相互認識




 私の住む島は本島であるジョウト地方から少し離れた所にある孤島で、運河が縦横に走る所謂”水の都”だ。建物も新しいものは少なく、歴史を守る為か、古いものが多い。建物と建物の間の道は迷路の様に繋がっていて、移動手段も歩行のみ、と暮らしにくい島だと思われるかもしれないが私はこの島が大好きで、生まれてから一度も島を出たことがない。

そんな狭い世界で生きてきた私は、とある不思議な男の子と出会った。今日もその子に会うためにいつもの場所へと向かう。

「まだ来てないかなあ…」

書物の壁に囲まれた空間、この島で最も古くからある図書館のガラス窓から差し込む僅かな光に目を細め、目的の人物を捜す様に外を見る。快晴を思わせる青い髪、活気溢れる色味だが落ち着きを感じさせる赤い瞳──特徴的な彼の姿は全く目に入らない。

はあ、と待ち遠しさを含むため息をひとつ溢し、横に大きく広がる木机の上に置く分厚い本に目を向けた。その本の中の世界を覗く様に1ページ、2ページと捲ってゆく。少し霞んだ文字を指でなぞりながら読み進めていると、突然肩を、とんとん、と叩かれた。瞬時に待ち侘びていた彼が来た、そう思って其方に目を向けると、思った通り彼がそこにいて、私が見るなり顔を綻ばせた。

「やっと来てくれた」

私の隣の椅子を引きながら腰を掛けようとする彼にご満悦気に笑みと言葉を零せば、彼は不思議そうに僅かに首を傾げてから、もう一度顔を綻ばせた。そして、机に置かれる本に目を向け、何を読んでいるの、と伺う様に私と本を交互に見ている。

「うん、今日はね…!」と本の中身を話すと、見せて、と言う様に距離を詰められ、彼の腕と私の腕がぶつかる。「ほら、これ」と触れたことに意識がいってしまわない様に言葉を急かした。すると更に距離が詰められ、彼が何の下心もなく平然とする行為に私は勝手にどきどきしてしまっている。

こうして私たちは図書館で時間を共有していた。

そして、ガラス窓から差し込む光が橙色になり、外を見ればすっかり夕暮れ時の空だった。彼と過ごす時間は、あっという間で「そろそろ閉館の時間だね」ともの悲し気に呟くと彼もまた悲し気に眉を下げた。

「また、明日会おうね」

そう言って笑みを返すと彼は悲し気に下げていた眉を上げパッと笑顔を浮かべ大きく頷いた。そんな彼の笑顔に私の心はぽかぽかと温かく和んだ。そして私たちは、図書館を出て、しばらく名残惜しむ様に私の一方的な言葉を交わし、お互い違う方向へと帰っていった。

 帰り道、石造りの道に映る子供たちが駆けてゆく影を目で追いながら彼との出会いを思い出した。私がいつもの様に図書館に訪れ、目的の本を探している時だったーー。必死に手を伸ばしても届かない所にその目的の本があって、苦戦している時にいとも簡単にひょいっと誰かがその本を取り私の伸ばす手にはめた。「ありがとう」とその人物に目を向けると、そこにいたのが彼だった。本の壁が連なるせいで薄暗かった為、私を見下ろす彼の顔が少し怖くて縮こまったが、すぐに彼は私にニコッと愛着深い親し気な笑みを浮かべ、私の手を引いた。「ええ」と戸惑いながらもそのまま流される様に導かれ、図書館中心部のガラス窓から日の差し込む机と椅子まで手を引かれ、彼は椅子を引いて私を座らせ、自分もその隣に腰かけ瞳をぱちくりさせながら私を見つめていた。

そして何故だか不思議と彼が心に思っている事が伝わって来て「読んで欲しいの…?」と恐る恐る聞けば、彼は何度か首を縦に振った。そして私は、あまりにも好奇心で溢れる彼が可愛らしくて、その要望に応える様に声を顰めながら読み聞かせをした。
 本を読み終えると外はすっかり夕暮れ時で、そろそろ帰らなければと彼にそう伝えようとするといつの間にか、彼は新たな本を持ってきていて、次はこれを読んで、と言う様に笑みを浮かべていた。

「今日は、もう帰らなくちゃ…閉館時間だもの。」

困った様に眉を下げて、そう伝えると彼はハッと瞳を大きく見開き、すぐにしょんぼりと悲しい顔を浮かべた。瞬時に私は「また明日ここで会いましょう?」とその曇った顔を晴れさせる様に言葉を掛ければ彼は、パッと顔を輝かせ大きく頷いた。

それからか、彼とは毎日の様に図書館で時を過ごすようになった。


「なんだか、不思議な子と出会っちゃったなあ」

すっかり街頭の灯りが道を照らす時間になってしまった。
幼い頃から図書館で過ごす時間は独りきりなのがごく当たり前の事だったから、誰かと一緒に過ごしている事に凄く驚いている。でもそれが煩わしいわけでもなく、寧ろ素敵な時間を共有出来ているなあ、と彼が毎日私の所に来て、これを読んで、と本を差し出す姿に感謝しきれない気持ちでいっぱいだ。

「明日は何を読んであげようかな…」

夜空に浮かぶ月と点々と散らばる星を見上げ、待ち遠しい気持ちを吹き出す様に呟いた。


****



 翌日、私はいつもより目覚めが早く、少し早い時間に図書館へと訪れていた。あまり見た事がない書棚を何気なく眺めながら歩いていた。その時、何故か導かれるようにある一冊の本の霞んだ背文字に目がいった。そしてそれに手を掛け書棚から取り出し、誰も手に取る事が無かったのだろうか、少し埃かぶった表紙を撫でる。

「"水の都の護神"…?」

表紙に刻まれた題名を口ずさむと、幼い頃に母から読み聞かされた記憶がぼんやりと蘇る。どんなものだったけ、と気になってしまい、それを抱え、図書館中心部の机と椅子へ向かい、腰かけた。そして表紙を捲りさっさとページを捲っていく。すると、あるページで手が止まった。そこには何やらポケモンの挿絵が載っていた。その絵の下にはそのポケモンの名が示されていて、それを指で撫でる。

「ラティオス…」

そして何故だか、彼とラティオスが重なった。描かれているラティオスには色など施されていなかった。でも何故だか、きっとラティオスは快晴を思わせる青い毛並みに、活気溢れる色味だが落ち着きを感じさせる赤い瞳であるだろうと、そう思えた。

挿絵の隣ページに掲載されている文字を読むと更に疑惑が増す。どうやら、姿を滅多に人の前に表すことがなく、様々なものに変身することが出来るらしい…それは、人に化ける事も可能だ、ただ体温をそれと同じになる事はない、そして、人の言葉を話すことが出来ない。

そこで私はハッとした。彼に手を引かれた時、近い体温を感じなかった。そして、彼の声を聞いたことが無かった。

「もしかして…彼は…」

その時だったーー。
わっと驚かす様に誰かの手が肩に触れた。即座に振り返れば、そこには彼がいた。驚いた?と言う様に首を傾げて笑んでいる姿に、ふう、と一息つき「びっくりした」と呟いた。

そして彼の視線が机に開かれる本に向けられ、一瞬ハッと動揺した様な表情を浮かべた。私は、それを見逃すことなく確信した。恐る恐る口を開く。

「聞いても良いかしら…?貴方は…」

「ラティオスなのでしょう…?」と最後まで言葉を言い切る前に、彼は逃げる様に走り出した。突然の事に私は即座に立ち上がり、出口へと向かう彼を追った。

「待って!」

図書館の重みのある扉を押して外に出ると、少し離れた所で彼が此方を見ていた。急いで彼のもとへ向かおうと走り出すと彼も私に背を向け走り出した。軽快な足取りで前を走る彼を追う。

色とりどりの花が幾つもの連なる庭園、人々が行き交う町広場、道と道を隔てる水路から道を繋ぐ橋を越えてーー。「まって」と息を切らしながら建物と建物の間を疲れを感じさせない足取りで進んでいく彼を追う。逃げているのにどこか楽し気に、こちらを振り返りながら走っている。

私は最後の力を振り絞る様に手を伸ばした。そして彼の遅れた後ろにある腕を握った。「捕まえた!」と声を上げ、深く呼吸を繰り返し、整った所で背を向けたままでいる彼に問いかけた。

「貴方は、ポケモン…ラティオスなんでしょ…?」

決して広い空間ではない為か、私の声がよく響いた。暫く私は黙ったまま彼の返事を待っていると、彼が此方に振り返り、困った様に眉を下げ笑みを浮かべた。その瞬間、彼が眩しい程の光に包まれた。私は思わず、顔を逸らし目を瞑る。そして確かにはっきりと私の心に何かの声が響いてきた。

 ばれちゃった。

その声にハッと胸が鳴り、強い光も収まった事で顔を上げると、私は目を疑った。目の前に現れたのは、先程本で見た挿絵通りのラティオスの姿。そして色味は先ほどまでいた彼を思わせるものだった。信じられない、と言う様に目を大きく見開いた。

目の前に現れたラティオスは、私の手を片方の手で握り閉めて、申し訳なさそうに私に笑んだ。私はそんな謝っている様にみえるラティオスの赤い瞳を見つめ問いかけた。

「どうして、人間に化けていたの…?」

するとラティオスは、もの悲し気に視線を下げてから、もう一度私を見つめ、言った。

 僕は君と友達になりたかったんだ。
 だから、人間に化けちゃった。

ラティオスの言葉に思わず私は大きく目を見開いた。そんな単純な理由で…?、ただただ衝撃を受けた。するとラティオスの目が白く輝き出した。その瞬間、不思議な体感が襲う。隣にはラティオスがいて目は白く輝いている。そして何処かにいる様だった。何だか懐かしい感覚、目を動かすと如何やら木陰に身を顰めているらしい。そして更に辺りを見回すと、そこは図書館の外だった。でも、それは現在の外観ではなく、私がまだ幼かった頃、その時の古びた外観だった。そして、ガラス窓を除くとそこには、母に本を読んで貰っている少女…私がいた。

ハッとした瞬間、景色がガラッと変わって、私の目の前にはラティオスがいた。まるで夢を見ていた様な…そんな感覚だった。そして私は恐る恐る口を開いた。

「今のは…貴方が過去に見ていたものなの…?」

するとラティオスは赤い瞳を閉じ深く頷いた。私は、随分と昔の記憶を見せられた事に不思議と涙が目に溜まった。あんな昔から私を見ていたなんて…、そして私は無理やりに笑みを浮かべた。

「そんな事しなくても、そのままの貴方の姿でも私は友達になったわ」

潤んだ瞳を見られない様に視線を落とすと、更にラティオスの私の手を包む力が増した気がした。

 それじゃダメだった。
 僕は人として君と触れ合いたかったんだ。

ラティオスの声に、私は顔を上げ「…どうして…?」と問う。するとラティオスは困った様に眉を下げ笑んで、手を離し、次はその離した手で私を抱きしめた。そしてはっきりと私の心に響かせた。

 僕は、princessの事が好きなんだ。

思わず大きく目を見開いた。
きっと、この世界には、いつも傍にいるポケモンや人間に対して愛が溢れているのに言葉の壁がそれらを伝えるのを隔てていて、確かな互いの感情を認識出来ていないだろう。でも、ラティオスは一種の方法を使って私に、はっきりと伝えた。

そしてなぜ人間に化けたか、それはポケモンと人間が言葉で隔てられている様に、感情の相互認識も隔てられているからだ。でも、残酷な事に見た目が同じ人間になっても言葉だけは同じになれなかったらしい。

私は震える唇を動かした。

「ラティオス…聞いて」

するとラティオスは、きゅるる、と喉を鳴らし、私には分からないポケモンの言葉で返事をした。

「とある昔話でね…ポケモンと人間がお互いに惹かれあって、結婚したっていうのを読んだ事があるの……それが普通の事だったのよ…」

私は、私を抱き締めるラティオスを優しく離した。そして平和を愛する様な赤い瞳を見つめる。でも、少し悲し気に顔を歪めているから、長く逞しい首を撫でた。

「ラティオスが私の事を好きって思うのってごく自然な事なのだろうね…」

ラティオスは儚げに赤い瞳を下に向け俯いた。そして次は私がラティオスの体を包み込む。

「私もよ、ラティオス。私も貴方が好き。」

そう口にした瞬間、ポケモンと人間を隔てる言葉の壁が崩れ落ちた様な気がした。