「や、やっとおわったあ……」
チュンチュンと鳥の囀る音を聞きながら、げっそりとした表情でなまえは体を椅子に沈めた。
目の前の画面には『送信が完了しました』という文字が浮かんだページ。今月も入稿が終わった証拠であった。
小さくよろこび混じりのうめき声を上げ、ぐっと両手を天に伸ばして背を反らす。ゴキゴキと凝り固まった体から嫌な音が聞こえてくるが、それを一切合切無視して、なまえは深く息を吐き出した。
「……ねむ」
途端、襲ってきたのはこれまでずっと我慢していた睡魔だった。ぼんやりし始めた頭でカレンダーを見つめ、何日ろくに寝ていなかったのかと考えて、やめる。
「あまりにも不毛だ……」
そんなことよりもさっさと寝たほうが得策だ。
パソコンの電源を落とし、床にずり落ちていたタオルケットを拾い上げた。最近はじめじめとした暑さが続いていて、嫌でも夏が近づいてきていることに気付かされる。
「クーラー、苦手なんだよなあ」と呟きながら仕事部屋を出る。ひんやりした素材のタオルケットは、お値段以上の家具屋で買ってもらったお気に入りである。実家から出るときに持ってきた、数少ない寝具だった。
のろのろとリビングに入り、目当てのモノの前に迷いなく歩み寄る。
なまえは優しくそれを撫でて、ふっと微笑んだ。
「今日もよろしくね……」
リビングの一角に鎮座するそれ――黒色の光沢のある素材でできた、マッサージチェア。
現状、なまえの家において、おそらく白物家電を除いて仕事道具であるパソコンと肩を並べる高級家電である。
なまえは電源を差し込んで、慣れた様子でリモコンを操作する。これを家に迎え入れてから、なまえのクオリティ・オブ・ライフは格段に上がったといっても過言ではない。
(全身揉みほぐしてもらいながら寝落ちするの最高〜!!)
いそいそと膝上にひんやりタオルケットを掛けて、眠りやすい体勢になるようにマッサージチェアの背もたれを動かす。
そして、なまえは数分と経たないうちに眠りの園へと旅立った。
――ガチャ、と鍵が開く音が聞こえる。
しかし、それを気にする人間は現在この家の中には居なかった。
唯一の住人である女が、ぐっすりと夢の世界に旅立っているからである。
必要最低限の密やかな足音で、それはリビングに入ってきた。
「……あーあ、爆睡しちゃって」
マッサージチェアでぐっすり眠る女を覆うような大きな影。影の主である男は、これみよがしに肩を落とし、ムウと唇を尖らせた。
「なまえちゃんがくれたから使ったのになあ」
熟睡する女の頬を突きながら、気持ち大きめの声で言う。よほど熟睡してるのか、くうくうと寝息を立てる女が気づくことはない。「も〜」と、呆れ混じりに――どこか楽しげに呟いた南雲は、ツン、ツン、と柔らかな頬を突く。フニフニしたマシュマロのような感覚は、異性特有のものである。男の自分には無いそれに、つい手が伸びてしまうのだ
「あはは、ふにふに」
「――ン゛」
眉間にシワを寄せて呻いた声に、ピタリと動きを止める。数十秒ほど待つと、またすやすやと寝息が聞こえてきて、南雲はクツクツと喉を鳴らした。
まるで幼い子供のように、くうくう眠る姿はいとけない。
普段は南雲に怯え、ときに半泣きになり、ときにキレてみせ、ときに震えるほど冷淡な対応をする、基本的には表情豊かな女。それがこのマッサージチェアで寝落ちている、南雲の恋人である。
「合鍵渡されたとき、ちょっとびっくりしたんだよね〜」
ぽつりと、南雲は呟いた。なまえを見下ろすその表情は、長い前髪に隠れて見ることは出来ない。
なまえとしては、たびたびピッキングをして侵入してくる南雲への対策のためだったのだろうが(実際、侵入するたび彼女は泣いてキレていた)、南雲からすれば、なかなかどうして肝の据わったことをするな、と考えたものだった。
職業が『殺し屋』の男に合鍵を渡すなんて、よほど不用心か考えなしのどちらかだ。
けれど、なまえはそれでも南雲に合鍵を渡した。緊急事態に備え、信用出来る近所の人に預けているものを除いて、遠方に住む家族にすら渡していない自宅の鍵を、よりにもよって『恋人だから』と渡したのである。
――「それ、あげますから。合鍵、使うかわからないけど……ほんと、あの、入ってくるならそれ使って入ってきてください」
最近よく見かけるちいさくてかわいい見た目のキャラクターのキーホルダーをつけた鍵を、そう言ってなまえは南雲に与えた。
真っ当な人間なら、そもそも渡すどころか侵入されたら通報なりなんなりするだろうに、やけに諦めの早い彼女は『受け入れる』ことで南雲を日常の一部に組み込んでしまった。
それのどれだけ異常なことか、きっとこの女にはわからないのだろう。殺し屋を引退した友人も、一般人だった妻にそういうものを感じたから辞めたのだろうか。そこまでは南雲にはわからない。
けれど、まあ。正直なところ、悪い気はしなかった。
諦念混じりなのだとしても、自分にある種の生殺与奪の権利を明け渡したことに、腹の奥底に奇妙な高揚感を抱いた。
「本当、君ってばかだよね。僕にこんなことしなかったら、今頃普通の暮らしに戻れたかもしれないのに」
決定的だった。これは自分のものなのだと、そう思ってしまうには、充分すぎる出来事だった。
口先だけのままごとじみた関係、からかうだけのつもりが、とんでもない沼に落とされた。
「責任取ってもらわないとね〜」
僕も責任取るつもりになったんだからいいよね、と。
そう呟いて、南雲はそっと自分の影と彼女の影を重ね合わせたのだった。
■
ぱちり、と目を開ける。
マッサージチェアから起き上がると、体はずいぶんと軽くなっていた。
「あー、スッキリ……さすがマッサージチェアさま……マッサージチェアしか勝たん……」
ずり落ちてきたキャミソールの肩紐を直し、軽やかな足取りでチェアから降り立つ。全身もみほぐしなだけあって、張っていたふくらはぎもすっきりし、肩のコリもすっかり良くなっている。
壁に掛けられている時計を見れば、思ったよりも短い睡眠時間だったことになまえは驚いた。
(やっぱり深い眠りだったのがよかったのかな)
熟睡。夢も見ないほどの深い眠り、良質な睡眠というやつである。
うんうんと頷きながら、なまえは寝室に足を向ける。片手に抱えているタオルケットを戻すためだ。
スライド式のドアを開け、今日は使わなかった寝室に入る。
――こんもりと、ベッドの上の布団が膨らんでいた。
「……うん?」
なんで、という言葉は、すぐ隣に掛けられていたコートで霧散する。
なまえのものではない、サイズの合わないキャメル色のコート。これを身につけ、なおかつこの家に入ることが出来る人間は、現状ひとりだけだ。
抜き足差し足忍び足でそうっと近寄ると、膨れ上がった布団の下、目を瞑る男の顏がひょっこりと現れる。
(来てたんだ)
熟睡していて気が付かなかった。スヤスヤと眠る顔は、やはり綺麗な顔をしている。見た目がいい男は寝姿までいいのか、と半ば感心しながら、なまえは布団の上からタオルケットを掛ける。
(まー、無いよりはいいでしょ)
季節の変わり目だ、薄手の布団なので、上からタオルケットでも問題なかろう。そう判断して、なまえはそっと出入り口に向かう。
「……おやすみなさい」
ちいさな声で、眠るその人に一言そう告げて、なまえは寝室を出た。
閉じた扉の向こう、ぱちりと狸寝入りをしていた恋人が目を開いたことなどつゆ知らず。なまえは顔を洗おうと脱衣所に向かったのだった。
20220707