2-04:見上げる女

 まるで時間が停滞しているような部屋だった。
 壁紙からカーテン、シーツに至るまで、室内の調度は生成りめいたベージュでまとめられていて、部屋の印象を清潔で柔らかなものにしようとしたのだという努力が窺える。しかしそもそも遮光性の高いカーテンが日光の侵入を阻むので、太陽が最も高い時間帯でさえ全てがくすんだねずみ色にしか見えない。死んだ内臓組織と同じ色だ。
 どんなに暗くなっても人工光を必要とするものはこの部屋には無いので、長らく使われない蛍光灯の傘には埃が積もっていた。この部屋全体が最も薄いねずみ色になる時間帯には、ごく微細な繊維のような埃が確かに空気中に存在して浮かんでいるのが窺えた。空気中にあって揺らめくこともなく、ほとんど静止したように浮かんでいるのが見て取れた。カーテンと窓を開け放って部屋の空気を入れ替えるなんて大胆な思いつきを実行するものは無かったし、そもそも入れ替えなければならないほど空気が濁ったり、あるいは劣化することもなかった。もとから停滞している空気だけでこの部屋はこれまでも、これからも、十分にやっていくことができる。窓を開ける必要がない。カーテンを開ける必要がない。完璧に閉じられた部屋で、完結している。変化する必要がない。それだから、時間さえ停滞しているように見える。
 でも、この部屋にも変化のようなものが訪れる瞬間があるのだ。
 それはたいてい非常識なほど早朝か、普通は昼休憩を取るような真昼間で、夜だとか深夜だとかには訪れない。この部屋が十分にくすんだねずみ色に満ちているときにしか訪れない。彼は金属音とともに現れて、何度も何度もその動作だけを完璧に練習した舞台俳優のように、無駄のない動きで部屋のドアを押し開く。身体を滑り込ませるようにして入ってきた後は、およそ空気抵抗だとか摩擦だとかの存在を感じさせない足取りで部屋の中心まで進んでくる。よくある『良いとされる』行動のように、天気の話をしながらカーテンを開け放ったり、それこそ舞台俳優の練習のように一人で延々近況を語り続けたりはしない。

 ねずみ色の部屋の中心まで彼が進んできて、それで終わりだ。

 儚い変化はそれで終わり、あとは彼すらこの部屋の時間の停滞に馴染んでいく。死んだ内蔵組織と同じ色の部屋で、彼は何もしない。ただ立っている。返事を期待せずに根気よく話しかけたり、握り返されることを期待せずに根気よく手を撫でたり、およそ『良いとされる』『効果の期待される』行動は一切取らず、ただ立っている。そして長くても22分きっかりで、入ってきたときと同じように滑らかに部屋を出ていく。現れたときと同じように、金属の足音を響かせながら去っていく。
 ねずみ色の部屋から幾分離れた廊下では、彼の部下が微動だにせず立って待っている。彼の部下は戻ってきた彼のご機嫌を窺うようなことはしないし、彼も部下のためにわざわざ足を止めたりしない。空間を切り裂くように歩く彼の後ろに、彼の部下が当たり前のように合流する。医院を出るまでのあいだに言葉を交わすことは少ない。死んだ内蔵組織と同じ色の部屋からは着実に離れているのに、まるでまだあの部屋の停滞した時間の支配下にあるようにも思える。
 医院から出て、雑踏と喧噪に紛れ込みながら、彼はやっと口を開く。

「まいったな。我々には『時間』がない」
「…」

 彼の部下は慎重に返事を保留した。慎重に、彼の右の手指の行方を見守る。彼は歩き続けながら寒さに耐える人のように肩をいからせ、そろそろと腕を組む。右手で反対の二の腕を掴む。その手指を彼の部下は慎重に見守っている。右の手指はゆっくりと、彼の二の腕の服の生地に沈んでいく。吸い込まれるように、握りつぶそうとするかのように、次第に生地がギチギチと鳴り始める。手指があまりの力に血流を失って白んでいく。ガタガタと不規則に震え始める。彼が立ち止まる。そして、



 二重スリット実験をご存じない方はいないでしょう。理解して無くたって結構、私だって理解なんかしていないので、話を進めるぶんには理解して無くたっていいんです。二重スリット実験が「この世で最も美しい実験」だなんて言われていることはご存じ?やわやわした世論なんかじゃなくて、ちゃんと権威ある科学雑誌の読者投票で選ばれているんです。権威ある、って、いったいなんなんだろう。私も欲しい、権威。脱線はさておき、実験に「美しい」という形容詞を授ける人が、投票なんかができるほどこの世に存在していることにまず驚き。僅差で選ばれなかった実験の美しさはどれほどのものなんでしょう。もしかすると「度し難いほど醜悪な実験」とか「憎めないファニーフェイスな実験」なんてのも存在しているのかもしれないわ。
 二重スリット実験をご存じない方はいないでしょう?なんとなくこんな実験だった気がするとか、名前だけ聞いたことがあるとか、その程度でいいんです。こういう日常会話でおよそ使わないような言葉を、それなのに貴方も私も知っている、って、なんだか感慨深いものを感じませんこと?つまり我々はみな兄弟ですわ平和の挨拶ですわほほほって。まだいくらも馴染んでいないうちから警戒されそうなほどに電波じみてみたり。
 つまり私が言いたいのは、私が観測したばかりに、この眼前の建物は店舗としての性質を失ってただの閑静な住宅としての性質をこの世に顕在化させてしまったのでは?ということなんです。私が観測するまではちゃんとなんらかのお店だったんだけど、私という観測者の性質によってただの閑静な一般住宅として存在せざるを得なくなったんじゃないかって。不確定性原理とかコペンハーゲン解釈とかデコヒーレンスとか、そのあたりじゃないかと思うんだけど。もしそうじゃなかったらこの地図が間違っているか、私がからかわれ騙されたかっていう、いずれもツラい現実と直面することになってしまうのでできれば物理学的不可解の範疇であってほしいところ。

 お店があると唆されてやってきた場所に、どう見てもテナントではないごく普通の一戸建てしかないのです。

 一階は丸ごとガレージ(豪雪地帯によくあるタイプ、我が県はどちらかというと南国地帯ですけども)、三分の一ほど開いたシャッターから、瀟洒な家の外観に似つかわしくないべこべこのワンボックスが覗いています。おそらく二階に玄関があるのでしょうけど、どこから二階へ行くものだかさっぱりわからないわ、住んでる人は困らないのかしら。その二階はこちら南側に面したほうが全面ガラス張りの窓になっていてなんとも瀟洒でハイカラ、ステキ。ガラスが不気味に照り返しているのはきっとマジックミラーのような効果のある目隠し用のフィルムを貼っているから、地方都市といえど都会でプライバシーを守りつつスマートにシャバ光を拝むのはなかなかに難しいことなのです。三階(なんと三階がある、この時点で木造平屋で育った私の共感能力の域を逸脱)は打って変わって、しかし瀟洒なことには変わりない、細長い窓ガラスが二枚だけ。そう、これを見て昨日お昼にテレビで見た二重スリット実験を思い出した私は冒頭でしつこく該実験について絡んだのでした。ともかくこれはお洒落な住宅であってお店ではない、決してない。困ったものです。お店があると聞いて遠路はるばる市営バスでやってきたのに。
 あたりを見回します。私は高校卒業まで田舎で育ったから、いまだにこの街にはなじみのない場所ばかりなのだけどここもそんな場所の一つです。大学生のころ街育ちの友達にいろんなところに連れて行ってもらったけれど、このあたりには来たことがなかった。女ばかりで来るには少し治安の良くない地帯だからって、まあ勉学に努めていたそのころ自由にできたのは夜ばかりだったのだから、仕方のないことだと思う。閑静な住宅街、と言うには確かに目に見える閑静さが足りないかもしれないわ、そこらじゅうポップでビビットな落書きだらけだし目に映る建物もみんなどこか、煤けています。居並ぶ家々はまるで大きさの均整が取れていないし配管雨樋は剥き出しだし、そうなってくると眼前のこの瀟洒な建物もどこか野暮ったく浮いているように感じてしまう。
 手元の地図を見ます。手書きの町並みに書き込まれた、まるで古代文字みたいな独特のクセ字。どう時を重ねたらこんなふうな手触りになるのか、心許ないのにどれだけ乱暴に扱っても破れる気配もないくたくたした紙質。

 もしかしたらとっても古いものなのかも。
 ここにお店があったのは、もう遙か茫洋の昔のことなのかも。

 ここまで頼ってきたくせにどこか突き放した無責任な感想が頭を占めました。私が無責任なのは今に始まったことではないけれど、と一応気を取り直して。
 二重スリットの窓を見上げます。何か見えるような気がして。人の家を覗き込むような真似、はしたない以外の何ものでもないのに。実際には二階の窓と同じように遮光反射式の目隠しフィルムが貼られていて、不気味に陽光を照り返すばかりです。悩みました。このまま引き返すか、だめもとでドアを叩いてみるか。

 このまま引き返してまた一人になる勇気が、私の中ではもう尽きかけていました。

 でも、ドアを叩こうにもドアの場所がわからない。一階はまるごとガレージで、階段さえ見える範囲には見あたらないのです。途方に暮れました。暗澹冥濛の心地でした。私はなんの生産性もなく、二重スリットの窓を見上げ続けました。この状態の私を観測する誰かがデコヒーレンスを克服してくれればこの瀟洒な邸宅がふたたびなんらかの店舗としての性質を持ってくれるかも?なんてことはさすがに思っていませんでしたけど。

「ねえ。あんた。さっきから何してるのよ」

 デコヒーレンスは克服されませんでしたが一番目の希望はまさかまさかで叶いました、つまり、私を観測する誰かの登場です。急に耳元近くで声をかけられて、反射で一歩身を翻すときになんだかいい匂いがしました。そのいい匂いと言われた言葉を反芻して、それで女の人に声をかけられたのだと理解しました。

「何かこの家に用なの?」

 しかも口振りからするとこのおうちの関係者の方でいらっしゃる?声をかけなきゃいけないけどかけられなくてうじうじしてたら逆に声をかけてもらえるなんて、コミュニケーション界隈における努力至上主義者が見たら憤死しそうな展開です。私には当然すこぶるありがたく、そのころになってやっと私は声をかけてきた彼女の全貌を目の当たりにしました。

 彼女の容姿を一言で表すなら、きゃりーぱ●ゅぱみゅ(暗黒)です。

 他にうまい形容が思いつかないのです、もっと詩的で叙情的、それでいてスマートかつわかりやすい形容が思いついたらいいんですけれど。たいそう見事な黒髪はまぶたの上とウエストのくびれのあたりでばっつりと切り揃えられ、日光を吸い込んで深緑色の艶を発しています。暗い緑のビロードみたい。ラムちゃんの髪の毛みたい。まんまるの目は黒目が大きく、頬も腕も肌は蒼白。耳元にショッキンググリーンの目玉を模したピアスがゆらゆらしています。黒いふわふわしたトップスに、白いふわふわしたスカート、ピカソ桃色の時代を思わせる配色の幾何学的なストッキング、とげとげした靴。そういったジャンルのおしゃれに造詣深くない私は、彼女をきゃりー●みゅぱみゅ(暗黒)と形容するほかに言葉を持ちません。ケーキのような(ケーキのような)鞄を下げた彼女は、そのファッションを全て当たり障りのないものに挿げ替えればバイト帰りの学生に見えないこともないかもしれなくもないです、煮え切らない。

「アンタこのへんの人じゃないでしょう。さっきからうろうろじろじろしちゃって、不審なのよ」
「不審な者じゃないわ。私、こういうものです」

 焦ってとっさに名刺を出してしまった。なにやってるの私。なぜこのタイミングで個人情報をたたき売りに。困るでしょうよ、こんな、それこそ不審な女に出会い頭に名刺渡されても。
 しかし以外にもきゃりー(黒)は素直に名刺を受け取り、きちんとその場で確認してくれたのでした。「ええ〜市役所?公務員?なにか怒りにきたの〜?」なんて偏見きわまりない愚痴を吐きながら。

「なんて読むのよこの苗字。ゆみけずり?」
「ゆげ、です」
「え〜カッコいい〜いいな〜あたしもこんな苗字の人と結婚すれば良かった。あ、待ってね、名刺ならあたしも持ってるから〜」

 私は生まれたときから弓削ですが、口振りからするともしかして彼女は既婚なのでしょうか。とても若く、ともすれば幼く見えるのに。きゃりー(黒)はいそいそと財布に私の名刺をしまい込み、入れ替わりに同じサイズの硬い紙を私に差し出します。黒い背景に、ショッキンググリーンのウサちゃんが水色の吹き出しを抱えているデザイン。

「かわいい」
「まあね。こないだ作ったばっかなの、ウヒヒ」

 全体のポップでビビットなデザインとは裏腹に、かしこまった明朝体で書いてあるのは「有限会社 シュれでぃんガー 吉田ミズホ」という文字。なんとまあ今日は量子学的なものにご縁のある日です。何をしている会社なのでしょう。箱の中の猫を殺すためのハンマーを作っていたり?あるいはハンマーを作動させるための放射性元素の放射性崩壊を検出するガイガーカウンターとか?思いがけず特攻のような手段で巻き上げてしまった彼女の個人情報をためつすがめつしつつ、私は自分本位に話題を巻き返すことにします。

「あの、貴女はこのおうちの方ですか?」
「違うけど?…いや、そんなにホイホイ答えないよ、知らない人なんだもんアンタ」
「私、ここにお店があるって人に聞いて来たんです。でもとてもお店には見えないから、間違ったのかしらって…」
「あ、そーなんだ〜。ん〜残念だけど間違ってるんじゃない?ここ、私の友達の家だもん。私のっていうか、私の旦那の?」

 一瞬前の主張を翻してホイホイ素直に答えてくれる彼女はきっと心底良い人なのでしょう。反抗期と才能開花の時期がいっぺんに来たような外見をしているけれど、まだ少女と言いたくなるような、あどけなさに似た危うさにまみれた見かけをしているけれど。

「てーか、誰に聞いたの?見ての通りそもそもこのへんに店なんか無いし、あんまり女の子が一人でうろうろしないほうがいいんだって。まあまだ明るいから、ぜんぜん平気だけどさ」

 不審な女の心配までしてくれる、彼女はあるいは天使かもしれません。服装の趣味はどちらかというと悪魔的ですけど。というか本当に、そこまで治安が悪いんでしょうかこのへんってば。うっかり仕事帰りなんかに来なくて良かった。私は手の中の地図を見下ろします。古文書のようなフォントで書かれた日本語の判別しにくい手書きの地図。やたらくたくたして繊維質な紙質。角が丸くとれてとっても古そうなのに、それ以上破れたり劣化する様子もない。これを頼りに今日はやってきました。何日も何日も本当に行くかどうか悩んで、あの人との喧嘩のようなものを経て、それで今日やっと、本当に。これを頼りに。ふと思いました。

 私、この地図をどこで手に入れたんだろう。
 いつからこの地図を持っているんだろう。
 なによりこれ、こんな字。
 誰に、書いてもらったの。

「あ、ちょっとアンタこっち、こっち来なさいよ」

 不意に腕を引っ張られ、あれよあれよという間に件の瀟洒な家と斜向かいの民家の影に引き込まれました。きゃりー(黒)改めミズホ氏は、無理矢理私をしゃがませて自分もしゃがみ込みます。なんだろうすごく典型的で古典的な覗き見スタイル。幸いなことに電柱のほうも近くでスタンバってくれてますので、これであとあんパンさえあれば完璧すぎて恐ろしいほどです。
 隠れることを強要された理由はすぐにわかりました。程なく件の瀟洒な家の前に車が一台乗り付けました。漆のように真っ黒で、つやつや完璧に輝くセダン車です。

「高そう」
「高いよ。レクサスだもの」

 私には車種なんてさっぱりわかりません。ペーパードライバーだし、エンブレムなんかもぜんぜん知らないし。ただ、スモークの貼られた窓まで真っ黒な様子とか、エンジンを切られて初めてその存在に思い至るほど静かなエンジン音とか、降り立った男性二人の映画俳優のようにお洒落でありつつとてもごく一般的な職種じゃ着られないような華美なスーツだとか、全体的に醸し出されている空気感だとか、とにかくすべてが。

「悪そう」
「悪いわよ、ヤクザだもの」

 彼女のあまりにもしれっとした発言に、さすがの私も目を剥きます。ヤクザ?いったいどんな仕事内容なのかとても想像がつかないけれど、堅実薄給の我々公務員よりもデンジャラスでクレイジーな職種であることは間違いないでしょう。というか何故、ミズホ氏は二人をご存じに?ひょっとしてお知り合い?まあ件の家が旦那の友達の家ならば、その家に入っていく彼らは旦那の友達の友達、もしかすると一段階関係を短縮して友達、あるいは同業者なのかも、だとするとミズホ氏ってまさか極妻ということに?と色めく妄想は取り留めもなくたいへんなことに。
 車から降り立った二人は、そのまま件の瀟洒な家に近づいていきます。なんてこと、堂々たる路駐です。一人はどことなく立ち振る舞いが気障というか芝居がかっていて、歩くたびにスーツの裾まで大げさに翻るのが印象的です。映画俳優のようなサングラスまでかけています。もう一人は見るからに恐ろしげな体躯をしていて、先の彼の後ろを大股で歩いて行きます。どこから入るもんだかわからない件の家の半分開いたガレージまで来ると、巨躯の彼のほうが進み出てシャッターをがらがら勝手に引き上げました。サングラスの彼はそれを当然のように待って、巨躯の彼を差し置いて中へ入っていきます。その後巨躯の彼も続きます。なるほど、どこにも玄関がないと思ったら、あとには黒光りするレクサスが残されるばかり。どことなく厳しい上下関係が透けて見える一連の出来事でした。

「あの人たちって、いろいろ噂があるのよね」

 立ち上がりながら、ミズホ氏は唇を歪めます。笑っているような、顔をしかめているような。不謹慎だけど楽しい話題を切り出すときのような、これから残酷なことを言う高揚感に耐えているような。そんなきわどい表情で、それがなぜかたまらなく彼女の危うさに似合っていて、もっとその顔を頻繁にしていてくれないかな、なんて、出会ってまだ十数分の女の子に対してずいぶん変なことを私は思いました。

「あの人って、右脚が無いじゃない?」

 そんな陶酔めいたことを思っている頭にも、その言葉は衝撃的でした。まったく気付かなかった。ので、「あの人」と単に言われてもサングラスの彼のことだか巨躯の彼のことだかさっぱりわかりません。聞きにくいことこの上ないとは思いながらいったいどちらのことを言っているのか問いただそうとして、ふとサングラスの彼の歩く姿が思い出されました。大げさに翻るスーツの裾。まるで右脚だけ骨のように細いせいで、余計にあまった生地がはためいているみたいに。

「あの人って結構有名な人なの。なのに、あの人の脚が無い理由を知ってる人って全然いないのよね。噂ならいくつもあるんだけど」
「先天的なものなんじゃないですか?」

 だとしたら取り立てて話が広がることも無いような気がします。けれどミズホ氏はすぐさま首を振りました。

「少なくとも五年前まではちゃんと両脚そろってたって、若い頃はそれこそチンピラみたいなことしてたって、パパが言ってた」
「…」

 パパですと?
 いよいよミズホ氏の極妻疑惑に拍車がかかってきました、それもサラブレットの可能性がある。正直一瞬チラ見しただけのヤクザさんがたの不明瞭な事情より、この一見可憐で幼げでぱみゅ気のある既婚少女の事情のほうに興味がそそられてしまう下世話な私です。

「抗争で無くなったとか落とし前で落としたとか野犬に食われたとか、いろいろ噂あるけど、ぜんぶあの人本人が流してるデマなの。面白がってるわけ、そういう噂流して。意味不明よね、悪趣味だし」

 そういう嘘をつくのは、十中八九隠したい真実が他にあるときです。少なくとも私はそう。ヤクザさんと一緒にしていいものか、悩みますけど。

「でもいちばん馬鹿馬鹿しいのは、自分で切り落としたんじゃないかって噂」

 ミズホ氏は文字通り緑の黒髪を掻き上げ、取り繕うように前髪をいじりました。サンタの存在を信じていることを笑われるのを恐れる子供のように。

「あり得ないよね、自分で切り落とすとか、フツーに無理だし、それにもっと馬鹿馬鹿しいのが、切り落とした脚に自分の魂を入れて、どっかに隠してるんじゃないかって噂」
「魂?」
「よくあるじゃない、ファンタジーとか、ボス戦でさ。魂の入ってる本体を倒さないと、何度倒しても復活してくるみたいな」
「ヴォルデモートじゃないですか?」
「そう、それ!!知ってる!?」

 そんな世界的児童文学のラスボスめいた人がこんなに近くにいたら困りますが、生活圏かぶりまくってるし。そう思っているのはミズホ氏も同じようで、さもくだらないと言いたげに鼻でため息をつきます。かといって心底バカにしているというわけでもなく、あくまで噂話として楽しんでいるというスタンス。そもそもそういうラスボスめいた噂がまことしやかに浸透するほど、サングラスの彼は不特定多数に畏怖される存在なのだということなのでしょう。

「まあね、そんなのあり得ないしあくまで噂なんだけど、本当に」

 でもまあヤクザなのは本当、というところですね。そう考えると彼女に不審者じゃないかと見咎められて良かった。あのままあそこで迷い続けていたら十中八九彼らと接触していたでしょうし、ただでさえコミュニケーションに難のある私がそれをつつがなく受け流せるかというと全く自信がないし。

 でも、本当にこれは良い運の巡り合わせだったのかも。

 くたくたの地図を手の中でもてあそびながら、私は思いました。すんなり店にたどり着けず、彼女に見咎められ、結果安全圏から彼らを目撃し、その眉唾物の情報を得る。とてもとても、運が良かった、私は。
 火のないところに煙は立たないと言うでしょう。何かしらの噂に即した真実があるからすくすくと噂が育まれるのです。噂のあるところには大なり小なり真実が存在するのです。

 私は二重スリットの窓を見上げます。
 私はそれが欲しいのです。なんでもいいからそれが欲しいのです。

 手の中でくたくたした地図が、生き物の皮膚のように貼りついていました。
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GFD