噂をすれば影がさす、という諺がある。
 今ほどその諺が似合う状況は無いだろう。なまえは人知れずごくりと唾を飲んだ。

「あ、あの……」

 声が震える。目を右往左往させながら、そっと後ずさる。不安げに胸に手を置き、戸惑いの声を上げる表情は青ざめて、哀れなほどに怯えているのだと見てわかる。

「やだな〜、そんなあからさまに怯えないでよ」

 対する男は、晴れ空のように明るい笑顔を浮かべていた。
 細身ではあるが、名前よりも頭ひとつ分は高い背丈、首筋からちらりちらりと、両手の各指や手の側面に堂々と刻まれている刺青。キャメル色の上着に、下は白のワイシャツ、黒のスラックスという、服装だけで判断するのなら一見勤め人にも見えそうな――しかし、明らかに堅気ではないとわかる風貌だった。
 この男には見覚えがある。以前坂本商店の近くで見かけた、あの男性だった。

(わ、わた、わたしなにかやった!?)

 慌てて記憶をひっくり返すが、全くもって心当たりがない。こんな明らかに物騒な人、一度でも話したら忘れられるわけがないのに。バクバクと嫌な音を立てる心臓に、なまえは今にも倒れそうだった。正直、逃げられるのなら今すぐ逃げ出したい。
 なにより、『心当たりがない』というのがいちばん怖かった。自分の何が相手の琴線に触れたかわからないというのは、恐怖だ。一挙手一投足が、自分の命が目の前の男に握られているような気がして、逃げようにも逃げられない。
 怖い。
 なまえの頭の中を埋め尽くすのはそれだけだった。

「うーん、怖がらせちゃった?」

 ごめんねー、とこれっぽっちも悪びれた様子もなく、いつの間にかすぐそばまで来ていた男が、フリーズするなまえを下から覗き込むように見上げる。
 にっこりと笑みを象る口元、ともすれば女の自分よりも大きいかもしれないくりくりとした瞳。目鼻立ちのくっきりとした、しかし幼く見える、世の女性が放っておかないだろうなと思う可愛い系統の面立ち。
 しかし、その印象は彼の体からちらちら見え隠れする刺青で全て吹っ飛んでしまう。
 普通の人ならまず近寄ることはないだろう。怖いもの見たさというか、世の肉食系女子たちならば垂涎ものということは、恋愛沙汰に疎い自分でもかろうじてわかった。
 未だにバクバクと激しく動く心臓は、一体何に対して此処まで暴れているのだろう。文字通り、目前にいる異性の風貌に対してのものなのか、それ以外なのか。
 一人の年頃の女として意見を述べるのなら、多少ときめいていてもおかしくないとは思う。だが――

(やっぱりこわい……)

 正直、自分がなぜここまで目の前の男に対し恐怖を抱いているのかわからない。
 けれど、怖いものは怖い。初めて坂本商店の近くで見かけたあの瞬間から、自分の頭は彼に対し『恐怖』を感じていた。ぼやけて顔だってよく見えていなかったけれど、その姿を目に入れた瞬間、確かに強い感情を抱いた。
 きっと今の自分はひどい顔をしていることだろう。ただでさえ仕事も修羅場明けで、まだ体調も完全に復活していないし、今日だってほぼすっぴんみたいなものだし。なまえの思考はぐるぐると回り続ける。
 体が動かないぶん、頭だけでも回そうと必死だった。今のなまえは普段よりも数倍過敏で、情緒が不安定だったからだ。
 しかし、何事にも限界というものは存在する。

(――あ、もうだめだ)

 ぷつりと、糸が切れたように。
 先に音を上げたのは、心ではなく体の方だった。

「う、うう」

 ほろりと、目から涙がこぼれ落ちる。
 目を見開いた男に対し、なまえはただ涙をこぼすことしかできなかった。声が喉に張り付いてしまったかのように出ない。泣き声を上げることすらままならず、微かな呼吸音とともに、なまえは涙を流していた。
 私、どうして泣いているのかな。そう考える自分が頭の片隅にいる。
 視界が涙でぼやける。恐怖というよりも、『無』に近い涙だった。感情はそこに伴わず、体がオートでそれを選択したような状態。突然泣き出されて、目の前の男に対し申し訳なく感じるほどに、今の自分は心と体がバラバラだった。


「……ぁ、あの」

 なまえがどうにか声を絞り出したのは、数分が経った頃だった。
 その間、男はじっと食い入るようになまえを見つめていた。観察していた――という方が正しいのかもしれない。
 驚いて声を上げることもなく、下手に慰めるようなこともなく、彼はなまえが泣き止むまで、静かにその姿を見つめ続けていた。

「あ、あなた……だれですか……?」
「僕? 僕は南雲っていうんだ。坂本くんの友達だよ」

 にっこりと笑みを浮かべながら、男――南雲は、そう言って、なまえに話しかける。

「君、なまえちゃんでしょ。坂本くんから前聞いたことあるな〜と思ったんだよね」
「坂本さんから……?」

 なまえは眉をひそめた。個人的に坂本商店はよく利用させてもらっているが、店主の坂本は寡黙な人なので、彼よりは彼の奥さんと話すことのほうが多いというのがなまえの所感だ。
 歳がそれなりに近いこともあって、ちょっとした応援の気持ちで、エナジードリンクを箱買い注文するなど、スーパーよりも坂本商店を利用しているが――

「わ、わたし……坂本さんとはあんまりお話……してたかな……」
「あはは、坂本くんあんまり喋らないもんね〜」

 飄々とした口調で、南雲はなまえを見下ろす。近くで見ると、改めて背が高いとわかる。一八〇以上はあるだろう。たぶん、父親よりも背が高い。

「そ、れで……その、南雲さんが、なんでわたしに……?」
「んー? ふふ、なんでだと思う?」

 質問に質問で返すのはやめてほしい。
 なまえは曖昧に微笑んで、ええっと、と首を傾げる。そもそも、坂本のような人が目の前の男性のような人と友達ということ自体意外だというのに、自分に興味を持った理由などわかるわけがない。

「……ごめんなさい、わからないです」
「そっか〜、残念」

 と言いつつ、その表情も声も楽しげなままだ。なまえは一歩後ずさる。
 泣いたら一周回って正気に戻ったのか、あれほどまでに動かなかった体が動くようになっていた。

(やっぱり定期的に泣ける映画見てデトックスしよ……)

 体があんなに凍りついたのも、彼に対して恐怖を感じたのも、きっと修羅場明けで精神的に疲弊していたのだろう。なまえは前向きにそう結論づけた。
 正直、もう何も考えたくないというのが一番強い。
 早く家に帰って寝たい。寝たらきっと、明日からすっきりした気持ちで過ごせるだろう。今日のこの出来事はきっと悪い夢だ。もうそう考えるしかない。
 なまえはもう一歩後ずさって、薄く微笑を浮かべた。

「ご、ごめんなさい、わたしもう、帰らせてもらっても」
「え〜? まだそんなに時間経ってなくない?」
「ええっと、その、し、仕事が立て込んでおりまして」
「あ、坂本くんに聞いたよ。ライターなんだって?」
「えーと……ま、まあそういう感じで……自営業なので……」
「僕より若いのにすごいね〜、あ、なまえちゃんいくつ?」
「に、二十代前半とだけ……」

 相手が一歩近づくごとに、なまえも一歩後ずさる。南雲は、今まで話したことのないタイプの男性だった。この数分間でわかっただけでも、大分ゴーイングマイウェイというか、我を貫くような雰囲気を感じる。

(あと単純にすごいぐいぐいくる)

 いっぱいいっぱいで突然泣いてしまったのは申し訳ないと思うけれど、それを無言で観察してきた時点で何となく常人と違うのは察することができる。なまえの頭の中は、さっきとは別の意味の「ヤバい」という気持ちで溢れかえっている。
 一刻も早く、目の前の相手から逃げなければ。ただそれだけだった。



 ピンポーン、とインターホンが鳴り、なまえはパソコンの画面から顔を上げた。

「うん?」

 時計を確認すれば、時刻はまだ昼過ぎで、今日は平日だ。普通の会社勤めの人ならまだ仕事の時間だろうし、普段来客する人間は限られている。そして、その相手は大抵連絡を先にくれるので、突然インターホンが鳴ることなどほぼない。
 なまえは立ち上がり、モニターで誰が来たのか確認する。相手は宅配業者の格好をしていて、「あら?」と首を傾げる。

(なにか注文したっけ?)

 そう考えつつ、とりあえずモニター越しに「どちらさまですか?」と尋ねると、「お届け物です」という言葉。

「少々お待ちください〜」

 とりあえず出てみよう。SNSに出していたリストから誰かが贈り物をしてくれたのか、最近よく聞く新手の詐欺なら、そのときは警察に相談すればいい。うん、とひとつ頷いて、なまえは薄手のカーディガンを羽織り、玄関に向かう。なまえの住む平屋建ての家は、空き家だった頃の名残りで今時珍しい横にスライドするタイプの玄関ドアだ。
 鍵を開け、なまえはそっとドアを開く。

「おまたせしてごめんなさい」
「ううん、ぜんぜん大丈夫だよ〜」

 モニター越しに聞いた配達員の声と異なる声に、なまえの体は凍りついた。
 ギギギ、と壊れたおもちゃのようにぎこちなく顔を上げると、そこに居たのは配達員ではなく。

「な、南雲さん……?」
「うん、そうだよ〜。名前覚えてくれてたんだ。嬉しいなあ」
「……は、配達員さんは? お届け物って」
「あ、それ僕の変装。ちょっと得意なんだよね、変装」

 そんでもって、と彼はにっこりと笑う。なまえの背に、冷たいものが走った。

「お届け物は僕で〜す」


20220624