はあ、と息を吐くとともに白く染まり、瞬く間に消えてしまう空気。手先は悴んで、耳は痛いくらいで、肺の奥までツンと冷たく感じる冬のこの時期が、私は嫌いではなかった。

「――おまたせ」
「ひゃっ、」
 唐突に、低いテノールの声が鼓膜を揺らす。肩を揺らして驚いた私に、彼はくつくつと喉を鳴らした。
「は、遥斗さんっ」
「ごめんごめん。無防備だったから、つい、ね」
 口を尖らせる私に対し「かわいいなぁ」と楽しそうな顔で言うその姿に、いつも舞台や雑誌のなかで見るプリンスの姿はなくて。いま私の隣に居るのは、成人して間もない年上の幼馴染だった。
 「待たせてごめん」と謝る遥斗さんに、大丈夫ですよと笑いかける。いくらデート中とはいえ、マネージャーさんからの電話なんだからちゃんと出たほうがいい。

「今日は電話しないでくれって言ったんだけどな」
「急ぎの話だったんでしょう? 仕方ないですよ」
「久しぶりにデートができるんだから楽しんできて、って言ってたのはあっちなのに?」
「仕事のことですから」
 私の言葉に微笑んだ遥斗さんは、慣れた様子で手を絡めて、行こうかと呟いた。目的地は近くのパーキングに停めてある彼の車である。
「今日はどこへ?」
「どこへでも。きみの望む場所に連れて行くよ」
「じゃあ、運転手さんのオススメでおねがいしまーす」
「お姫様の仰せのままに」
 子供のように繋いだ手をゆらゆら揺らす私に、クスクスと遥斗さんが笑う。
 彼が芸能人ということもあって普段からデートすることはあまり無いが、時々こうして日中ふたりで外出することもある。そういう時は大抵、遥斗さんの運転で都心から離れた場所までドライブをして、賑やかさから少しだけ離れたところで過ごすことが多い。

「運転、上手になりましたね」
「本当? 魚住には危なっかしいってまだ怒られるよ」
「魚住さん、運転めっちゃ上手だからハードルが高いんですよ、たぶん」
 もともと不器用な人だからなのか、遥斗さんの運転は結構スリリングだ。けれど慣れればどうってことはないし、まあ、初めて隣に乗せてもらったときのあの運転と比べれば上手になっているのも本当だった。たぶん、慣れなんだと思う。
 今じゃ隣に乗っても平然とする私に対し、未成年ということもあるのか、遥斗さんの親友である魚住さんはものすごく心配してくれる。ときどき会うことがあるが、会うたびに大丈夫かと気遣ってくれるので、ありがたい限りだ。あの大きな手で、無遠慮にわしわし頭を撫でられるのが割と好きなので。
 そんな私のことを双葉さんは「大物だネ!」と褒め、律さんは「遥斗の隣に居られることを光栄に思わなければいけないよ」と諭した。全くもって律さんの言葉の通りである。
 私はこの立場がどれだけ尊いものなのか、よく知っている。



 ――ひんやりとした空気に包まれながら、足下が凍ってないか気にしつつ彼と並んで歩く。冬の空は澄み渡るような青空で、雲なんて殆ど無い。目に痛いくらいの青色が頭上に広がっていた。

「楽しかった?」
「はい!」
 遥斗さんの問いに、私は大きく頷いた。
 彼に連れられてやって来たのは、都心から離れたところにあるプラネタリウムだった。そこは所謂デートの『穴場スポット』のような場所らしく、時間も良かったのか、見に来る人も多すぎずゆっくりと鑑賞することができた。

「大丈夫? 寒くない?」
「私よりも遥斗さんの方がすっごく寒そう」
 車を降りるとき、すぐ建物に入るというのに「外は冷えるから」と私にマフラーを巻きつけたのは他でもない遥斗さんである。いつかの冬、「似合うと思って」とこのマフラーをプレゼントしてくれたのも彼だ。
 寒くはないか、疲れてはいないか――私には過保護なくらい気にするくせに、肝心の自分はコートくらいしか着ていないのだから困ったものだ。
「遥斗さんこそ寒くないの?」
「うーん、割と。そうでもないよ」
「もー、いつもそればっかり。……私のことを大切にしてくれてるのは嬉しいけど、自分の体を一番大切にしてください」
 彼の冷えた手を自分の両手で包み込むようにして、じっと見つめる。ちょっとだけ眉をひそめて、怒ってますよオーラを滲ませながら。
「大丈夫。わかっているよ」
 そう言って、遥斗さんは微笑む。
 私が心配して何かを言うと、遥斗さんはいつも、ちょっと形容するのが難しい表情を浮かべる。嬉しいような、照れてるような、いろんな気持ちが混ざりあったような顔だ。それはいつも私に「愛しているよ」と甘い言葉を囁きながら抱きしめるときとまた違う、私からこうやったときにしか出さない表情だった。
 魚住さんにも、双葉さんにも、律さんにも、弟である海斗くんにも見せていないであろうこの顔を見ると、私は心がぽかぽかしてきて、なんだかくすぐったい気持ちになる。
「ありがとう。きみがそう言って心配してくれるのがとても嬉しいよ」
「……まさか、私に心配してほしいから防寒あんまりしてないとかじゃないですよね?」
「どっちだと思う?」
 いたずらっ子のような声色で言われると、ものすごく答えに困る。ウンウンと唸る私を見てにこにこしている遥斗さんは小悪魔のようで、こういうときはたぶん、明確な答えは求められてないということを私は知っている。伊達に幼馴染を長年やってるわけではないのだ。
「遥斗さんのいじわる」
 悔しくてぐりぐり頭を押し付けると、頭上から朗らかな笑い声が降ってくる。
 するりと手が離れて、大きな体に包み込まれるように抱きしめられる。コートの前を閉めてないのもあって、遥斗さんの体温をとても近く感じる。この温もりに私はいちばん弱いのだ。
 抱きしめられる度、私が縋るように体をくっつけることに彼は気づいてるだろうか。もし気づいていても、気づかないふりをしてくれるとうれしいのだが。

「そろそろ戻ろうか」
「……はい」
 楽しい時間はあっという間に終わる。シートベルトをつけて、エンジンがかかる音を聞きながら、もう今日のデートが終わってしまうのだと実感する。
 基本、私たちの外でのデートは日中が多く、暗くなる前に帰されることが多い。ごく稀に夜まで居ることもあるけど、それはおうちで過ごす時だけだ。

 ――次に会えるのはいつだろう。
 遥斗さんはいつも忙しくて、本来なら私とデートする時間なんて無いくらいの人気者だ。それでも忙しい合間を縫ってこうやって会ってくれて、会えないときもふとしたときに連絡をくれて。私にはもったいないくらいの素敵な男の人。
 ときどき思う。なんでこの人は、私のことを好きになってくれたんだろうと。自分の弟と歳の変わらないはずの年下の小娘を、なんで、って。困らせたくないから、いつもその疑問が浮かんでも飲み込んで、笑ってみせるのだけど。
 今なら訊けるかもしれない。なんとなく、そう思った。

「ねえ、遥斗さん」
「うん?」
「遥斗さんは、なんで私のこと好きになってくれたんですか?」
 運転中なのをいいことに、ずっと思っていたことを投げかけた。遥斗さんはちらりとこちらを見て、すぐに視線を前に戻す。
 私は横の窓越しに流れていく風景を眺めながら、彼の答えを待った。ドクドクと心臓の音がうるさい。ラジオが流れる音だけが響く車のなか、「そうだな、」と小さく呟く声が聞こえた。
「きみが笑うのも喜ぶのも、理由が全て俺のことだったらいいのにって、そう思ってしまったから」
 思わず、運転する遥斗さんを見る。彼の顔は何かを思い出すかのように目が細まって、口角が少し上がっていた。
「最初は、本当に妹のように思ってたんだ。小さなきみと会う度、俺を見つけては嬉しそうにはにかんだ顔がとても可愛くて、遥斗くん遥斗くんってついて来る姿が健気で」
 一息ついて、懐かしむように言葉が続く。
「中三ぐらいの頃だったかな、きみを異性として意識するようになったのは」
「……初耳なんですけど」
 その頃といえば、私は昔のように遥斗さんに近づくことが無くなり、少し距離を置いていた時期だ。大きくなるにつれて会うことも少なくなって、同年代の海斗くんはともかく、遥斗さんとは時間が合わなくなったこともあって一気に距離ができた気がして、近寄り難くて。
 ちらりとこちらを見た彼の目と視線がぶつかる。
「年上の幼馴染がそんな目で見てるって知ったら、引かれると思って。……でも、きみがそんなに俺のことを気にして愛してくれてるって知ってたら、もっと早くに教えてあげるべきだったかな」
「……ええ、そういうことは、ちゃんと言ってください」
 顔がとても熱い。車内でマフラーも外しているというのに。今の私の顔はさぞ林檎のように真っ赤なことだろう。遥斗さんが運転中で良かったと、今ほど思うことはない。


 ――窓越しの風景が見慣れたものに変わってきた頃、そうだ、と遥斗さんが言った。
「どうせなら、夕飯はうちで食べようか。帰りはちゃんと送るから」
「……遥斗さん、料理できないですよね」
 彼が不器用なのは周知の事実である。
「簡単な手伝いくらいならできるさ」
「それ、私に作ってって言ってます?」
「前からふたりで何かを作ってみたかったんだよね」
「そもそも料理器具あるの?」
「皆がうちに集まることもあるから、最低限は揃ってるよ」
 心なしか声がうきうきしている気がする。車はいつの間にか停まるはずの私の家の前を通り過ぎていた。

「私、鍋くらいしか作れませんよ」
「いいね。寒いから温まりそうだ」
 スーパーに寄って帰ろう、と言う姿は芸能人ではなくやっぱりただの青年のそれで、私にだけ見せてくれるらしいその顔に、愚かな私は卑しくも優越感を抱いては自己嫌悪で頭を抱えて。そんな私のことなんてきっとお見通しで、彼は私をまた抱きしめてくれるのだろう。

 ――ミュージカルの女神様、どうかどうか、舞台上の彼と情熱的に愛し合うのは結構ですので、いま隣にいる幼馴染の彼まで奪わないでください。私の大切な恋人だけは連れて行かないで。
 一生勝てっこない女神さまに祈りながら、私は今日も彼の隣にいる。
 信号が赤になって、名前を呼ばれる。顔を上げると、大きな手が私の頭を引き寄せて、そのまま視界が暗くなる。
 
「愛してるよ」
 唇に触れた熱が、私の心をまた蝕んでいく。
 もうじき、夕暮れがやって来る。


20190915 執筆 → 20230903 再録
2019年に発行されたスタミュ夢アンソロジー「366days」様に提出したものです。
担当したテーマは「月皇遥斗」「冬」の「昼」でした。