秋季限定アップルパイ事件




 どうしたのだろう、と一度首を傾げた。目の前に座る鳥のお兄ちゃんはソファに持たれたまま、さっきから全然動かない。黒い影のお友達は何がおかしいのかケラケラと笑っていた。

「アップルパイ、食べないの?」

 わたしの質問に、お兄ちゃんは「いや、」となんだか困ったように返事をした。いや、とは、何がいやなのだろう。いらないということなのだろうか。きらいだ、なんてことは聞いていなかったけれど。
 お母さんがつい10分ほど前に言っていたことを思い出す。「お母さんね、この間、悪い人に意地悪されていたところを、お隣に住んでいるお兄ちゃんに助けてもらったの。だから、そのお礼にアップルパイをお家まで持って行ってあげて。りんご、好きなんだって。なまえも少しいただいてきなさい」うん、確かにそんなことを言っていた気がするのだけど。りんご、本当は好きじゃなかったのかな。
 お母さんと、お兄ちゃんのお母さんは仲良しさんだった。だから、お母さんはこのお兄ちゃんのことをよく知っていて、わたしもこのお兄ちゃんのことはよく知っている。朝の挨拶くらいしか、お話はしたことがなかったけれど。

 ピンポンを押して、アップルパイとジュースを持ってきたことを話し、初めてお家に入れてもらった。リビングに案内されて、ゆったりとしたソファに座らせてもらう。お兄ちゃんはわたしと同じようにソファに座って、アップルパイの包みを丁寧にあけてくれた。そうして、わたしはお兄ちゃんに言ったんだ。
 わたし、お母さんの作るアップルパイ大好きだから、お兄ちゃんもきっと好きになってくれると思うの。わたしも作るの、手伝ったんだよ。お母さんを助けてくれて、どうもありがとう。
 それから綺麗に8つに切られたアップルパイをひとつ、お兄ちゃんの大きなお口に持っていった。だけれど、どうしてかお兄ちゃんは口をあけてくれないんだ。最初の、どうしたのだろう、は、そのことが不思議で出た言葉だった。影のお友達は、ずっとずっとおかしそうに笑っていた。

「きらい?りんご」
「……嫌いではない」

 やっぱりきらいじゃないんだ。ならどうして?言っている意味がよくわからなくて、もう一度首を捻る。お兄ちゃんはそれきり黙ってしまって、その目の前にあるアップルパイの切れ端を睨みつけるように見ていた。

「照レクサインダヨネ!」

 影のお友達がおもしろいのを堪えきれないようにそう言ったのを、お兄ちゃんは無理矢理黙らせてしまう。てれくさい。てれくさい?どういう意味?と尋ねてみると、お兄ちゃんはやっぱり困った顔をしていて、重たそうに口を開く。

「自分で食べる。それを置いてくれ」
「わたしが食べさせてあげるよ!お母さんを助けてくれたお礼だもん!」
「……いや、」

 あ、でた。また「いや」だ。
 食べさせてもらうのがいやだったのだとようやく理解できて、渋々とその切れ端は自分の口にほうりこんだ。あまくて、おいしい。やっぱりお母さんの作るアップルパイは、世界で一番おいしいや。

「ねぇ、ねぇ、お母さんのアップルパイ食べて?ほんとに、ほんとーに、おいしいの!」
「……一切れいただく」

 ゆっくりと手を伸ばして、お兄ちゃんはアップルパイを取り、口に入れる。大きなお口だから、少し食べにくそうだなぁと思った。お兄ちゃんも、ちゃんと、おいしいだろうか。

「美味い」
「ほんとう!?やったぁ!」

 人のおうちだということを忘れて、大きなソファで両手を広げ、飛び跳ねて喜びを表現する。影のお友達が良かったね、と一緒に喜んでくれた。
 お母さんのアップルパイ世界で一番おいしいよね?と聞いてみると、「ああ」と返事をしてくれた。その答えに、2回目のバンザイ。うん、やっぱりそうだよね!帰ったらお母さんにも教えてあげよう!お母さん、きっと喜ぶよ!

「あ、りんごジュースも持ってきたの!これ、とってもおいしいやつなんだって!飲む?」
「いただこう。入れ物を持ってくる。待っていろ」

 本当にりんごが大好きなのか、お兄ちゃんはいつもより少し機嫌が良さそうだった。いつも。朝、小学校に行く時にたまに見かけるくらいだけど、その顔はいつ見ても怒っているみたいだった。影のお友達が言うには、そんな事はないらしいのだけど。鳥のお顔でいつもムツカシー顔してるから、こどもにびびられるんだって。
 でも、そんなお兄ちゃんを見て、わたしはなんだかかっこいいなって思っていた。鳥さんのお顔もかっこいいし、暗いのとお友達らしいの。なんか、そういうの、すごくかっこいい!漫画に出てくる人みたい!
 それに、お母さんが言ってたんだけど、ゆーえーこうこう、というところでヒーローになるんだって。とてもすごいことなんだって、お母さん、言ってたもの。わたしはね、お兄ちゃんはとてもとてもかっこいい人なんだって、ずっと前から思ってたんだよ。
 アップルパイは我慢出来なくて先に食べてしまったけれど、ジュースはお兄ちゃんから。そう思って持ってきてくれたコップにジュースを注いであげると、お兄ちゃんは一緒に持ってきていたストローでちゅうちゅうと飲みはじめた。それが、なんだかかわいらしいなぁと思う。あと、ジュースのいい匂いがふわりとしてきて、すごくおいしそう。

「りんごジュースおいしい?」
「ああ」
「わたしも飲んでみたい!」

 りんごジュースを飲んでいたお兄ちゃんの膝の上に向き合うようにちょこんと座り、ストローだけ自分の方へ向けて、ぱくりと口に含んだ。「あ」と、影のお友達とお兄ちゃんの声が重なる。
 お兄ちゃんにコップを持ってもらったまま、構わずちゅうちゅうとストローを吸ってみる。りんごの味があまくて、やっぱり、とってもおいしい。

「ほんとだぁ、おいしいね!」
「……いや、なまえ、こ、こ、これは、」
「踏陰ガ動揺シテル!」

 わたしと同じような人間の顔ではないけど、びっくりしているのはすぐにわかった。そのことを不思議には思ったけれど、そんなことより、この珍しい顔立ちがとても近い距離にあることの方に興味を引かれた。何も考えずに、そっと、その大きなお口に手を添える。おおきいねぇ、と撫でると、お兄ちゃんは声も上げずにびくりと肩を揺らしていた。

「……なまえ、そういうことをするんじゃない」
「どういうこと?」
「その、軽率に異性の身体に触れるなということだ。ましてや、その、男が口付けたところを……」

 お兄ちゃんが何を言いたいのか、わかるような、わからないような。でも、あんまりちゃんとはわかってないと思う。わからないなりにも一度首を縦にふると、お兄ちゃんは大きな大きなため息を吐いていた。

「男は狼だから、とか、聞いたことがないのか」
「え?お兄ちゃん鳥さんじゃない」
「違うそうじゃない」

 頭が痛いのか、お兄ちゃんは手で頭を押さえはじめた。痛いの?と頭を撫でてみると、柔らかくも固くもない毛が少しちくちくとしてなんだか気持ちよかった。

「お兄ちゃんの頭気持ちいい……」
「ふ、ふ、触れるな……!」
「やだぁ、もうちょっとだけ!だってきもちーもん!」

 お兄ちゃんは何かを我慢するみたいにふるふると小さく震えていたけれど、鳥さんなんて触ったことがないものだから、なんだか嬉しくなっちゃって。ほっぺたをすりすりしたり、毛繕いしたり、ぎゅーってしたり。アップルパイとりんごジュースをそっちのけで、お兄ちゃんのお顔をぺたぺたぺたぺた。黒い影のお友達は、やっぱり、楽しそうに笑っていた。
 お兄ちゃんはもう諦めてしまったらしい。たまにぴくりと身体を揺らしてはいたけれど、わたしの気が済むまで、たくさんたくさん触らせてくれた。

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