」「あー!あんな可愛い彼女ほしーわ!マジで!」「私もー!イケメンの彼氏超欲しい!リア充羨ましいー!」
 俺となまえを置いて当初の目的地であるファミレスへ向かって歩を進める中、お前らそれ俺らに聞こえるようにわざと言ってる?と尋ねたくなるような声量でそんな会話をし始めるクラスメイトに、ますます顔が赤くなる。なんかもうお前らみーんなうるっせぇよバカ!バカバカ!!
 最後に、これまで一言も喋らずめんどくさそうに傍観していた爆豪が俺の側で盛大な舌打ちをかます。

「おめぇなんか居なくても話進むんだから、一生そこで女とイチャついてろクソ髪野郎が」

 まるで反論は許さない、というように、カッターナイフのように鋭利な言葉を吐き捨てるように告げられる。そうしてくるりと背中を向け、ズボンをほぼケツの辺りまでずらし、ガニ股歩きで爆豪もファミレスへと向かっていった。「オラしっかり立てやアホ面!メーワクなんだよ!」と怒鳴り、上鳴を引き摺りながら。
 なまえは、そんな爆豪を見て不安になったのだろう。「お、怒らせちゃったのかな、大丈夫?」と泣きそうな顔で俺を見た。怖いよな。わかるわかる。超柄わりィもん。けど、あれは大丈夫だろうなと思った。そんなにキツい言い方ではなかったし、多分、爆豪なりになまえに気を遣ってくれたんだろう。口はクソ悪かったけど。

「ご、ごめんね、お友達と一緒にいたのに声掛けちゃって……!なんか、その、久しぶりに切島くんに会えて、嬉しくなっちゃって……」

 へへ、と照れた赤い頬を緩ませて、なまえはそんなことを言ってくれた。ああもうこいつほんと可愛い。俺も会えて嬉しかった。男らしくそう伝えたいけど、身体中から発する熱に水分をすべて持っていかれてしまった。喉がカラッカラで、まともに話せそうにない。くそ、情けねぇ、本当に。

「そ、いえば!」
「ん?なぁに、切島くん」
「なんで、こっちいんの?千葉の高校通ってんだろ?」
「あ、うん、えっと……切島くんに、会えたらいいなぁと思って、」
「……うん?」
「だから、その、……ちょっと遠出をしてみちゃいました!」

 まっかっかになってしまった顔を、ひゃあと両手で隠してしまったなまえ。今、なんつった?俺のために、わざわざこんなところまで来てくれたんか?会えるかどうかも、わかんねぇのに。

「……友達、いっぱい出来たんだね。雄英通ってるってだけでもすごいのに、たくさんの人に認められてるんだ」
「や、べ、べつに……」
「私の知らない切島くんを、あの人たちは知ってるんかなって思うと、ちょっとだけヤキモチ妬いちゃった、」

 恥ずかしいなぁ、なんて柔らかそうなほっぺたを両手で挟んで、困ったようになまえが笑った。ああ、相変わらず言葉は何も出てきやしない。言いたいことは、こんなにもたくさんあるっつうのに。ほんっと、肝心な時に男らしくねぇ。なまえのことになると、いつもそうだ。

 愛おしくて、好きだなぁって気持ちが溢れて止まらない。口にすることができないから、せめてこの胸に全部全部閉じ込めてしまおう。半ば衝動的にぎゅうっと強く抱きしめた時、「わ、」と、短く声が上がった。ぱちぱちと驚いたように瞬きを繰り返していたけど、すぐに状況を理解したらしい。なまえは、俺の心臓に一番近い場所で幸せそうに笑ってくれた。

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