『パパ活』というものをご存知だろうか。
 簡単に言うと、年上の男性と食事したりデートしたりしてお小遣いをもらえる行為のことなのだが、援交と違うのは性交渉が無いこと――つまり、セックスせずに年上の異性と出掛けるだけでお金が手にできることだ。
 普通のバイトのようにシフトなどに縛られなくて済む開放感、そして即金で貰えるという最大のメリットの前では、危険な行為というデメリットは薄れてしまう。それ故、学校や親に隠れてそういう行為をする子は結構居る。私の知る限りでも三人は居たので、全体を見ればもっと居てもおかしくはないのだろう。
 あのブランドの服を買った、あの店で食事をした、コスメを買った――きゃあきゃあと話す女の子たちは皆カースト上位に居そうな、垢抜けた子が多かった。
 関わり合いの無い人だし、私にはどうしても理解できないことなので、例えるなら動物園で檻の向こうの動物を見るような気持ちで、私はパパ活をしている彼女たちを遠巻きに眺めていた。
 ――自分がそれに巻き込まれるまでは。


 *


 『あなたの初恋はいつですか?』
 そう問われると、一番目に思い出すのは小学校の頃だ。二つ年上の、学区が同じで家がまあまあ近かったこともあって卒業するまでずっと一緒に登校してくれていたおにいさん。
 好きだった。幼心に好きで好きで仕方ないと、胸を焦がした男のひと。身嗜みに気をつけて、ちょっとお話できるだけで幸せで、笑った顔を見た日には頭がふわふわしてしまう。甘い甘い夢を見ているような気持ち。
 側に居るだけで幸せだった。朝、おはようと挨拶できるだけでその日一日をルンルンな気持ちで過ごすことができる。我ながら、あまりにも幼くて拙くて笑ってしまうけれど、それでもあれは確かに恋だった。
 私は未だ、あの人以上に誰かに恋い焦がれることができないでいる。


「……だからぁ、あたし止めときなよって言ったじゃん? あーしらにできることなんてなーんにもないって」
「いや、そもそも何にもしてないんだけど。私これ完全にもらい事故」
「なまえちゃん不運すぎワロ……って言ってる場合じゃないじゃんね」
「ほんとにな」

 昼下がりのカフェの中、ボックス席に向かい合うように座っている彼女と私は、揃ってスマホの画面を睨んでいた。

「誰だよ、人の写真でパパ活サイトに登録した奴は……」
「メアドとかは流石に違うっぽいケド、名前とか完全にこっち意識してんじゃん、キッモ! ストーカーかよ!」

 事件である。
 画面に映っているのはパパ活専用サイトのアプリのページで、そこにはよく見知った顔――自分の顔があった。目の加工具合からいって、以前友人たちとやったプリクラの比較的ナチュナルなやつで間違いないだろう。誰だ、人のプリを流出させた馬鹿野郎は。
 名前はたぶん私の愛称を捩ってあるのだろう。心底不愉快である。が、しかし、うまいこと作ったものだなぁと思う自分も居る。しかしまあ、この写真で実際会ったら差がすごいのではなかろうか。クラスにはいくらでも垢抜けた子たちが居るのに、何故よりによって私だったのか。……いや、私だったから?

「凡庸な顔だから実際会っても誤魔化せると踏んだわけかぁ」
「はい? なまえちゃんはかぁいいし! マジ許せねーしこのアマっ」
「口が悪い口が悪い。しかしまあ、これは身内の犯行だよね……どっから流出したのか調べないと……」
 頭を抱える私に、彼女がニッと笑った。
「それはあたしに任せるし! こんなプリ持ってるっつーことはウチのガッコのヤツだろうし、知り合いに訊いて特定するから!」
「こ、心強え……ありがとね」
「なまえちゃんはトモダチなんだから当然っしょ! ……大丈夫、あたしが絶対解決する。かぁいい恋バナ教えてくれた女の子の写真で遊ぶような不届き女、月に代わってあたしがお仕置きしてやるし!」
 どこかの美少女戦士のような決めポーズを真似て不敵に笑う彼女が頼もしい。ありがとう、と言った私に、「お互い様だし!」と彼女は満面の笑みを浮かべた。


 すっかり暗くなった道を歩きながら、住宅街を歩いていく。
 夏が終わって涼しくなったとはいえ、この気温の落差はどうにかならないものか。気温差で風邪を引きそうだ。ずり落ちてきた鞄を肩にかけ直し、のろのろと歩く。
 そうしていると、ふと「なまえちゃん?」とどこからか女の人の声が聞こえた。一体誰だろう。私は顔をきょろきょろと動かして――その人と目があった。

「おばさん!」
「ふふ、お久しぶりねぇ」
 手を振りながら、にっこりと女性が――魚住のおばさまが笑う。相変わらず綺麗な人だなぁと思いながら駆け足で近寄ると、「まぁまぁ」と嬉しそうな声で私を見た。
「なまえちゃん、すっかり大きくなっちゃって。元気だった?」
「はい。とっても。今年で高三になりました」
「早いわねぇ、すっかりきれいになっちゃって! あっ、そうだ、朝喜いま帰ってきてるのよ。良かったら会っていって!」
「えぇ?! い、いいですよ、そんな! 第一、小学校の頃一緒に行ってただけの子供なんて朝喜くんももう忘れてるだろうし……!」
「えー? そんなことないわよ、朝喜も喜ぶわ」
「いやいやいやいや、ほんとあの、私もう帰るので……!」

「――おい。何やってんだよ、お袋」

 ギクッ、と。
 例えるならそんな風に体が固まるのが分かった。「あら朝喜、ちょうどいいところに」楽しそうな声でおばさまが声の主に言った。
「なまえちゃんよ、覚えてない? 小学校の頃、あんたあんなに可愛がってたじゃない」
「……なまえ?」
 おそるおそる顔を上げる。
 魚住のおばさまの後ろに立つ男の人――記憶の中の、あの初恋の人がそのまま大きくなった姿に、私は言葉も出なくて。驚いたような顔の彼の視線が私に向けられて、私はどうしていいかわからず、眉を下げることしかできなかった。


「ご、ごめんなさい。お手数おかけして」
「気にすんな。悪いな、うちのお袋が。……久しぶりだな、なまえ」
「はい。あさ、……魚住さんも、すっかり大人になっててびっくりしました。まぁ、私も十八になったので当然なんですけど」
 どうしてこうなったのか。おばさまの「女の子を一人で歩かせるなんて危険よ――そうだ朝喜、あんた送っていってあげなさい!」という一言により、私と彼――朝喜くんは一緒に歩いていた。
 私よりも頭一個分以上大きな背丈に、あの頃よりも彫りが深く、大人の男の人になった顔立ち。黒色のシャツにジーンズというラフな組み合わせなのに、すらっとしてよく似合っている。
 私に歩幅を合わせてくれてるのか、ゆっくり歩いてくれてるところは小さい頃から変わらない。あの頃は気づかなかったけれど、こういった、分かりづらい気遣いを平然とした顔でしてくれる人だった。そんなところが、好きだった。

「なまえ」
「は、はい?」
 唐突に名前を呼ばれて、私はそっと隣に立つ彼を見上げた。
「その呼び方、やめろ。ムズムズして仕方ない。普通に呼べよ、あと敬語も要らねえ」
 何とも言えない微妙な顔だった。どうやらお気に召さなかったらしい。「あ、朝喜くん……?」震える声を隠しながら声をかけると、「それでいい」と、彼は目を細めた。

 朝喜くんとは、長らく会っていなかった。最後に会ったのはたぶん私が中学に入った頃――朝喜くんが中三くらいの頃だったろうか。単純計算で、五年くらい会っていなかったことになる。
 彼は高校に入ってからは寮生活だったし、それを抜いてもミュージカル俳優を目指して頑張っていると、忙しい日々を送っていると風の噂で聞いていたから会えなくても特に思うことはなかった。
 卒業と共に家を出たとも聞いていたし、私も私で受験や高校生活に流されて、彼のことを思い出すのも無くなってきてたからだ。

「なまえももう十八か……早いな」
「ふふ、親戚のおじさんみたいなこと言ってる」
 しみじみと呟く朝喜くんに、思わず笑ってしまう。「何だと?」とちょっとだけ嫌そうな声を出したところは歳相応というか、ただのおにいさんなんだなと安心した。
 今や実際に会うよりもテレビや雑誌で見かけることの方が当たり前になっている彼に、私の記憶の中の思い出は、もしかしたら私が作り上げた幻なんじゃないかと、そう思ったこともあったから。

「朝喜くんはすごいねえ」
「別に、普通だろ。これくらい」
「そんなことないよ。とってもすごいことだよ。朝喜くん、真面目だし努力家だから自分じゃそう思わないだろうけど」
 心の底からの言葉だった。
 たった二つしか違わないのに、立派に大人の一人として社会に出て活躍している姿は眩しくて憧れる。

「あんまり褒めるな」
 ぶっきらぼうな言い方のようで、その声色が照れているものだとわかってしまうのは、惚れた弱味か、都合の良い解釈なのか。
 嬉しかった。幼い頃好きだった人が、今も変わらずに輝き続けてくれてることが。そしてこの私のなかのうつくしい思い出は、きっとこれからもうつくしいままだと思えたことが。

 のんびりと歩いていた筈なのに、気付けばもう自宅の前で。「着いたな」と呟いた彼の声がやけに大きく響いた。
 二歩ほど彼の前に歩いて、そのままくるりと振り返る。暗くて表情は窺えないけれど、そのお陰で私は彼の顔を見つめることができた。

「朝喜くん、送ってくれてありがとう。久しぶりに会えて嬉しかった」
「いや、……俺も、久しぶりに会えて楽しかった。元気でな、なまえ」
「うん。朝喜くんも、元気で。……また会えたら、お話できたらうれしい」
「ああ。わかった、またな」

 なけなしの勇気を振り絞った言葉は、大人の人の優しい声で返されて。たった二つ、けれど大きな二つなのだと理解する。私は精一杯の笑みを作って、「おやすみなさい」と言って玄関のドアに手を掛けようとして――そして。

 ――朝喜くんなら。
 この年齢よりも成熟してそうな彼に相談したら、どう答えてくれるのだろう。そんなちょっとした気持ちだった。
 思ったよりもショックだったのかもしれない。顔も知らない誰かが、私の顔を使って見知らぬ男の人と出会ってるかもしれないと知ってしまったのが。
 そして再会してしまったせいで、うつくしいままのあの頃の熱が、今の私に感染ってしまったかのように、熱くて熱くて仕方無くて。――別れを惜しむ子供のように、けれど子供の言葉にしては、残虐なその言葉を、私は選んでしまった。

 気づくと、私の口は動いていた。
 まるで幼い頃のような、軽やかな声色で。

「ねえ、朝喜くん。パパ活って知ってる?」

20190923