ふとした瞬間、無性にひとつのことに熱中したくなるときがある。

「……やっちゃった」

 ダイニングテーブルに所狭しと並べられた料理の数々。それと向かい合いながら、わたしは文字通り頭を抱えていた。
 今日は無性に作りたくなってしまう日だった。
 ひとつ凝り始めたら、ねずみ算式にあれもこれもと継ぎ足して作り続けたせいで、わたしは今こうして達成感の代償を支払わなければならなくなっている。おかげさまで冷蔵庫の中はスッカラカン、余った食材まできれいに片すことができたのはよかったけれど、どこからどう見てもひとり暮らしの女が食べられる飯の量ではない。

「どうしよ……日持ちするもの除いても食べきれない」

 いくつかは既にタッパーに入れて冷蔵庫に常備菜として格納してあるが、それでも余りが出てしまっている。せっかく作ったご飯を残したり捨てたりするなど論外中の論外、お残しなんて許されない。かといって、誰かにお裾分けをできるほど親しい人は近所には居ない。はあ、と息を吐く。

「……詰んだ〜」

 実家で暮らしている頃、料理はひとりで食べるものではなくみんなで食べるものだった。今のように作りすぎたとしても、家族の食事の次のおかずに加わってすっきり完食されていた。
 ゆえに、わたしはどうにも「ひとりぶん」の量の食事を作るのが苦手だった。それが災いし、今までも作りすぎたことは何度かあったのだが――

「わ、なになに? 今日ってパーティーかなにかやるの?」

 唐突に、背後から声が聞こえた。
「きゃあ!?」飛び上がって悲鳴をあげたわたしに、背後の声の主――いつの間にか目の前に移動していたその人は、数度目を瞬かせて、それからにんまりと笑みを浮かべる。

「ダメじゃん油断しちゃ〜、僕じゃなかったら死んでたよ?」
「な、な、なぐ、なぐもさ」
「来ちゃった♡」

 そう言いながら、羽織っていたであろうキャメル色のコートを慣れた様子でハンガーに掛ける大きな後ろ姿。一応、見慣れてきたはずなのに、わたしの心臓はバクバクと激しく高鳴る。

「び……び、びっくりしたあ」
「え〜、そう? 普通に入ってきたんだけどなあ」

 ところで、と南雲さんはもう一度笑顔でわたしに訊ねた。

「これ、どうしたの?」

 指さしたのは、もちろんわたしの作りすぎた料理の数々である。



「――と、そういうわけでして……」

 気恥しさに苛まれながら、わたしはもにょもにょと彼に説明する。たまにやってしまう癖で、今回は料理という方向性で発散されてしまったこと、冷蔵庫の中身をすっきり使い切ったこと、ひとりじゃ到底食べきれない量に途方に暮れていたこと。
 ひととおり聞いた彼は、アハハと長い身体を折り曲げてくつくつ笑った。

「なるほどねー、それでなまえちゃん頭抱えてたんだ」
「そのとおりです……」

 全くもって返す言葉もない。暑くなった顔を手で仰ぎながら頷いたわたしに、ひとしきり笑った南雲さんが言った。

「じゃ、これ僕が食べてもいいんだ?」
「え?」

 思いがけない言葉に、わたしは暫し南雲さんを見つめる。「あれ、違った?」そう首を傾げた彼に慌てて首を振る。

「その、えっと、食べてもらえるのなら、ぜひお願いしたいですけど……お口に合うかわからないし」
「僕、好き嫌いとかないよ〜。なまえちゃんの作るご飯、一回食べてみたかったんだよね」
「えぇ……?」

 彼の言葉に、わたしはひどく困惑していた。わたしよりもよほど稼いでるであろう南雲さんなら、いくらでも美味しいものを食べる機会があっただろうに。
 だというのに、それでもわたしの拙い手料理を食べたいと彼は言う。
 とても不思議な気分だった。
 ――けれど、それを嫌だな、とは思わなかった。
 わたしは努めて冷静に彼に言った。

「……お口に合わなくても、怒らないでくださいね」
「怒んないよ、僕から食べたいって言ったんだし」

 だから、と南雲さんは目を細める。

「食べさせてよ、君の作った料理」
「……少しだけ待ってください」

 もちろん。そう言ってにっこり笑った彼の顔を、わたしは直視出来なかった。


「美味しいね〜」
「ほ、ほんとうに?」
「ほんとほんと〜、僕この煮物好きかも。なまえちゃんの味って感じがする〜」

 にこにこ笑いながら、南雲さんは大根の煮物を口に放り込んだ。
 彼は驚くほどに食べっぷりがよかった。冷静に考えてみれば、そもそも彼の仕事柄、自分の体が資本なのだろうから必要に応じて食事を摂るのは当たり前のことだ。まして南雲さんは一八〇はゆうに超える長身だし、食べっぷりがよくてもおかしくない――それでも驚いてしまう自分がいた。

「お腹いっぱいになったら、無理せずごちそうさましてくださいね」
「うん」

 わたしの言葉に頷きつつ、今度はお手製のポテトサラダをひとくち。「これもおいしい」と言いながら、あんなにたくさんあった料理たちが流れるように空になっていく。
 わたしも一応食べてはいるのだけれど、正直見ているだけでお腹いっぱいになりそうだった。小皿に盛ったサラスパを頬張り、無心で咀嚼する。緩みそうになる顔を隠すためだった。

「君って料理上手なんだね」
「そうですか? 人並み、だと思いますけど……」

 料理上手と聞いて思い出すのは、いつも母の姿だった。記憶の中にある母の料理と比べたら、わたしの作るものなどまだまだ未熟に思えてしまう。

「お母さんは、もっといろいろ作ってました。わたしじゃあんなに作れないです」
「ふうん。じゃ、なまえちゃんの味覚はお母さん譲りってことだね〜」
「そうかもしれません。あまり外食しない家だったし……」

 お母さんの作るご飯はいつもどこか安心する味だった。学生時代は調理を手伝ったり、たまに家族の食事を作っていたこともあってレパートリーはそれなりにある方なのかもしれない。

「でも、やっぱり簡単なのしか作れないですよ? それに、何を作ってもお母さんのほうがおいしかったな、くらいにしか思えなくて……」

 ひとり暮らしを始めてから、わたしは最低限の食事も摂らないこともあるような乱れた生活を送っていた。ひとりだとどうにも作る気力がなくて、適当に済ませてしまうのだ。
 何より、わたし一人のぶんなら適当にスーパーや商店街で適当に買えば事足りてしまう。
 だから、こんなに作ったのは本当に久々だった。まして誰かと話しながら食事をするなんて何年ぶりだろう。

「……誰かと話しながら食べるご飯、久しぶり」
「実家に帰ったりしないの?」
「あまり。離れてるのもありますけど、特別帰りたいとは思えなくて……親不孝なことですけど」

 そのぶん、連絡やちょっとした贈り物は欠かしていないし、兄弟が仕事などで近くに来たときは一緒に食事をすることもある。
 いずれ両親に家に泊まりに来て欲しいとは思うけれど、二人ともまだまだ現役だから、しばらくはそういうことも無いだろう。離れて暮らすわたしは、有事の際にある程度出せる資金力があればいい。それくらいにしか思っていない。

「今じゃここでの暮らしにすっかり馴染んでしまって……」
「そっか〜。ま、いいんじゃない? 僕はそういうのよくわかんないけど、君がここに居てくれたらいつでも会いに来れるし」

 ぴた、と箸が止まる。思わずまじまじと顔を見つめると、南雲さんが顔を上げてわたしを見た。

「どしたの? そんなに熱い視線貰っちゃったらドキドキしちゃうな〜」
「……南雲さん、わたしに会いたくてわざわざ来てくれてるんですか?」
「うん。言ってなかったっけ〜?」
「聞いてないですね……てっきり坂本商店に行ったついでかと」

 不定期に訪れる南雲さんを、わたしは今回も坂本さんに会いに行ったんだなあとしか思っていなかった。
 彼は一般人になってもなにかとトラブルに巻き込まれている坂本さんを気にしているようだったから。親友というやつなんだなあ、としみじみと思っていたのだ。
 わたしの問いかけにあっさりと頷き、それがどうしたのかと首を傾げてみせた彼に、わたしは視線をうろうろさまよわせる。

「なまえちゃんそんなふうに思ってたの?」
「はい」
「僕、好きな子には結構一途なんだけどなー」
「はあ……」

 そうなんですか、と相づちを打ちながら食事を再開する。視線は作りすぎたご飯たちに向けて、けして彼を見ないように。
 もぐもぐ無言で咀嚼するわたしに、南雲さんはふと、ねえなまえちゃん、とわたしを呼んだ。

「口元、緩んでるよ」

 彼はにんまりと嬉しそうな顔をしていた。わたしはその言葉に返すことなく、もうひとくち追加で口に入れる。

「あ、誤魔化そうとしてる」
「……冷めちゃいますよ」
「大丈夫大丈夫、冷めてもなまえちゃんのご飯はおいしいから」
「…………」
「照れてる〜」

 ニコニコ笑う彼をじろりと睨めつけるも、何処吹く風と言わんばかりに真っ黒な瞳がわたしを射貫く。じりじりと焦げつきそうなそれに、わたしは為す術なく。

「……好物、あったら教えてくださいね」
「ん? ぼくの?」
「そうです。教えてくれたら、それをいっとううまく作れるように頑張るので」

 嗚呼、とわたしは心の中で嘆く。
 こういうときにうまく返せるように、学生時代に人並みに恋愛しておけばよかった。
 彼の言葉によろこびを感じてしまう自分に、幼い少女のように胸をときめかせてしまう自分に呆れながら、火照る頬に知らないふりをして、わたしはまたひとくちおかずを頬張った。

20221204