「今すぐこの家から出てけよ!!この泥棒野郎!!」
そう汚い罵り言葉をヒステリックに泣きながら叫ぶのは陽光だった。手当たり次第ティッシュボックスに手鏡、安物ではない花瓶にコップにと物にも奴当たって怒りの矛先、翳に投げ付ける。
翳はされるがまま抵抗ひとつ見せずにその場に立ち尽くすだけだった。
そばにいる養父と養母も当然陽光の味方で、その暴行を止める気配はない。なんなら陽光と同じく嫌悪や唾棄に染まる冷たい視線を翳に向ける。
いつかこんな日が来ると翳にも覚悟はあったが、それは予想よりも早かった。
事の発端は一週間前まで遡る。
「ええー!!パパ雨ノ森様に会ったの?!ずるいずるい!行けばよかったあ!!僕も雨ノ森様に会いたい!」
ぴょんぴょんとリビングの高級ソファの上で上半身を上下に跳ねるように揺らし無邪気な声を挙げるのは陽光しかいない。
陽光の代わりに陽光を装った翳が出席したあのパーティーに憧れの雨ノ森が出席していたのを父から聞いた陽光の反応だった。
父としてはこれを機にパーティーに出席するようになってくれればいいとの言葉だったが陽光の我儘さはここでも発揮される事となる。
「そうだあ、いい事思いついちゃった。うちでパーティー開いて雨ノ森様をご招待すれば会えるじゃん!」
僕って天才!ときゃぴきゃぴはしゃぐ陽光に甘やかし上等の陽光の父はしょうがないなと笑ってその提案を受け入れた。
共に寛ぐことも許されない翳は養子とはいえ自分も御園家の一員のはずだがリビングで談笑に耽るその輪に入る事も出来ずにキッチンで陽光らが談笑のお供にするフルーツや飲み物を給仕するばかりだった。
家族を家族とも呼べない間柄の三人の会話を盗み聞きながら心の中で陽光の提案にゲンナリした。
そしてあれよあれよと言う間に一週間後、御園家の屋敷に雨ノ森を筆頭に陽光の学校の友人たちを呼んでパーティーを開催する事が決まった。
(あの人が来てしまう…)
陽光だと偽っている翳の正体に気付き、本当の名を告げる事も出来ずに別れた人。
パーティーのあった日とその翌日は休日だった。また翌日になれば陽光は学校でその愛らしい顔を余す事なく使って雨ノ森をなんとかしてパーティーに誘うだろう。
彼はあのパーティーで出会わなかった方の陽光を前にどう出るんだろう。翳の憂鬱のルーツはそこだった。
何も知らないふりをして、陽光と接触していて欲しい。万が一にも陽光に、あのパーティーに出席していたのが翳で、それが雨ノ森にバレたことが伝わった日には覚悟しているとは言えどれだけ喚き散らされ、暴行をうける事か。翳の悩みの種だ。
「…ハァ」
無意識に溢れた溜め息にはっと顔を上げるが幸いそれを聞き拾ったのはいなかったようだ。
よかったとぽつり内心でこぼした翳は最高級の苺にキウイに林檎にと、カットしたフルーツの盛り合わせをリビングで寛ぐ三人のもとに出してから、翳は夕餉の後片付けと明日の朝食の準備の為にまたキッチンへと下がった。
翳のこの家での扱いは家族というよりも家政婦のようなものだった。
食事作りから洗濯、掃除、雑用の全てをこなす。空いた時間はファッション業界で名を馳せる御園家の経営する会社の子会社の子会社の一ブランドのショップでアルバイトとして働いていた。
「今からもう楽しみぃっ」
「はは、嬉しそうだな陽光」
「本当にね。あなたの幸せが私たちの幸せよ」
愚かな血の繋がらない弟は、既に雨ノ森がパーティーへの招待を受けると思い込んでいる。翳はカチャカチャと洗い物をしながら思案した。
(雨ノ森は一度も陽光と喋った事がないと言っていた…、口振りからして陽光をなにか特別扱いしている様子も見受けられなかったし…陽光が相手にされている様子はなかった…。
そんな男がパーティーになんか来るわけない、来るわけない…)
陽光に悪態をついていたつもりの翳だったが、途中からその思考は自分に言い聞かせる為の物になっていた。
仮に来たとしても、翳はあまり公にされていない存在。
パーティーの間は広さと無理に飾ったごてごての装飾しか取り柄のないこの大きな屋敷の、物置にもならないようなたった四畳ほどの自室で待機させられる。…待機と言えば聞こえはいいがそれは数時間の監禁と変わらない。
御園家以外の人間と、ましてや見た目だけは愛らしい、麗しい陽光そっくりの正体不明の人間が接触でもした日には大問題である。一番あってはならない事だから翳は世間から切り離されるように数時間、監禁されるのだ。
願わくは、彼がこの誘いに乗らない事を祈る。
しかし翳の儚く小さな祈りは天に届くことなく、遂に時は流れ雨ノ森が出席することが決まった御園家主催のパーティーが開催される日、当日となった。
翳は使用人たちと共にパーティーの支度に大忙しだったがいざ客人が屋敷にどんどん訪れパーティーも始まると、翳は隠されるみたく自室に閉じ込められた。
時刻は夕方。眠るには早く風呂やトイレにも行けない。夕食ももちろん客人が帰るまでは食べられない。上階から聞こえてくる賑やかな声を不安な気持ちでずっと聞くことしかできなかった。そんな気を少しでも紛らわそうと陽光の学校の教材をコピーしたもので高校の勉強をする。高校には通わせてもらえていないため、翳はこうして独学でよく勉強していた。
翳はふ、と微かに触れるか触れないかくらいの柔らかい感触を唇に感じて綺麗なJカールの睫毛に縁取られたぱっちりの瞳を何度か瞬きをしてから瞼を上げた。
「…ん」
どうやら翳は勉強中に眠ってしまったらしい。右手にペンを握ったまま左腕を机において、顔の左側を枕にした腕へと預けていた。眠気眼で無意識に時計をさがす。
「おはよう、眠り姫」
「…っえ、」
驚くことに翳の視界に入ったのは時計ではなく、今日のパーティーの主賓の雨ノ森だった。パーティーに参加しているはずの雨ノ森が極自然に狭い狭い翳の部屋に我が物顔で翳が目覚めるのを待っていた。
「なっ、なっんでここに…!どどどうしてここが…!」
がたっと大きく音を立てて立ち上がり驚きと混乱を隠せない翳の口を咄嗟に雨ノ森は右手で抑え、左手で後ろの首を支えるように子供を言い聞かせるみたく、しーと小さな声で言った。
「ここを見つけるのに苦労した。けどこの隠れん坊は俺の勝ちだな」
「そんな事を言ってるんじゃ…!パーティーは?!陽光はこのこと…っあっ」
「くくっ、本当におもしろいなお前。自分で自分は陽光じゃないと自己紹介したようなもんだぞ今のは」
雨ノ森の意図を測れない上、抱きしめられているようなこの体勢。美形には毎日陽光を見ているから慣れているつもりだったが、翳の考えが甘かった。本当にかっこいい人は目の前にいるだけで胸が高揚して勝手に顔も真っ赤になって、触れられただけで心臓が破裂しそうになる。
彫刻のような完璧に整った顔を崩して人間らしい表情を浮かべる度に翳の中で沸いてくる感情は翳が今までに持ち合わせたことのないものだった。
「っ、なんでそんな、俺に執着するんですか」
「名前をまだ聞いていないからな」
「ハァ?!」
「ほら、また声が大きいぞ」
あんたがそうさせているんだと翳は吐きたくなったがこの男には通じないと早々に諦めて怒りを溜息に変えた。
「幸せが逃げるぞ、溜息を吐くと」
「あんたがそうさせてるんだよ…」
「ははっ、もう隠すのもやめたな。さあ、名前も教えてくれ。教えてくれたらさっさとパーティーに戻る」
いつのまにか翳の口を塞ぐ雨ノ森の手は翳の腰あたりに下ろされていて、完全に抱きしめられる形となった。聞けば陽光の鬱陶しい付き纏いをなんとか躱し翳を探すのに屋敷の中をかなり彷徨いたらしい。
さっさと戻らねば陽光が消えた雨ノ森を探して大騒ぎするのも時間の問題だ。
それなのに、
「…いやだ。名前は教えない」
「…なぜだ?別に俺は御園家の弱点を握るだとか陽光を脅そうだとかは考えていない」
「……それでもいやだ」
雨ノ森が翳を利用してなにか悪巧みをするような人間でないのは知り合って間も無いが翳にもうすうすと伝わってくる。
翳は単純にこの胸の中が心地良かった。
名前を教えたら、この腕から離されてしまう。
わざわざ翳の名前ひとつ知るために興味のない後輩のパーティーに参加しにやって来たこの男を、翳は手放したくないと思ったのだ。
自分の名が雨ノ森と自分を繋ぐ細い細い希望の糸となるなら、また名前を知るために探しに来てくれるなら、名前のひとつやふたつだって隠そう。
なにより、今ここで名を明かせば雨ノ森はパーティーへ、陽光の元へ戻ってしまうから。
翳は名を明かしたくない真意を今、現在進行形で自覚しながらも、それを隠した。
「…俺は、陽光だ。社交界でもみんなそう呼ぶ。あんたもそう呼んでくれ」
「違う。お前は陽光じゃない」
「違わないさ、赤の他人なのにこんなにも俺と陽光は似てる」
「似てるだけだ」
どちらも引かない問答に先に痺れを切らしたのは雨ノ森だった。
「もういい」
そう言うと雨ノ森は自分の腕の中の翳の唇に噛み付くような、しかし優しさの残るキスをした。
「?!ーん、ふぅっ」
「大人しくしろ。名前を教えてくれないなら俺も勝手にする」
超至近距離で真っ直ぐと見据えられ、腹に響くような、耳に残る色気のある声でそう囁かれれば、翳にはもう身を委ねることしかできなかった。
唇を甘噛みされ、舌に吸い付いてくる雨ノ森に魂まで吸われそうだと翳は雨ノ森の熱い体温を舌を通して感じながらぼんやり思案した。
翳も気づかないまま、雨ノ森の腰を服に皺が寄るのも構わずぎゅっと掴んだ。
夢でも見ているのか、心地良いその行為をどれくらいそうしていたか分からないほど、時間が流れた頃。
「ーーあ、あまのもり先輩…っ?一体なにして…?!」
二人の逢瀬に水を差したのは、トイレへ行くと言って姿を消してから随分と帰ってこない雨ノ森を探しに来た陽光だった。
陽光に二人はキスをしている瞬間を見られてしまったのだ。
「そんなっ、ありえない!雨ノ森先輩に…っ!!カゲ!お前が雨ノ森先輩を誑かしたんだ!最低…!最低!!」
混乱した陽光に、言い逃れのできない翳と雨ノ森。だんだんヒステリックな声をあげて、そのぷるんとしたほんのり色付く唇からこの家から出て行け、と飛び出すのはあと数分の話だった。
騒ぎを聞きつけた養父たちが翳の部屋までやって来て、感情を徐に外に出して泣き暴れる陽光を慌ただしく止めて、雨ノ森を含めた客人たちを簡単な謝罪を添えて帰す間、翳はずっと自分の唇に残る感触だけを反芻していた。