そもそもの話、わたしという人間は社会の云う『一般人』というものさしから少しばかり外れてしまった側の人間であった――つまらないことを思い出してしまった。そんな昼下がりの街角。
 珍しく「デートしよう」という彼の誘いに頷いてしまったのがいけなかったのかもしれない。普段しないことをしたら、明日は槍が降るかもと思ってしまうというが、まさか当日に槍が降ってくるとは。
 目の前にいたはずの物騒な男性が一瞬にして消え失せる様を眺めていたわたしに、これ以上は見せたくないとでもいわんばかりに目の前に立っていた恋人は、じいっとこちらを見つめ、わたしに合わせて背を屈める。

「なまえちゃん、一般人のわりにあんまり怖がらないよね〜」
「……怖がってますが?」
「え〜、そう? 悲鳴とかあげないじゃん」

 僕はそっちのほうが助かるけどさあ。そう話す彼のくりくりとした瞳に映るわたしは、なんとも言えない表情を浮かべている。『どう答えればいいのかわかりません』とひと目でわかってしまうような顔だ。
 言葉を扱う仕事をしているというのに恥ずかしい限りだが、わたしは仕事以外の、ことおいて自分の感情を言葉にして伝えるという行為がとても苦手だった。文字にして連ねるのは比較的好きなのだが、これをいざ声に乗せて外部へと届けようとすると、わたしの心臓は鉛でも取り付けられたかのように重く重く沈んでいくのだった。

「悲鳴、あげたほうがいいですか」
「『一般人』ならそういう反応のほうがいいかもね〜。あんまり手慣れてそうな顔してると此方側の人間じゃないかって一瞬疑っちゃうかも」
「……なるほど」

 それは困るな、と素直に思う。
 わたしは身を守る術を持たない一般人なので、たとえ相手が恋人より弱いと云われても一瞬で始末されてしまうだろう。毎日のように痴情のもつれだ親族関係のトラブルだなどで人が人を殺してしまう社会で息をひそめるようにして生きているというのに。些細な反応ひとつで怪しまれ、付け込まれ、踏み躙られるような目に遭うのはごめんだ。

「南雲さん」
「なに〜?」
「うちにかえりたいです」

 自分より頭ひとつぶん以上の高さがある背に伝える。わたしの体を包み込んでしまえるほどに大きな肉体を持つ彼は、肉体にそぐわないあどけなさの残る可愛らしい顔で、「怖くなっちゃった?」と首を傾げる。

「南雲さん」
「な〜に?」
「さっき、わたしにあんまり怖がらないねって言ってましたけど、間違いがあります」

 ぷらぷらと手持ち無沙汰な恋人の指先を、ぎゅうと掴んで引っ張った。

「怖がらないんじゃないんですよ。怖すぎて声が出せない人も世の中にはいます」

 それもご存知の上で言ったのでしょうけど。そう付け加えて、少しだけムッとした表情を作る。不服ですと言わんばかりの顔を。驚いたように目を瞠る彼に、わたしは握った部分を仰々しく提示してみせる。

「ごらんなさい、この全力で握ってるのにまったく力の入ってない手を」
「びっ……くりするくらい弱いね」
「わたしは声に出ないけど割と体に出るタイプなんです。海外の映画みたいに絹を裂くような悲鳴は出せません。わたしはスリラー映画で悲鳴を上げることもできず音もなく始末されるタイプの人間です」
「それ胸張って言うことじゃないでしょ〜」
「張れるものが胸しかないもので」
「確かになまえちゃんの胸はとてもご立派だけど」
「セクハラやめてください」

 まじまじと手を見つめる彼に、ふふんと胸を張るわたし。握った手は小刻みに震えている。顔に出ないだけで、本当に顔に出てくれないだけで、表情筋が仕事を放棄しているだけで、わたしだって恐怖を感じていないわけではないのだと証明する。

「これで証明できましたか」
「何を?」
「わたしもちゃんと『こわい』って感じてるってこと」

 ぱちぱちと瞬きをした彼に、「あと勘違いしないでほしいんですけど」と付け加える。

「わたしはまあまあ社会不適合者の類なのでこれですけど、普通の人はもっとちゃんと悲鳴あげたりしますからね」

 そもそも、まともな人間が殺し屋と付き合うものか。昼下がりの街角で、うららかな日差しにそぐわない血の海が目の前に広がっていたとして、顔に出さずにぼんやりとしていられるものか。そんなわけないだろう。
 この先わたしと別れることがあったとして、一般人の女はこうだと勘違いしてまた一般人の女を好きになって、価値観の相違で彼が傷ついたりするのは嫌なのではっきり伝えておく。

「なまえちゃんが社会不適合者は無いでしょ」
「根っこの部分の話です。最低限交渉ができないと、ちゃんと生きてけないでしょう」

 逃げるようにして町を出て、ずっとずっと息を潜めるようにして生きていた。
 中学、高校と文芸部だったのもあって、バイトの片手間にちまちまと文字を綴っていたら拾ってもらえた。応募したコンテストでちょっとだけ爪痕を残せた。失うものがない人間だったから、縋るようにしてそこから販路を広げていっただけだ。ひとりで生きていけるように自分をプロデュースしてきただけだ。コミュニケーションが取れなければ生きていないから、必死で顔色を窺ってきただけだ。
 端的に言うと、他人に裂けるほどの余裕をわたしは持ち合わせていなかった。それは彼と「恋人」という一線を超えた関係となった今でも変わったわけではなく。

「南雲さんに何かあったら、きっとわたし、普通の人みたいに泣いたりします」
「物騒なこと言うなあ」

 半目になる彼とは対照的に、わたしは口元に笑みを作った。

「それだけあなたが好きだってことですよ」

 あなたが簡単に死なない人でよかった。誰かを殺めてでも飄々として生きていてくれる人でよかった。古今東西、仕事なら様々なところへ行く人でよかった。
 普通の人だったら、わたしはきっとこんなにあなたを想えなかっただろうから。

「……わあ、熱烈な告白されちゃった」

 わざとらしく空いた手を頬に当てて、恋する乙女みたいに頬を染めてみせる恋人に、「たまにはいいでしょう」と、今度こそわたしは笑みを浮かべた。

20230415