(ほんのり某魔法学校を思わせる発言あり)


「……なまえ」
「ううっ……ぐす……」

 普段は見せない呆けた顔を晒す恋人に、しくしくと泣きながらなまえは手にしていた「それ」をサッと振るった。
 かわいらしくぽかんと口を開ける恋人を見るのが、こんなド修羅場の真っ只中でなければどれだけ良かっただろう。

「うっそやろ……」

 ええー……と思わず呟いた神々廻は、現実離れした現実に目眩がしそうだった。
 目の前に広がるのは、瓦礫だった建物が時を逆行していくかのように『元通り』になっていく光景。巻き戻された建物は、あっという間に崩壊する前の――神々廻が標的と戦闘を行う直前の、風前の灯を取り戻したのだった。

 唖然としている恋人に、なまえは泣きながらも音もなく近寄って。

「ゆるじでぐだざい」

 そう言って、杖を振るった。




「うっ、ううっ……ぐす……」
「あーもう、ええ加減泣きやまんかい」
「うええん……」
「なんで更に泣いとんねん」

 涙でぐしゃぐしゃの顔をタオルで拭われるが、拭ったそばからほろほろとまた溢れ出す。「こらアカンな」と神々廻は泣きやませるのを諦めた。止めどなく流れる涙は、それだけ恋人が自分を心配している証だった。
 目元がぽってりと腫れた恋人はこの数時間でひどく窶れてしまったようにも見える。明日はきっとまぶたが重く腫れてしまうだろう。
 後で保冷剤を出してろう。そう考えながら、「そんで」と神々廻は話を切り出した。

「話を整理すると、つまりなまえは……日本の魔法学校の卒業生で、普段は一般のふりして過ごしとったわけやな?」
「はい……」

 チン、と鼻をかみ、なまえはこくりと頷く。
 ふたりは同棲しているマンションに戻ってきていた。杖を振ろうとした瞬間、瞬発的に反応した神々廻に捕獲され、そのまま帰路に着いたのである。

「で、さっき謝ったんは俺から記憶を抜き取ってオサラバしたろ思ったから、と」
「おさらばとがいわないでぇ」
「間違えたこと言ったか?」
「ちがわないけどぉ」

 そういうルールなんだから仕方ないでしょ、ふたたび泣き出したなまえは訴えた。

 なまえは日本生まれ日本育ちの純日本人であり、かつて殺し屋の集う組合で事務員をしていたごく普通の女である。
 人とすこしだけ違うところがあるとすれば、それは彼女が〈魔法使い〉であるということだろう。
 日本にある魔法学校を卒業し、なまえは杖を捨て(これは比喩であり、普段は厳重に封印措置が施されている)、一般人として暮らしながら、気づけば〈殺連〉で事務員になっていた。殺し屋の集う組合で事務員という時点で『普通』ではないのだが、魔法学校出身であるなまえは世俗にはすこしばかり疎かったのである。
 とはいえ。
 なまえは現代社会で生きると決めた身であったため、今日に至るまで魔法を使うことも、見せることもしなかった。

 ――すべては恋人を助けるためだった。

「目くらましを掛けて神々廻さんのスーツに忍ばせといた危機感知用の魔法具が初めて反応したから、わたしもうびっくりして……いてもたってもいられなくて『姿現し』しちゃったから、すぐに現場に着きまじた」
「『姿表し』?」
「一言でいうと瞬間移動魔法なんですけど、高度だから試験に受かんないと使えないでず……下手したらバラけちゃうから……」
「バラける」
「体がバラバラになります」
「こわっ」
「こわいですよね」

 わたしも久々で怖かったです。
 うなずきながら答えたなまえは、すこしだけ落ち着きを取り戻したようだった。ゴシゴシまぶたを拭う腕を、神々廻がそっと掴んで止める。

「あんま擦らんとき。これ以上ひどなったらどないするん」
「もうひどい顔だからへーきです」
「アホ、んなわけあるかい」

 やめとき、ともう一度告げられ、なまえは眉を下げて笑う。

「あのね、神々廻さん」
「ん」
「魔法使いはね、殺し屋とくっついちゃだめなんだよね」
「へえ」

 初耳である。「詳しく教えてくれるか?」と尋ねれば、なまえはこくりとうなずいた。

「神々廻さんも見ましたよね、建物が戻ってくの」
「すごかったなあ」
「あんなことできる人間がいたら、フローター要らずになっちゃいますよね」
「せやなあ」
「記憶操作もできちゃうんですよ、わたしたち」
「そうなん?」
「さっきやろうとして止めたの神々廻さんでしょ」

 だからね、となまえはつづける。

「利用されちゃうから、だめだって。捕まったら、存在がおおっぴらにバレたら、日本に暮らしてる魔法使いみんな狙われるからだめなんだって。一般人なら、カミングアウトしても受け入れてくれる人なら大丈夫だけど、殺し屋はだめなんだって、学校の頃からずっと教えられてきたんです」
「一般人ならよかったんか?」
「それか、魔法使いが『一般人』として暮らすかぎりはゆるすって」

 だけど、破っちゃったから、もうだめなんです。なまえの声は途方に暮れた幼い子供のように弱々しい。

「なんでだめなん」

 眉をひそめる神々廻に、「管理されてるから」となまえ。

「殺し屋と接点持った魔法使いは、基本的に日本の魔法省――えっと、魔法使いのための省があるんです……そこに登録されるんです。わたしは、〈殺連〉に就職した時点で登録されてて、その……」
「あー、俺と付きあっとるのもバレとるんか」
「はい……占いとかで……」
「なんでもありやな」
「だからたぶん、このままだと朝には魔法省から役人が来るので……だから……わたしからお別れしないとって……」

 そう、思って。どんどん言葉が途切れ、しおしおとした様子で肩を落としたなまえは、不安に揺れる瞳で神々廻を見る。ひどく怯えているように思えるのは気のせいではないのだろう。
 神々廻はハアと大きく息を吐いた。
 びく、となまえの肩が揺れる。

「あんなあ、俺がそれくらいでビビる思ったんか」
「思ってないですけど……」

 でも、ルール破ったから。しょげた様子で答えるなまえに、神々廻はふたたびため息をつく。

「真面目やなあ、お前。〈殺連〉のときもなんでコイツ殺し屋してんのやろとか思ったけど、ホンマに合うてへんでお前」
「そ、そこまで言わなくても……」
「てか、そのー魔法学校? 卒業してんのやったら、表向きの学歴どうなっとるん」

 神々廻の問いに、なまえは無言で目をそらす。
 あきらかにやましいことがある顔だった。「まさかお前」と神々廻はなまえを見た。

「……偽称したんか」
「…………ちょろっとだけ、〈殺連〉内部にいた同族に頼んで……」
「いや魔法使いお前だけちゃうんかい」
「誰かとは言えないけどいます。その人にちょろっと頼んで、それで事務員で就職しました」
「はー、なんとまあ」

 うなじを掻きながら、神々廻はウーンと首をかしげる。

「まあまあそっちもアングラやん、付き合えへんいうのおかしない?」
「前例があったのも大きいっていうか、なんていうか」
「前例?」
「殺し屋の恋人に利用されて、その……」
「なんや、言ってみ」
「最終的に騙されて風俗に売り飛ばされて、ブチ切れた魔法使いがその殺し屋ぶち殺して首だけ握って魔法界に戻ってきたっていう事例がありまして」
「……そらまたなんというか」

 いろいろと複雑な前例があった、というのはよくわかった。

「てかそっち殺しセーフなん?」
「や、普通にアウトです。犯罪に対する概念は一般社会とほぼ同じなので……ただその件は内情が内情だったのと、殺し屋っていう職業について魔法使い側の理解が深まったってことで保護された感じで」
「ほーん」

 なるほどなあ、と神々廻はおもむろに近くに置いておいた自身の武器を手にとった。ペン回しでもするかのように器用に武器を手で弄びはじめた恋人に、なまえは目を瞬かせる。

「ど、どしたんですか、いきなり武器手にとって」
「いや、思ったんやけどな」
「はい」
「つまり、魔法使いのお偉方は魔法使いが殺し屋に道具として利用されるのを避けるために交際禁止しとんのやろ?」
「そう、ですね」
「ん。で、なまえは俺を助けるために隠してた魔法を使うたわけやん」
「ですね」
「それで俺がなんでお前と別れなアカンねん。おかしいやろそれ。俺が殺し屋やから魔法使いのお前いいように使うとでも思われとるんか?」
「……ぜ、前例があるので」
「前例と俺らのは内容がちゃうやろ内容が」

 なぜだか雲行きが怪しくなってきた。つらつらと喋るうちに、気のせいか神々廻の目が据わっていってる気がする。ゾワ、となまえの背筋に冷たいものが駆け抜ける。

「し、ししばさん……」
「お前見とるかぎり、魔法使い言うてもそんな身体能力良いわけとちゃうみたいやし? 魔法使える以外は普通の人間と変わらへんみたいやし? そんなら話は早いわ」
「し、ししばさーん……?」

 くるくる回していたネイルハンマーをぴたりと握った神々廻は、ニッと笑う。

「そんならまあ、役人来たら『お話』したらええやんな?」
「ヒエ……」

 完全に『殺る』目をしている。
 ダラダラと流れる冷や汗をそのままに、なまえは片手――神々廻に未だに握りしめられたままの手を見つめた。
 泣いているときから握られた手は一度も離される様子はなく、心なしか力が増している気すらする。

「なまえ」

 名を呼ばれ、なまえは視線を恋人へ戻す。

「安心し、俺が別れんでもええようにしたるから」

 何人か脳漿ぶち撒けさせたらええやろ。楽しげな声でそう言う恋人は、熱っぽい目でなまえを見る。

「せやから、もう泣いたりせんでええよ」
「し、しば……さん……」
「あーあー、また泣いとるやん。あとで目ぇ冷やしたろな、もう泣かんとき」

 どこか嬉しそうな恋人に、これはあなたが怖くて泣いたのだと到底言える空気ではない。
 想像していた以上に、殺し屋という職業の男はぶっ飛んでいるらしい。
 願わくば、どうか死人が出ませんように――なまえはそう祈るばかりだった。


20221101