忘却の姫子
王女の替え玉を用意した。一緒に焼け死んだ女官の赤子を。奴等には気付かれていないはずだ。王女が産まれたことはまだ民に触れを出す前だった。しかし万が一ということもある。
何代か前に、まだ触れを出す前だった王子の存在が他国に伝わっていた前例があった。それを用心して、替え玉を用意した。
リカルド陛下には末の王女もいたが、戦火によって崩御なさったと、敵の将軍に伝わるはずだ。
陛下も王妃も王子もみんな殺された。
この御子だけは──何としても俺が守らねばならない。
城守婆マイールは、腕に抱いた赤子に、慈しみを込めて皺に埋もれた眼差しを向ける。
その時だった。後方の茂みが音を発した。ガサリ、と鳴った瞬間ユージンは腰の剣に腕を添えて身構えた。
しかし、やがて「隊長……グレン隊長」と聞こえてきた聞き覚えのある声音に、緊張を解いた。まだ子供のものだった。
「俺はここだ」
やがて茂みを掻き分けて姿を現したのはルシアスだった。顔や身体のあちこちが煤で汚れて、血に塗れていたが、大事には至っていなくてホッとした。
「無事だったのだな。ルシアス」
「ああ、グレン隊長!」
もしかしたら、と思い、この山森を一心に目指して来た。やはり、隊長は生きていた。絶対に生き延びているはずだと、固く信じていた。
「絶対にあなたは死なないと信じていた」
「ああ。俺は簡単には死なない。お前もよく無事だった」
「あなたに会えることを信じていた」
グレン隊長! と、ルシアスはまろびながらユージンに駆け寄り、腰に強くしがみついた。ユージンはルシアスの肩を抱き返す。他の者たちはどうなったのか。城の者はほとんどが殺された。サンカルナ青騎士隊員達とも、はぐれたままだ。
ルシアスと再会出来たのは奇跡だった。出来るならば副隊長のブルーノの無事も確認がしたかったが、その余裕はない。
「お二方、グズグズはしておれぬぞ。さぁお行きなされ。そなたが思う地へと赴きなされよ」
マイールに促され、ユージンは腰にしがみつくルシアスの肩を強く引き寄せた。
いつ敵兵に見付かってもおかしくない状況だった。悲鳴。炎の燃え盛る音。激しい剣戟の音。怒号。阿鼻叫喚の絵図だ。夥しい血の臭いに生き物の焼ける臭い。全てのものが焼き尽くされた。植物も動物も。
宮殿の裏手に聳えるこのケルク森山にもやがて敵の手が回るだろう。
ルシアスは血の気が真っ青だった。半年前に青騎士隊員見習いとして自分の隊に入隊したばかりで、本物の戦場を見たことがなかったのだ。
幸いにも大きな深手は受けていなかったが、暗い色に燻されて、彼の青の瞳は濁っていた。
彼は泣いていた。静かに、その目に憎しみを抱き、セレスティアが戦場になり、子供も老人も、人々が敵の手に呑まれるその様をありありと見つめていた。