中立


 薄っすらぼやける視界に映るのは、暗闇に浮かぶ赤く妖艶な灯りと木造の天井、そして輪郭がはっきりとしていなくてもそれはそれは見目麗しい三日月宗近の顔。背にはゴツゴツと波のある少し心地悪い畳、力ない私の腕は頭上で三日月の片手でいとも簡単に結束されている。今の私が見ているのは、夜の海に映った月か、と思ってしまうぐらい揺らぎ、ちょっと愁いを帯びる三日月を浮かべた瞳。

脳内の情報処理力に関しては以外にも冷静で、今の状況にそこまで動揺を感じてはいない。はっきりいうと私は今、三日月宗近に馬乗りに押し倒されているのだ。まさか生きてる間にこんな刺激的な状況に合うなんて…とドラマチックに、雰囲気を味わうために身を捩らせようとすれば台本通り、肌蹴た着物から更に露わになってしまう。さて、お楽しみを終え、どうしようもならない状況に、なぜこうなってしまったのか、ぼんやりとする思考を巡らせてみた。


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「私が遊郭の女性を装って近づくのはどう?」

戸外に接している運河に水の流れる音が僅かに室内に聞こえ、そのせせらぎを悪気はないが邪魔する様に我ながら名案だと思い自信あり気に淡々と発したのだが、この戦内談の主宰、長谷部は、お前は何を言っているんだ、と訴える様な眼差しを私に注いでから、私以外から策を求める様に一人ひとりに瞳で訴えている。

今回受けた指令は幕末真っただ中、同盟を試みる藩の密会。主様は時間遡行軍はこの密会を狙い、同盟を無かったことにするのではないかと予想した。そんなわけで、趣感じる宿で戦内談を行い、より接近して襲撃に備える手段を考えていたのだが…

「ほら、私の案が」

口を尖らせて嫌味に言うと「少し黙ってろ」と私に平手を向け抑制する長谷部。顔はこちらに向けず…きっと他の策など出ていないから見せる顔がないというやつだろう。私は勝ち誇った様な素振りで、ふい、と運河の方に目を流した。実は遊女?花魁…その違いはよく分からないのだけど、彼女たちのあの色鮮やかな衣装を着てみたいという願望があったりする。

「しかし、まあ、それが一番適作かもしれないな。」

沈黙の空間に静観とした口調で言葉を発したのは和泉守兼定だった。生暖かい風が僅かに髪を乱れさせ、目鼻頬に髪が触れる。それを回避する様に兼定の方に顔を向けると、渋々賛成した、という様な表情で私と目が合うと困った様な笑みを浮かべた。すると長谷部が何か言いたげに口を開いたのだが、その言葉を飲み込み、代わりに深い溜息をついた。

そしてもう一度沈黙の空気が流れ始めた。私は呆れたように再度運河へと視線を戻そうとした時、まるでそれを止める様に名を呼ばれた。その声の主、堀川国広を見れば、兼定の一歩後ろで立ち尽くし、伏目がちに畳に視線を注いでいた。

「でもプリンセスさん、そういうお店の女性って…」

そこまで言うと口籠る国広。彼が何を言いたいのか、言葉にしなくても大幅予想がつく。それでも最後まで言う様に促すような視線を注いでいると、背に先ほどよりも冷たく、強い風が圧してきた。美的具合に髪が前方にふかれる。まるで視線と共に髪までも促している様だ。

「酒を酌する…だけでは無いかもしれないぞ、」

私の視線の先の者の声ではない声。それはゆったりと柔らかな声色で誘われるように其方に目を向ければ、その声の主は三日月宗近だった。微かに風に揺れる濃藍色のさらりとした三日月の髪。三日月を浮かべた瞳は相変わらず、全てを天から見下ろすような余裕感を醸し出している。私は時にこの三日月が発する言葉もその瞳も嫌いになる事がある。なぜなら、三日月が言葉を発せば皆がそれに同舟するからだ。現に、まるで私の言葉が否定されている様な視線が鋭く胸に突き刺さる。

部隊隊長である長谷部すら三日月の発意には一歩後ろに下がる様な状態だ。私の心がぐしゃぐしゃと反抗的に疼いた。みんな私を誰だと思ってるんだか、何をそんなに否定したがる。この期に及んで、私を一人の女として意識したか。刀を持ち共に戦っているでしょう、見くびられては困る。胸の内にじわりと怒りが込み上げてきた。私は先ほどの長谷部に勝るぐらい大きくため息をついた。そして一人ずつに鋭い眼差しを注いだ。

「何をそんなに心配しているの?自分の身は自分で守れるから!」

自分でも驚くぐらい言葉を荒げてしまった。こんな情緒を乱した私を見たことのない国広が少し怯えた様な表情をしている。しかし、こうまでも強気で言わなければ納得してくれないだろう。

皆返す言葉がないと言うようにただ黙っている。そんな空間が居心地悪く、私はこの場から逃げたいという様な気持ちに襲われ襖の方へ足を進めた。

「おい、待て!」
「…待たない。」

お前は、と呆れた様に声を上げる長谷部を横目に見る。すると、三日月が私の前にいるではないか。最後の砦…いや、しかし三日月は私を止める様な言葉を投げることなく相変わらず仏の様な表情を浮かべていた。中立を感じさせるそれが今の私には煩わしくて仕方がない。私は視線を落とし、三日月の横を通り過ぎた。

「じゃあ、今夜密会の行われるお店に先回りしてるから…後ほど…心配ご無用だから。」

襖に手をかけ、「プリンセスさん!」と国広に呼ばれたが一度振り返り口元に弧を描き、強気の眼差しを向けた。その目に映った長谷部は、やれやれ、という様に呆れた表情を浮かべ、兼定は静観な顔つきで、国広は不安げに眉を下げていた、三日月は…私の方に背を向けた状態だった。そうか、そうよね。三日月は中立の立場だものね…私がどうしようとどちらだって構わない…と…知らず内に唇を強く噛みしめていた。そして背中越しに襖を閉め、その場から颯爽と立ち去る。


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「いやあ〜随分と別嬪さん別嬪さん!」

これから日本が大きく変化していくにも関わらず随分と陽気なものだ。跳ねるようなリズムの三味線の音に合わせて踊る芸者さん。もう何杯目になるか、盃に注ぐ酒。全てが、夜闇にぽつり浮かぶ月と似つかわしくない。ふと肩に腕を回され、ほんのりと酔いを誘う匂いが顔に注がれる。

「お前さんも飲め飲め」

「あ、あたしゃもう十分だよ」

お断りすると「健気な女子やの」と社交辞令だと解釈されてしまい次々と放漫に注がれる酒。飲まないわけにはいかない状況で嫌々流し込む。もともと酒には強くない。酔いが回りやすく直ぐに火照ってしまう程だ。本丸で随時行われる何かしらの宴会でさえ酒は控えていたのに…久々に飲むとこんなにも頭が、ボーっとするのか。おそらく今、時間遡行軍が現れたのなら、私はきっとまともに戦えないだろう、その前に刀を宿に忘れてきた。

自分の身は自分で守る、とはっきりと口にした自分が今では恥ずかしくて仕方がない。力ない手から空になった盃が静かに畳の上に落ちる。瞼を閉じるとジンジンと頭の中が揺れている…?アルコールを抜く為に大きく息を吐いたが、そんなことで抜けるわけあるか、と心中が騒がしい。

「では、酒の次は、女だ。」

酒で水びだしの脳内にそれはしっかりと響き渡ってきた。私は、いよいよまずい、と体を男から離そうとしたが、視界もはっきりとしていない私が瞬発力の面で勝てるわけもなく、いとも簡単に腕を取られ更に密着させられた。抵抗しようと畳に食らいつくように着くが野蛮に腕を引かれ無理に立たされ、酒臭い胸に引き寄せられた。気持ちが悪くて仕方がない。微かに体も震えていて、それに気づいた男は「すぐに良くしてやる」と露骨な卑俗な笑みを浮かべた。人の身となってこの様な状況になったのは初めてだった。刀の時、男の醜い部分など呆れるほどに見てきた。だから慣れているのだから大丈夫だと思った。しかし、身をもって体験するとこんなにも悍ましく、汚らわしい、恐怖で声も出ない。

瞬時に頭に色々な事が駆け巡った。なぜ時間遡行軍が現れないのか、長谷部の呆れた様な表情、兼定の静観な、でもどこか不安げな瞳、国広の私の名を呼ぶ声…そして私の全てを受け入れ、包み込む様な温かい三日月の笑み。そうだ…私はきっと三日月に止めてもらいたかったんだ。気づいた時には自然と涙が頬を伝った。

「三日月…助けて…」

震える唇を動かし口にするのと同時に襖が大きな音を立てて開け放された。

「お、お前!何者だ!」

私を腕に抱く男が怯えた様な口調で声を荒げた。遣る瀬無い気持ちがあるが、この男を殺すわけにはいかない、それが私の役目だ、今回の指令でもある。項垂れる顔を上げると、水気が増し、ぼやけた視界に映ったのは刀を片手に、今までに見たことがないほどに眉を顰め穏やかではない表情の三日月だった。私は思わず瞳を大きく見開いた。

「その子を返して貰いたいのだが…断るとどうなるか、わかるだろうな、」

その声は相変わらずゆったりと情調の激しい揺れは無い。しかし、穏やかに浮かんでいるはずの三日月が今は鋭く男を捉えている。そして距離を詰める三日月。こんなにも怒り、と言ってよいのか、感情を露わにした三日月を見たことがない。

まるで金縛りにあったかの様に捉えられた三日月を見つめる私の瞳。すると突然体が軽くなった、どうやら身を放り投げられたらしい。おぼつかない足でもいち早く逃げようと去ってゆく男。ひどく哀れだ、でも何だか気持ちは釈然としている。しかし支えのなくなった体は崩れ落ちる…と思った。

寸前のことだ。三日月に腕を強く惹かれ、そのまま三日月に包み込まれた。ハッと胸いっぱいに何かが込み上がる。こうして抱きしめられるのは初めてだった。手、頬に触れる三日月の胸は意外にもしっかりとしていて、何よりも、心に慈愛を感じさせる三日月の特有の香りが鼻をくすぐる。

「プリンセス」

頭上から降り注いだ三日月の私の名を呼ぶ声。一瞬胸がドキッと跳ねた。私は恐る恐る上を向く。三日月の浮かぶ瞳が愁いを帯びて私の瞳捉えた。そして三日月の手が私の頬に触れる。まるで慈しむ様に繊細に撫でている。思わず私は眉をひそめた。なぜなら三日月の行動に堪らなくなった。なぜ怒らないのだろうか、刀も忘れ自分勝手な行動をした…それにも関わらず、こうして何もかも包み込む様に抱きしめ、更にその様な…人を気に掛ける優しい瞳を向ける。

唇を噛み締めて潤む瞳を涙が零れぬ様に三日月の瞳を睨んだ。しかしそれでも三日月の瞳は優しかった。私は両手で目元を塞ぎ、そのまま崩れ落ちた。


△▽△


すっかり乾いた瞳に、はっきりと夜闇に浮かぶ月の光がよく似合う三日月の顔が映る。この短い時間で回顧して、ようやく真っ直ぐ三日月の瞳を見て話すことが出来る様な気がした。

「貴方が、助けに来ることを望んでいた…」
「そうか、その願い、届いたのかもしれないな、」
「ええ…でも、どうして貴方はいつも中立の立場にいるの。私の言葉に"正しい"とも"間違い"とも言わない。」

私の問いに、うーん、と何か考える様な素振りを見せる三日月。私は一度視線を逸らした。きっと次視線を戻した時に言葉を発するだろうと…そんな小さな賭けをした。

「そうか、いや、しかし、今回ばかりはお前の言葉に"中立"ではなかった…かもしれないな。…プリンセスが見ず知らずの男に触れるのは…心中で嫌気が疼いた。」

三日月の言葉に目を見開き、僅かに細められた三日月の瞳に捉えられた。すると、三日月の手が私の頬を優しく撫でて、口元に弧を浮かべる。

「どうやら俺はプリンセスを好いてる様だ。」

聴覚からも、はたまた視覚からも三日月の言葉が全身に流れた。
うそでしょ…と僅かな声量で呟くと、本当だ、と言う様に髪を撫でられ額に口づけられた。