まっしろなうさぎさん




 どうしよう、どうしようと散々悩んだ。だけど、いよいよ口に出さなければ前に書かれた文字は消されてしまう。時間がないんだ。彼に迷惑を掛けてしまうけど、でも。もう、言わなきゃだめだ。

「あ、あ、あのっ……しょ、障子くん……」

 授業中、こっそりと前の席に座る障子くんに話しかける。実はこれはいつものことだから、たったそれだけで私の言いたいことはすべて伝わったらしい。のっそりとした動きで大きな身体が右に傾いた。それを見て、ああ、よかったと息をつく。これで見えなかった黒板の右半分が、少しだけ見える。
 ありがとうと声を掛けるけれど、授業中だからだろうか、反応はない。大きな身体は、少しだけ辛そうに斜めに傾いていた。





「ご、ごめんね、いつもいつも……」
「いや、気にするな。……黒板、見にくいだろう。俺の方こそすまない」

 障子くんのノートに書き綴られた綺麗な文字を、休み時間の間に一生懸命写していく。どれだけ身を乗り出してみても見えなかったり、板書された文字を書き写す時間が足りなかったりする事は多々あった。そういう時、といってもほぼ毎回になるんだけど、ほんと、いつもいつもこうやって障子くんからノートを借りてしまっている。
 ああ、ほんと毎回なの。私は峰田くんの次に小さい身長。障子くんはクラスで一番大きな身長。教室の席順は先生から見て右から二列目一番前が障子くんで、その後ろに私。この並びでも、せめて一番端の列ならまだ黒板も見えたと思う。先生からも私の姿は完全に見えないらしく、授業中に私の様子を見る時は教室の端の方までわざわざ移動してくれて、それで漸く目を合わせることができている。
 この不運な席順は、いつまで続くんだろう。障子くんくらい大きい人が真ん中の列の一番前にいると、どの位置に座る人も少なからず黒板が見えにくいらしく、みんなして頭を左右に振ってノートを取っているというのに。そのことを障子くん自身とてもとても気にしているし、だけど席替えについては誰も何も発言しないから、私だけが言うのもなんだか気が引けちゃって。結局こうやって、毎回授業終わりに障子くんにノートを借りつつ、わからないところを教えあうというやり方で落ち着いているわけなんだけど。

「……怖いか?」

 背が高くて、身体が大きくて、手がたくさんあって、基本的に無口で。立っているだけ、そこにいるだけで、なんとなく威圧感がある気がする。それが、少しだけ怖いなぁって思っていた。
 だから障子くんにそう尋ねられたとき、ギクッとしてしまった。それが思い切り態度に出てしまったらしくて、障子くんは申し訳なさそうに「すまない」なんて謝ってくる。あ、いや、えっと、違うの!慌てて私も謝って、障子くんは怖くないよ!ということを伝えにかかる。
 多分怖がりながら「怖くないよ」なんて言ったって説得力ないんだろうな、って。わかってるよ。わかってるんだけど、苦しい言い訳が勝手に口から飛び出してくるの。ちゃんと考えて話したって、どう言えばいいのかわからなくて。

「あ、あの……ご、ごめんなさい。怖くないんだけど、わ、わ、私、その、ほら、人見知りで……」
「……そうか」

 あああ、そんな見るからにしょんぼりしないで!ご、ごめんね!すぐバレちゃうウソなんかついてごめんね!バレバレだよね!怖がってるの丸わかりだよね!

 ちがうの、ちがうの、って最早意味不明な弁解を何度も何度もして、障子くんはどんどん困っていって。
 私ってば、なんでこんなにバカなんだろう。もっと上手く自分の気持ちを話せたらいいのに、それがどうやっても出来ない。口を開けば開くほど墓穴を掘っていく気がして、違うのに、伝わらなくて、なんだかとってももどかしいの。
 ああ、もう、自分が何を話しているのか、伝えようとしているのかさえわからなくなってきた。障子くんは確かにちょっとだけ怖いけど、ちがうの怖くないの。優しい人だよ。こんなこと言っちゃ悪いけど、身体ちょっとだけ傾けてくれるのは後ろから見ててなんだか可愛いし、見えなかったところは後でちゃんとこうやってノート見せて教えてくれる。数学ね。嫌いだったの。でも障子くん教えるの上手だから、なんとなくわかってきたよ。数学、ちょっとだけ好きになれた。

「あのね、だからね!わ、私、障子くん可愛くて好きだよっ」

 ぜえぜえと荒い息を吐きながら、とんでもないことを言ってしまった気がする。でも頭は完全に混乱してしまっていて、自分の失言には全然気付けなかった。
 障子くんは目をぱちぱちとさせていて、私のわけのわからない言葉を一生懸命咀嚼してくれているみたいだった。

「……可愛い?好き?」
「あ!違う!ごごご、ごめんなさい!男の子だもんね!?可愛いなんて嬉しくないよね!?違うの!可愛いっていうのは無しで、かっこいいに変換させてください!」

 本当に弁解すべき言葉はそっちじゃないのに、私は全く気が付けない。しかも本格的に日本語が怪しくなってきて、恥ずかしくて、何言ってんだ私!ってなってしまった。思わずひゃあと顔を覆う。恥ずかしい。顔真っ赤かも。耳もあっつい。だめだ。喋ったらダメなやつだ、これ。

「みょうじ」
「……ひゃい、」
「気を遣わせてすまない」
「え、っと…………ご、ごめんなさい」
「いや、気にするな」

 障子くんの口元はいつも隠れていて、どんな表情をしているのかわかりにくい。だけど、今は、とても穏やかに笑ってくれているような気が、した。

「みょうじの方が可愛い。小動物のようだと、いつも思っていた」
「しょ、しょうどうぶつ、ですか」
「ん、すまない。嫌だったか」
「え!あ!違うの!嬉しいです!」

 小動物。正直ピンと来なくて微妙な感じだったけど、障子くんに気を遣わせてはいけないと喜びを全身でアピールしてみる。とりあえず両手を広げてバンザイポーズで「小動物可愛いですよね!あの、えっと、うさぎさんとか!」と言ってみると、障子くんはきょとん顔。そして静寂。しーん。
 うわ、ミスった!と思って後悔した直後。フフ、と笑い声が聞こえてきた。
 障子くんの表情はわかりにくい。だから、一瞬それが誰の声なのかわからなかった。あ、え、今の控えめな笑い声は障子くん?もしかして、笑った?珍しい!初めて!すごい!

「……これからもそうやってかっこよく笑ってもらえると、怖くなくて嬉しいです」
「そうか、みょうじと話す時は気を付けよう」

 まだ少しだけ笑いの収まらない障子くんは、まるで本当の小動物でも愛でるみたいに、私の頭を複製腕の大きな手のひらで撫でてくれた。優しいその手の動きは、障子くんの人柄がよく出てる気がするなぁ。ふわふわ、って感じだ。
 こんな風に優しく頭を撫でてもらえるなら、小動物でいいかも。そんな現金なことを思ってしまって、なんだかおかしくなってしまった。
 多分もう、障子くんのこと、怖いなんて思えないと思うな、私。

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