距離


トクン、トクン
聞こえるはずの音が中々聞こえない。


けれど別に、それはそれでいいと思ってた。




「んー…やっぱり聞こえない。」



「そりゃぁちょっと私お胸大きいもんね。」




クスクスと静かに笑いながらも優しく俺の髪を撫でる花子に甘えてそのまま瞳を閉じる。
人としての体温はしっかりと持ち合わせているのにこうして胸に耳をあてても心音が聞こえないのは彼女のソレが少しばかり大きいから。



「こうやって音聴くの…憧れだったんだけど。」



「………そっか、ごめんね?」



「…別に。」



小さく不満を漏らせば少しばかりの沈黙の後に優しい声色で謝罪され、やはり優しく頭を撫でるので
もう何も言えずにぎゅっと彼女の体を抱き締めた。
只心地よくて…花子のこの手が、声が…体温が。




だから何も気付かなかったし、
何も気付こうともしなかったんだ。








「………は?」



それはある日突然襲ってきた。
いつもの様に花子の部屋を訪ねれば、これまたいつもの彼女の香り。
違っているのは目の前が真っ赤に染まっていたのと
彼女の顔がいつも見せてくれる穏やかな顔ではないと言う事だ。



「花子?」



「………、」



咽返る香りに頭がイカれそうなのを抑えて恐る恐るベッドに横たわる彼女へと近付く。
どうしてこんな事になってるんだ。別に何もそんな…前触れも何もなかったじゃないか。



「花子…花子、」



そっと彼女の手から部屋と同じく真っ赤になったナイフを取り上げてその体を抱きあげる。
…花子はこんなにも酷く重かっただろうか。



「花子…どうして、こん、な…。」



力の入らない、生きる事を放棄した彼女の体は今や只の血と肉の詰まった袋でしかない。
閉じられた瞳、何度も耳をあてても心音が聞こえることがなかった胸は無残にも抉られてしまってる。
どうしてこんな事になったんだよ…何があったんだよ花子…。



「優しく俺の事撫でてたじゃないか…声だって。穏やかで…なにも…」



いつだって俺を包み込んで頭を優しく撫でて穏やかな声で俺と何気ない会話をして…
酷く心地いい毎日だったはずなのに。
なのにどうして…どうして、




「なぁ、何で自分で死んだの。花子。」





何も不満なんてなかったはず。
ただひたすらに心地よく、愛おしい毎日だったのにどうして花子が自らこうして死を選んでしまう結末になってしまったのかが分からない。
分からない…そう、分からないんだ。




「………あ、」




ふと思い当った一つの事実。
俺、いつだって彼女に抱き締められてずっと胸に耳をあてて聞こえないとじゃれていたけれど…
そうして過ごしてきた時、彼女の顔を見た事があっただろうか。




俺を撫でる指が優しかったから
彼女の声色が酷く穏やかだったから
彼女だって…花子だって俺と同じく力なく顔を緩ませて笑顔だとばかり思ってた…




けれど…




「なぁ花子…言ってくんなきゃ分かんないだろ。」




もはや返事なんて返ってはこない。
只ひたすら亡骸におかしくなった狂人の様に話しかけるだけだ。




「花子…あんた、泣いてたの?…俺を抱き締めながら、独りで、泣いてたの?」



いつもと立場は逆。
花子を包み込む様に抱き締めて震える声で嘆く。
遅すぎた…気付くのが遅すぎたんだ。




きっと彼女がこうなってしまうのは必然だったのだろう。
いつだって何も無いように穏やかな声と指で俺を安心させてはいたけれど
彼女は毎日穏やかな気持ちだった訳がない。
それに気付いてやれなかった俺の責任だ。




暖かい指と言葉の裏側に気付いてやれなかった。




いや、きっと気付かないようにしていたのだろう…花子も。
だからいつだって俺と会う時は自身の顔が見えないように俺を包み込んで
心とは反対の優しく穏やかな態度で俺に接してたんだ。




「花子…遠い、…遠い。」




遠いのは心臓の音だけだって思ってたけれど…
花子の心自身も酷く遠かった。



積み重なった嫌な事、悲しい事…
誰にも…俺にさえ打ち明けることが出来ずに彼女は1人で勝手に逝ってしまった。




「悲しいなら…辛いなら言ってくれよ…そんな事で嫌う訳がない…のに…っ」



ギシギシと骸が悲鳴をあげる位強く抱き締める。
只、穏やかで幸せだと思っていたのは俺だけで…
花子はきっと俺を抱き締めながら独り、誰にも気付かれないように泣いていたんだ。



嗚呼、あんなに近かったのに
こんなにも遠かった。




「花子…あんたの音…全部聞き逃してたんだな…ごめん、ごめんな。」




確かに脈打っていたはずの音も、心の中の嘆きも全部聴く事が出来なかった。
こんなに傍にいたのに何一つ分かってやれなかった。
ただ、ひたすらに与えられたぬるま湯のような心地よさに瞳を閉じていただけだった。




「嗚呼、花子近くに…近くに行きたい…今度こそ。」



そっと鮮血の銀ナイフを胸へと当てる。
音も心も…今は魂さえも酷く彼女と遠い距離だ。




だったら…




だったらせめて…




この鈍感で馬鹿な魂位は、
花子…どうかアンタの傍に置かせてくれないか。



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