インターホンを鳴らすと、ドア越しに声が聞こえる。開けられた扉に招かれて、私は足を踏み入れた。

「よく来たね」
「お久しぶりです、遥斗さん」

 挨拶を交わしながら頭を撫でられる。「久しぶりに休日が取れたんだ」――そう電話越しに告げた遥斗さんに誘われて、私は今、彼が住んでいるマンションに遊びに来ていた。それっぽく言うとすれば、“お家デート”というやつである。
 デート、と言っても特別何かする訳ではなくて、テレビで再放送されてる番組を観たりしながらお互いに会えなかった間の出来事を話すのが専らだ。芸能人で人気俳優の遥斗さんとは、普通のカップルのように外でデートするのは難しいのである。こういう時、自分がそういった恋人らしい行為を強く望む性格でなかったことにひどく安心する。
 私は、少しでも遥斗さんと会って話ができるこの時間がとても好きだった。



「――で、友達が見事に賭けに勝ったんです!」
「ははっ、それ、実際に見てみたかったなあ。楽しかっただろう?」

 そう問われて、首を縦に振る。話すだけで胸の中にあのわくわくが蘇る。

「はい、とっても楽しかったです! でもその後通りすがった三年の先輩に顔面鷲掴みにされてて……こう、地面から浮いてる人初めて見ました」
「なまえの学校は随分愉快な人が多いんだなぁ」
「そうですか? 割と、普通な方だと思うんです、けど……」

 遥斗さんはどんな話でも楽しそうに聞いてくれる。そのせいか私も自然と話がするすると口から出てきてしまって、毎回毎回、話そうと考えていたことより多くのことを喋ってしまうのだ。時々、そうなるよう誘導されているのではと思ってしまうほどに。

「なまえ」

 甘い声で名前を呼ばれて、自然と近くなる距離に気付いた。手を腰に回され、気づけば目の前は彼でいっぱいになって――キスをされたのだと気付いたのは、その数秒後だった。

「……は、遥斗さん」
「ごめん、したくなっちゃって」

 照れたように笑って返された言葉に、私は口を噤むことしか出来ない。
 誰だって、普段は大人びた表情を浮かべている人がどこか幼さを感じるような笑みを見せてきたら言葉だって出なくなる。遥斗さんは時々こういうことを突拍子もなく始めてしまうから、私の心臓はいつもドキドキさせられてばかりだ。

「……遥斗さんって、実は結構すけべですよね」

 二回目のキスを防ぐために口元を片手で覆って、じとりと視線を向ける。遥斗さんはきょとんとした顔をして、それからおかしそうに、でも何故か、少しだけ嬉しそうな笑みを浮かべた。

「すけべなんて言われたのは初めてだなぁ」
「……なんか、嬉しそうですね」
「そう?」

 私の発言は、彼のなかにある何かしらのツボにヒットしてしまったらしい。遥斗さんの声は完全に面白がってる声色だとすぐに分かった。悲しいかな、表現力豊かな彼とは違って、私の拙い語彙力では怒ってもこんなことしか言えない。悔しいことに、そこまで人生経験が豊富ではないのだ。

 なんだかちょっとだけ難しい気持ちになる。拗ねている、と表現すべきなのだろうか。むう、と心の中で唸りながら、私の髪を梳くように撫でる遥斗さんを見つめる。
 此方を見る瞳は穏やかな色を見せていて、こうしていると妹かなにかのように扱われているのではと思えてしまうけれど、ちゃんと「恋人」として扱ってもらっているのだと知ったのは何時だっただろうか。少しだけ頭を捻ると、脳裏にそれらしい記憶が浮かび上がってきた。

「……あ」

 確か、付き合いだして間もない頃。恋人になったのに妹扱いされてる気がした私は、思ったことをそのまま口にして、“すごいこと”をされてしまったのだ。口にだすのも憚れるくらい――一気に大人の階段を駆け上がってしまったような気持ちになるような、熱烈なキスを。
 思い出したら、またドキドキしてきた。思えば、そのキス以来、遥斗さんがキスをする度、なんだかすけべ……というか、えっちだな、と思うのだ。私が異性を遥斗さん以外に知らないからかもしれないけれど、それでもすごく、ドキドキしてしまう。

「なまえ、顔、赤いよ」
「き、気にしないでください」
「何か思い出した? ……俺にキスされた時のこととか」
「遥斗さんっ!」
「ははっ」

 お見通しだ。完全に見抜かれている。ぺしぺしと遥斗さんの胸板を軽く叩きながら怒りの抗議すると、頭上から軽やかな笑い声が降り注ぐ。羞恥と思い出したことによって顔は既に放熱状態だ。

「からかわないでくださいよ……」
「ごめんごめん、なまえは気持ちが顔に出やすいから、つい、ね」
「うう……」
「もうからかわないから、怒らないでくれ」

 ほら、おいで。その言葉と共に促されて、彼の膝の上に乗せられる。さっきまでは隣に座っているだけだったので顔を見ずに済んだけれど、この体勢だと顔を合わせることは避けられない。いつ見ても遥斗さんの整った顔は、私には刺激が強すぎる。近くに居るというだけで、心臓が爆発してしまいそうなのに。

「俺を見て。なまえの顔が見たい」
「……からかっちゃ嫌ですよ」
「ああ、勿論。もう嫌がることはしないよ」

 顔が近くなって、こつんと額同士をくっつけられて、目を合わせる。
 彼の瞳には、私はどういう風に映っているのだろうか。少なくとも私には、見つめていると吸い込まれそうな澄んだ色の瞳しか見えない。そのまま頭を撫でられて、心地よさに目を細める。これだけで、私の中に渦巻いていたもやもやが消えていく。遥斗さんは、私よりも私の扱い方を十分に心得ていた。

「君は恥ずかしがり屋だから、こういう体勢になるとどうしても目を逸らそうとするだろう?」
「……否定は、しません」
「素直だね。だから俺も、ついこっちを見て欲しくて手が伸びちゃうんだ」
「で、でも、からかわれるのは本当に嫌だから……その、」
「ああ、もうしないよ。だから、できるだけ俺を見ていて。過去の俺より、今、君の目の前に居る俺を見て欲しい」

 ――過去を思い出す暇も無い程、なまえの中に俺を刻み込みたいんだ。
 遥斗さんは穏やかな表情で喋りながら、するすると私の体をなぞっていく。大きな手が、頭から肩、腰からおしりの方へとじわじわ下がってきて、太腿をするりと撫でられた時、背中が粟立つような、ゾクゾクとした感覚に襲われる。
 本人にとっては単純に触れ合っているだけ――彼なりの愛情表現の一つのようだけれど、その手つきはどこか色っぽくて、目には熱が籠っている気がして、私にその行為は、まだ早い気がして。

「遥斗さん、この体勢だと、いつもこういうことする……」
「こういうことって? 具体的に教えて?」
「いじわる!」

 微笑みを浮かべながら楽しそうに体を撫でる姿も、もうしないと言ったのに、少しだけからかいの混じった言葉もなにもかも、遥斗さんの一挙一動はどんなことでも様になってるからずるい。きっと私の気持ちなんてなにもかも分かりきった上でこんなことをしているのだ。間違いなく確信犯である。
 付き合い始める前は『昔から知ってる優しいお兄さん』という側面が強かったけれど、付き合いだしてからは家族愛の深い彼の溢れんばかりの愛情は私にも向けられるようになった。幼少からの付き合いで何となく愛情深い人という認識はあったけれど、実際にそれを自分に向けられてしまうと彼の愛はとても大きくて、受け入れるので精一杯になってしまう。彼から貰ったように、少しでも「好き」という気持ちを伝えられたら一番いいのだけれど、中々伝えられないのが現状だった。
 海斗くん曰く「ミュージカル一筋で兄さんが女性と付き合ってる姿を見た記憶は無い」らしいし、遥斗さんのお友達の魚住さんには、「はるは手加減を知らないから、無理なら無理とちゃんと伝えろよ」と心配された程だ。それを聞いた遥斗さんは酷いなぁと朗らかに笑っていた記憶がある。

 「好き」と言われるのは、「嫌い」と言われることより嬉しい。
 だけど、「好き」を過剰摂取してしまったら、弱い私の心はきっとすぐに陥落してしまう。だから彼の愛情に甘えすぎて堕落することのないように、ちゃんと遥斗さんの隣に立っていられるように、少しずつだけれど努力しようと心掛けている。


「ね、いいだろう?」
「……その顔、ずるいですよ」

 観念したような私の声色に気付いたのか、まるで子供みたいに満足げな笑みを浮かべて、遥斗さんは「なまえはやっぱりこの顔に弱いなぁ」と呟いた。完全に確信犯だった。
 膝の上からソファに誘導されて、そのまま押し倒される。ぐずぐずに溶かされるような甘い言葉が耳のなかを通りすぎていくのを感じながら、最後の抵抗でするすると伸びてきた手に履いていたスカートが捲られないように押さえて、圧倒的主導権を握る彼を見つめる。

「す、スカート、捲らないでください」
「なまえ」

 切なげな声色で私の名前を呼びながら内腿をなぞられて、変な声が出そうになるのを唇を噛んで耐える。声を出すと彼は嬉しそうにするけれど、私は顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。絶対に声は出さない、と必死に自分に言い聞かせる。

 口を閉ざした私を暫し見つめた遥斗さんは、少しだけ思案げな顔を見せて、徐に私の片脚を持ち上げた。「えっ」思わず声を漏らした私に目もくれず、遥斗さんは脚を自分の肩に掛け、そのまま内腿にわざとらしく音を立てながらキスをし始める。突然のその行動に完全にフリーズして、頭も体も動かない。一体、何が起きているのだろう。
 それを見つめているうち、数度、内腿に小さな痛みが走った。ハッとなって、ようやく意識が現実に戻る。

「なにを、な、なに、して……!」

 なにしてるんですかと言う言葉は、顔を上げた彼の瞳に射抜かれて形にならない。
 スカートを押さえているせいで、顔を真っ赤にして呆けた表情の私の姿は彼によく見えることだろう。内腿に残された赤い跡に気付いてない訳ではない。けれど視線は目の前の彼に釘付け状態で、目を逸らせない。彼は口元に弧を描いて美しい笑みを浮かべているけれど、目は普段から私に見せてくれる、あの慈愛や温かな愛情の含まれたものではなくて。
 例えるならこれは、狩人のような――獲物を定めた、ギラついた瞳だ。

「大丈夫だよ、怖くない」
「だ、だってっ」
「何も心配しないで。優しくするし、ただ、受け入れて欲しい」

 言外に、「けして逃がさない」と言われていることに気づけないほど馬鹿では無い。彼の口から紡がれる甘い言葉、体を愛撫する手つき、浮かべている表情、その全てで分かってしまう。理解してしまう。じわじわと熱を持ち始めた体は、既に目の前のこの人を求めている。有り体に言ってしまえば、私は既に飼いならされてしまっているのだろう。躾、調教? ……上手い例えが思いつかない。
 私にとって初めての恋人で、現状、「別れる」という選択肢は目の前に無い。それどころか、どう考えても彼の居ない未来が思いつかない私は、強がってどんなことを言ったとしても、奥底ではきっと彼の愛にとうの昔に溺れてしまっているのだろう。

「好きだよ、なまえ」
「……すき。私も、遥斗さんのこと、すき」

「ありがとう。嬉しいよ――世界で一番愛してる」

 音を立てながら、もう一度腿に赤い華が残される。ゾワゾワと背筋に走るものは快感だと本能が告げる。箍は既に外れていた。伸ばされた腕を受け入れて、彼の首に手を回す。
 口づけしてしまえば、そこからはもう、彼の支配下だ。


20170909 執筆 →20230903 再録
2017年に開催されたスタミュ夢webアンソロジー企画「KISS × STAR」様に提出したものです。
担当したテーマは「月皇遥斗」「腿(支配)」でした。