携帯の画面がチカチカと光ったのに気づいたのは、本格的な眠りにつく少し前のことだった。

(こんな時間に、誰……?)

 暗闇の中、点滅する光は眠気を飛ばすのには十分すぎた。消した明かりをつけ直して時計を確認すれば、電話には少し遅い時間帯で。不思議に思いつつも、なまえは点滅のやまない携帯を手に取った。
 こんな夜更けに電話してくる相手なんて居たかな――そう考えながら、画面のロックを外す。
 ピコン、とアプリの画面が現れる。

「え」

 表示されていた名前に、眠気に塗れていた脳が一気に覚醒するのがわかった。マナーモードを解除すると、独特な着信音が部屋に響く。夢ではない。幾度目かのコール音で、なまえは慌てて電話を取った。

「っ、も、もしもし!」
『お〜、なまえちゃん?』

 間延びしたような声に、自然と口元が緩む。はい、と返せば、「遅くにごめんな」と、ずっと聞きたかった声が届いた。ドクドク脈打つ心臓を感じながら、溢れ出る喜びを押し殺す。なまえは努めて冷静に応えた。

「こんばんは、夏生さん」
『悪い、寝てた?』

 電話を掛けてきたのは、今は遠距離になっている恋人だった。声が上擦らないように気をつけながら、なまえはいいえ、と明るい声で返す。

「わ、私はぜんぜん大丈夫です! 夏生さん大丈夫なんですか? 学校、もう始まってるんですよね?」
『ま〜な。つっても、別に電話できないくらい忙しいわけじゃないし』
「そう、なんですか……」

 彼――勢羽夏生という青年と出会ったのは、なまえがまだ学生の頃だ。
 彼が働いていたクレープ店に訪れ、客と店員という形で出会い、あれよこれよという間に、気づけば交際が始まっていた。なまえにとって生まれて初めての『恋愛』は、想像していたよりも満たされるもので溢れていた。
 なまえは石橋を叩き割りかねないほど丁寧に距離を縮めていくつもりだったのだが、マイペースなきらいのある恋人は、時になまえを振りまわしながら、あっという間に距離を詰めていった。その鮮やかな手腕に慄きつつも、春から社会人になったなまえにとって、恋人は今やなくてはならない心の支えだ。

「夏生さん、弟さん入学したんですよね?」
『ん。でも学科違ぇからなかなか会えなくってさー、電話しても無視されるし』
「そういう年頃なんですよ」

 恋人は、なまえが社会人になると同時期に復学した。
 詳しい事情は知らないが、彼の通う学校は人里離れたところにあるらしく、前のように道端で会うようなことはなくなってしまったのは確かだ。
 けれどこうして、ふとした時に掛かってくる電話がなまえの心を穏やかにさせる。所属している学科がいわゆる工業高校に近いようで、身近にそこまで異性かいないというのもあるだろう。電話越し、たまに聞こえる声は野太い男のものばかりだ。

『そういうもんかね』
「そういうものですよ、きっと。弟さん……真冬くんでしたっけ。年齢的に多感な頃でしょうから」
『ま、難しい性格してるしな』

 そう言いつつも声色は穏やかだ。「そうですよ」となまえも相槌を打つ。
 なまえの恋人は家族を――特に弟を大切にしているようで、断片的に聞く話からも、不器用ながらに大切に思っていることがよくわかる。
 そういうところも、彼を好きになった理由のひとつだ。

『あ〜……つーかさ』
「はい?」
『なまえちゃん、また敬語になってんじゃん。俺ふつうにタメでいいって言ったのに』
「あっ」

 そう言われれば、と思わず口元を手で塞ぐ。
 付き合ってからしばらく――呼び方を名字の「勢羽さん」から「夏生さん」に変える際に、口調も普通でいいとねだられたのだった。確かめてはいないけれど、年齢もほぼ同年代なのだろう。
 恋人は謎めいたところも多くあって、けれどなまえはそれを苦痛には思わなかった。

「ご、ごめんなさい。会社でもこの口調が多いので、つい……」
『社会人だもんな〜、でも俺はなまえちゃんにタメで話して貰えんの好き』
「が、頑張ります……じゃない、がんばる、ね」
『ん。がんばれ』

 ふんふんと意気込みを伝えると、笑い混じりの返事の声。きっと目を細めて笑っているのだろうな――そう考えたら、きゅんと胸がときめいた。
 人知れず頬を染めるなまえに、ああ、と前置きして、恋人は言った。

『そういや、髪染めたんだな』
「え?」
『いいな、その色。黒髪も似合ってたけど』
「あ、ああ……えと、社会人デビューしたので、ちょっと垢抜けチャレンジしよっかなー、なんて」

 大学に進まず社会人になる道を選んだなまえは、コツコツと自分磨きをするのにハマっていた。余裕が出来たからというのもあるが、遠くにいる恋人と再会したとき、あわよくば恋人に惚れ直してもらいたいという下心も、もちろんある。

「似合うって言ってもらえて、うれしいな」
『ん。次会うときに似合う髪留め持ってくから、伸ばして待ってて』
「そんな、気にしなくていいのに」
『いいんだよ、俺がしたくてやってんだから……それとも、なまえちゃんには迷惑だった?』
「ま、まさか! ちがうちがう、ただ、私は夏生さんと会えるだけで嬉しいから……」
『……』
「だからその、無理にプレゼントとか、そういうのは……」
『別に無理はしてねーから、受け取ってくれたらいいよ。あと身につけてほしい』
「そ、それはもちろん」

 しばしば恋人はなまえに様々なものを与えてくれる。
 なまえはどうにもそれに慣れることができず、与えられるのは『似合いそうだから』と買ってきたという髪飾りや、手先の器用な彼が作ったという防犯用グッズが多い。
 実用性のあるそれらはなまえにとって欠かさず身につけているお守りだ。それだけでも十分すぎるほどなのに、恋人はまだ足りないと思っているらしい。
 歴代の彼女がそういうタイプだったのかもしれない。そう考えると、もやっと少し胸がざわつく。

『なまえちゃん』
「っはい!?」
『はは、声裏返ってる』
「わ、笑わないで……」

 醜態を晒したのが恥ずかしくて顔が熱い。片手でパタパタと仰ぎ、なまえはくちびるを尖らせた。

「うー……夏生さんエスパーかなにかだったりする?」
『ンなわけ。エスパーだったらもっと会いに行ってるし』
「瞬間移動で?」
『そ。秒でそっちの部屋行くし、休みとかずっと入り浸ってる』
「あはは、やだなあ、それ」
『は〜? なんで?』
「はずかしいから」
『なにが?』
「え、ええ〜……すっぴん見られるのとか?」
『……』
「え、え、夏生さん? おーい」

 沈黙した電話口に、何か変なこと言ったかしらとなまえは首をかしげた。
 恋人とは専らデートや下校時など、外で会うことばかりで、家に招いたりしたことは一度もない。なまえが社会人になってからは、彼が復学したことでその機会もなくなってしまった。
 だから、すっぴんや寝ているところなんて見せたことがないのである。そういう時が来たら、それはもちろん嬉しいけれど、すこしばかり恥ずかしさがあるのも事実だ。

『あ〜……なまえちゃん』
「う、うん?」
『その部屋って男立ち入り禁止だっけ? 社宅だったろ』
「いや、大丈夫だと思う……社宅っていっても基本ふつうのとこだから」
『ふうん……じゃ、近々部屋行かせてもらうから、ちゃんと『準備』しとけよ〜』
「わ、かった……」

 準備――それはつまりたぶんきっと、心の準備とかだけではないのだろう。キスまではしたことがあるけれど、それ以上はまだだから。自然と、空いている手が自分の唇に触れる。

『っと、もう遅いし、今日はこれくらいでやめとくか。じゃ、またな。おやすみ』
「うん、また。おやすみなさい」

 終わりは突然やってくる。あっさりとしたそれに名残惜しさを感じながら電話を切って、ほっと一息ついて。

「……あ」

 なまえはようやっと、喉に引っかかっていた違和感に気がついた。

「夏生さん、なんで私が髪を染めたって知ってたんだろ」

 髪を染めたのは彼が復学した後だったので、知っているはずがないのだが――そこまで考えたところで、ピロンと通知音が鳴る。

(誰……?)

 確認のために画面を見たなまえは、表示されたメッセージに固まった。

『言い忘れてたけど、今度会いに行くから、そのときは新しいワンピースも見せて』

 ワンピース。この前の休日に背伸びをして購入した、ちょっとお高めのかわいい逸品である。
 当然ながら、そのとき恋人は居なかった。知っているはずがない、のだが――

「……寝よ」

 これ以上は考えない方がいい気がする。
 オーケー代わりのスタンプをひとつ返し、なまえは布団に潜り、部屋の電気を落とした。

20221109