勤め先が襲撃された。
記憶にある限り、極めて普通の日であったと思う。いつもと変わらない穏やかな時間の中――たった数名の襲撃者によって、なまえの職場は破壊されてしまった。
事の詳細はわからないが、どうやら支部の中に内通者がいたという。それに驚く以前に、その可能性を考えなかった自分に驚いた。考えてみれば、いくらでも他所で恨みを買われていてもおかしくはない職場である。職員の四割ほどはプロの殺し屋なので。
日本殺し屋連盟――通称『殺連』。その関東支部で、なまえは働いていた。
「……あー、死ぬかと思った」
充満する血の匂いと、濃密な死の気配。
一緒にいた誰も彼もが動かない肉塊となった部屋の片隅で、ぱちりと目を開く。体は血まみれで、目を瞑って倒れる姿は死体と何ら遜色ない有様だ。化け物みたいに強かった少年は、どうやら無事に別のフロアに移動してくれたようだった。
(仮死薬飲んでおいてよかった〜)
死体の海に横たわりながら、なまえはそんなことを呑気に考えていた。
薬を提供してくれた毒殺科の友人には感謝してもしきれない。できることなら一刻も早く逃げ出したいが、件の少年の攻撃によって、実のところ、なまえも瀕死に近かった。
これからどうしたもんかなあ。
せり上がってきた血をビチャビチャと吐き出しながら、めちゃくちゃになってしまった職場の天井を眺める。
鼻の奥まで血の匂いで満たされていて、ひどく気持ちが悪かった。
「――ししばさん」
再建中の関東支部の中、聞き覚えのある声が届いた。
振り向けば、嬉しそうな表情を浮かべ、近寄ってくる小さな影。ぐるぐると包帯が巻かれた姿が痛々しい人物に、神々廻は目を見開いた。
「……生きとったんか」
「あはは。いやあ、仮死状態になったおかげでなんとか」
「いや、仮死状態て……どないなっとんねんお前」
いつからゾンビになったん、と呆れ混じりの声で問われ、血の気の失せた顔と怪我も相まって、本当にゾンビのようになってしまっている女――なまえは、違いますよぉと間延びした声で弁明した。
「仮死状態っていうのは、毒殺科にいた友人が作ってくれた仮死薬の効果です。いざという時のために常備してたんです。わたしは弱いから」
仮死薬は本当に心臓が止まるので、使用するタイミングを窺うのは至難の業だった。まして相手が規格外の戦力を持つ少年だったので、いつ頭を吹っ飛ばされるか冷や汗ものである。
同僚がミンチにされたとき、運良く一緒に吹き飛ばされたおかげでうまく死体に紛れ込むことができたので、こうして薬を使い、生き延びたのだった。
そんななまえの回答に、「ん?」と、神々廻は首を傾げる。
「自分、毒殺科ちゃうかったん? 毒物にやたら詳しかったやろ」
「もー、違いますよ。毒に詳しいのは毒殺科に友人がいたからです。わたしは諜報科ですよ。……まあ、もう関係ないんですけどね〜」
「は?」
「わたし、退職するので」
怪訝な顔を見せた神々廻に、あっさりとなまえは告げた。
「もともと、一般人に戻りたいな〜とは思ってたんですよ。自分でもなんでJCCを卒業できたのか不思議だったし……卒業してもご覧のとおり、ほぼほぼ普通のOLとしてここで働いてましたし。殺連ってそこそこ給料いいし、福利厚生もいいからって、惰性で働いてましたけど……」
言いながら、なまえは自分の足元を見る。
踏ん張ろうと思わなければ今にも崩れてしまいそうな身体。文字どおり血の気の失せた顔はどう化粧しても誤魔化しきれず、アンダーウェアを着込み、顔色の悪さを誤魔化すためにあるとこないとこ包帯でぐるぐる巻きにすることで誤魔化している有様だ。
体調は絶不調だったが、何かと世話になっていた(なぜ自分のようなへっぽこ殺し屋にそこまで気を使ってくれたのか、なまえはいまだにさっぱりわからない)神々廻にきちんと一言挨拶をしておきたいという、殺し屋には似つかわしくない真っ当な精神から、なまえはズタボロの体を引きずり、独自の情報網を使って、目の前の男を捜して関東支部を徘徊していたのだった。
(最後に話ができてよかった)
そして今、その目的は果たされた。
自分が諜報科で身につけたスキルや技術は今でも現役だとわかって、少しほっとする。――だが、それだけだ。
ここら辺が、いちプレイヤーにもなり損ねた自分の引き際なのだろう。
「わたしの服用した仮死薬、いろいろと強すぎて、一回飲んだらもうだいぶしんどいんですよね。体の内側の……臓器とか、細胞とか、ぜーんぶボロボロになっちゃうらしくて。だから友人も、これはマジでヤバいときにだけ使えって念押ししてきたくらいで……」
あの襲撃の際、訳の分からない強さの少年の攻撃――その余波を受けただけで、身体の骨はいともたやすく砕けた。
内心、ひどく動揺したのを覚えている。
一応、JCCの卒業生として、自衛できる程度の心得はあるつもりだった。
しかし現実とは非情なもので、自分でも驚いてしまうほど、いつの間にかなまえは殺し屋としてのフィジカルを失っていたのだ。
生き残ったのは、単に悪運が強かったからに過ぎない。それは同僚たちの死体に隠れ、劇薬を服用して浅ましく生き延びた時点で、嫌というほど思い知った。
――『普通の生活』に戻ろう。
そう決心するには、あの事件は十分すぎた。
「なんていうか、もう『殺し屋』としてはおしまいだなあ、って、あの子にわからされちゃったので……」
友人から貰った仮死薬は、一言で言うと劇物の類だった。
毒殺科で毒の耐性を得ていた友人ならともかく、諜報科のなまえにとって、毒への耐性は人並み、あるいは皆無と言って差し支えない。今だって、絶対安静を言いつけられるほどには弱っている。
見舞いに来た友人も『二度と健常者と同じ暮らしができるとは思うな』と悲しそうに告げてきたほどなので、その後遺症は察するに余りあるというものだった。
免疫細胞などにも異常が生じているようで、どこに出しても恥ずかしくない健康優良児から、どこに出しても恥ずかしくない虚弱体質へ見事なビフォーアフターだ。
現在、殺連は組織全体が大ダメージを受けている。立て直すには相当な労力が必要とされるだろうし、猫の手だって借りたいくらいだろう。しかし、今のなまえの身体は到底それに耐えられない。無茶をしたら、今度こそあの世行きだ。
慎ましく暮らしてきたので、幸いにも他人よりも貯金はあるし、積み立てや投資もそこそこしてある。
どうせ長生きできないなら余生は一般人として穏やかに暮らしたいなぁ。
そう考えて、退院したついでに退職願を出したのだった。
「あ! すみません、わたしばっか話してますね……ししばさん?」
ぺらぺらと動かしていた口は、意識が現実に戻ると共に閉ざされた。
元気だとアピールしようと思うあまり、目の前の相手を気遣うことも出来ていなかった。青い顔を少しだけ赤く染め、なまえは顔を上げて――息を飲んだ。
「……お前」
神々廻は、なまえを見つめていた。
じいっと熱烈に――ともすれば撃ち殺さんといわんばかりの真っ直ぐな眼差しで、彼の黒々とした眼は、なまえを捉えていた。
ぞわ、と、なまえの背に冷たいものが駆けていく。
「……ええっと」
――それはさながら、狩人に捕捉された獲物のような。
異常な強さの少年に殺されかけたときと似た感覚に、なまえは思わず一歩下がる。本能的に、これはヤバいと頭が警鐘を鳴らしていたからだった。
(神々廻さん、もしかして怒ってる……? でも、なんで?)
なにか不味いこと言ったかなと考えて、心当たりが無くて困惑する。
神々廻とは、たまに会うと世間話をする程度の関係性だったが――それなりに、仲良くさせてもらっていると自認していたし、かわいがられている自覚もあった。
だけど、そもそも事務員である自分と、都市伝説じみた雲の上の存在――ORDERである彼では、平素から住まう世界が違う。
価値観の相違があってもおかしくはないのだろうが――
「おい」
「……あ、はい? なんですか?」
「携帯出し」
手招きのジェスチャーをしながら神々廻が言った。
なんで? という言葉は飲み込んで、なまえはいそいそと自分の携帯を差し出した。
「俺の連絡先入れといたわ。後で電話するから、ちゃんと出ぇや」
「えっ?」
入れられたのは連絡先だったらしい。「なんで?」とこぼしたなまえに、神々廻は口元に弧を描いて、決まっとるやろ、と軽い声で返した。
「なまえのこと口説くため」
「……え?」
「まあお前、確かにそんな実戦強ないしなぁ、後遺症残っとんならなおのこと養生せなあかんのは分かっとるから、別に殺連辞めるのは反対せんよ。だから普通に会うために連絡先入れといたわ」
「いや、あの、普通に会うって、なにを」
「俺はなんでもええよ? お前に会ってお話できるんならそれで」
だけどな? ワントーン低い声で、神々廻は言った。
「もう手に入れられんかもしれんと思った獲物が無事ってわかって、むざむざと逃したるほど俺も甘ないねん」
なまえの髪をひと房掬って耳に掛け、ついでと言わんばかりに、なまえの耳朶を指でなぞる。はくはくと口を震わせることしか出来ないなまえに、にっこりと笑う神々廻。
震える体は具合が悪いからなのか、それとも。
「せっかくそっちから飛び込んできたんやから、逃げられると思うなや」
20220622