吉報
 その日は初夏にしては涼やかな風が吹いていた。換気のためにと開け放った窓から入り込む風は、少女のやわらかな髪をふわりと揺らす。

「……よし、綺麗になりましたよ」

 岩タイプらしからぬ心地よい毛並みを仕上げにゆるく梳いてやれば、イワンコは大きな欠伸をくありと漏らした。愛らしいその姿に顔を綻ばせながら、少女――リーリエはブラシを仕舞った。
 この研究所での仕事であるポケモンたちのブラッシングを終え、今日の仕事が全て終わった達成感に浸りながら彼女は目を閉じた。穏やかな夜の冷えた風が疲れた体に当たって心地良い。
 月が静かに光り人々を癒す午後九時少し前、ククイポケモン研究所の一日が終わろうとしていた。

 一番道路、ハウオリシティへとつながる道を少し南に下ると、そこにククイの研究所は建っている。ポケモンの技を研究するククイと共に数々の技を受け止めたこの研究所はお世辞にも立派とは言えない。屋根には板が張り付けられ、室内も壁や床の至る所に傷が走っている有様で、冬はからっ風が吹き込んで寒くなるのだろうと想像できるほどに。
 そんな研究所にリーリエがやってきたのは今から二ヶ月前の話だ。エーテル財団からコスモッグを連れ出したは良いものの行き場も無く困っていたリーリエを、特に詮索することなく「泊まるところがないなら来ればいいよ」と迎え入れてくれたのがククイだった。見たこともないポケモンを連れた不審極まりない子どもなのに、何を察したのかは知らないが、あれから今日に至るまで彼は何も聞かずにリーリエとコスモッグをここにおいてくれている。
 そんな彼に、いずれ本当のことを話した方がいいのだろうとは思う。思っているのだ。彼もこの島のキングも信用に値する人間であることはこの二ヶ月間で十分に理解した。簡単に裏切るような、裏切れるような人間ではないだろう。ポケモンへの愛情も深い。彼のポケモンを見る瞳を見れば、誰だってすぐにわかると思う。だって、あんなにいとおしいものを見る目をしているのだ。研究者でありながらポケモンを研究対象の道具としてみないその姿勢はとても好ましい。信頼を置ける人間だ。
 だけど、だけれども。心の奥底の自分が悪魔のようにささやく。

 人は変わってしまうものでしょう?


「リーリエ! ちょっと外に出てみないか、今日は十年に一度といわれる流星群が見られるんだ!」

 ぼんやりと物思いに耽っていると派手な音を立てて研究所のドアが開く。その音に意識は現実へと急激に引き戻された。慌てて何があったかと音のした方――玄関を見やれば、この研究所の主、ククイが満面の笑みで立っていた。

「流星群、ですか? ああでもそれより博士、また白衣が……」
「ん? ああ、近くに野生のラッタがいたからね! ちょっといかりのまえばを体験してきたんだ。まあそれはともかくだ、流星群だよ流星群! 君は見たことあるかい?」
「いえ……。昔に星空を眺めたことはありますが、流星群はまだ……」
「なら絶対に見ておくべきだ! 行こう、もう星は流れ出しているよ!」

 有無を言わさぬ強引さはいつものことである。さあさあと手を引かれ、転びそうになりつつもきちんとサンダルを足に通してリーリエは外のテラスに出た。既に空を見つめているククイが「あそこだよ」と指差した方を見やれば、今まさに星が一つ零れ落ちたところだった。
 藍の空にはたくさんの星がちりばめられていた。もうじき姿を消すだろう春の大三角は南の空の西側にひっそりと姿を現して輝いている。南東の空にはスコルピ座だ。あの胸元で赤く美しく光るアンタレスは短命の星なのだと、母がそう言っていたのをリーリエはふと思い出す。そんな夜空から、短命な星達は真白の尾を引いてまた零れ落ちた。ひとつ、ふたつ、みっつ、ひゅるりひゅるり。ゆっくりと、しかしとめどなく、流星は現れては消えてを繰り返す。

「きれい……」

 二つのイエローグリーンを大きく見開き、リーリエは輝く夜空をその瞳に映し込んだ。初めて見た星降る夜空はどこか自分の連れ出したポケモンに似ていた。夜空の様な色をしたあの子もあの星々の仲間だったりするのだろうか。もしそうだったら。そう思うとコスモッグにこの星空を見せられないのは少し残念だった。たとえ星々と関連がなくとも、外の世界が珍しいのか色々なものに興味を示すコスモッグはこの光景を喜んだことだろう。
 部屋の中、リーリエの寝床であるソファベッドの中央を陣取ってすやすやと眠っていたコスモッグを思い出し、彼女は少し残念そうに笑みを浮かべた。
 

「……さて、そろそろ中に入ろうか。初夏とはいえ夜は冷えるからね」

 気が付けばそれなりに時間が経っていたらしい。はっと夜空から目を離しククイを見やると、「もう十時過ぎちゃったよ」と腕時計をつつき笑っていた。どうやら彼も時間の流れを忘れて星空に見入っていたらしい。研究に余念がないククイのことだから、もしかしたら星々の美しさではなく、ポケモンの技であるりゅうせいぐんやスピードスターのことを考えていたのかもしれないが。

「博士、腕時計持っていたのですね」
「ぼくだって腕時計ぐらい持つよ……いつもはポケモンの技で壊れちゃいけないから外しているだけさ。忘れているわけじゃないよ、ほんとうだよ?」
「ふふ、わかってますよ」
「わかってない顔だなそれは……。まあともかくだ、早く家に入ろう。あったかいミルクでも飲んでゆっくり眠ろうぜ。体も冷え切っているだろう」
「そう……ですね」

 ククイがノブに手を掛けると、耳障りな音を立ててドアが開いた。どこもかしこもぼろぼろのこの家は物を動かすたびに嫌な音が鳴る。
 開いたドアに背を預け、ククイはリーリエが中に入るのを待っていた。ほんの少しだけ躊躇ったそぶりを見せると、ほら、と少しだけ困ったような顔で促される。そんな顔を見せられては居候であるリーリエはもう逆らえない。本当はもう少しだけこの空を眺めていたかったが、これ以上迷惑をかけるわけにもいかないだろう。流星群は残念だけれども、星空自体ならいつでも見られる。明日はコスモッグを連れて眺めよう。そう決めて、リーリエはククイの促すままに家の中へ入ろうと一歩を踏み出した。

 瞬間。

 ぱっと空が、家が、視界が、世界が、白く染まった。

「……えっ?」

 ように、思った。
 しかし顔を上げたその瞬間に広がっていたのはいつもと何ら変わらない景色だった。穏やかな夜風と子守唄のような波音に、辺りを包む優しい夜の帳、宝石のように輝いて零れ落ちる流星と、ぼろぼろのククイ研究所。何も変わったものはない。

「なんだ、今のは……」

 だが、空を見上げはつりと目を瞬かせているククイがいるあたり、一瞬の白は自分だけに起こった現象ではなかったらしい。

「はかせ、……今のは」
「ああ、ぼくも見たよ。見た……と言う言葉が正しいのかは分からないけど」
「真っ白、でした」

 本当に真っ白だった。白以外何もない世界、そう表すのが一番適切だとリーリエは感じた。たった一瞬だったけれども、あの瞬間、地球上、――いや、宇宙から全てが消えていた。宇宙から、というのは不適切かもしれない。その宇宙でさえも消えてしまった、まさに「無」があの白だったのだと、リーリエはそう感じていたからだ。

「なにが……起こったんでしょうか」
「分からない。……ぼくはハラさんに連絡を取るよ。リーリエは先に寝なさい、もう夜も遅いしね」
「はい……。……では博士、おやすみなさい」
「おやすみ。きちんとあったかくして眠るんだよ」

 安心させるように微笑んだククイにぺこりとお辞儀をして、リーリエは研究所の玄関を潜った。外と変わらず、室内も変化したところはない。
 一つだけ、眠りに落ちていたはずのイワンコが目を覚まして室内をうろついていたことだけが違っていた。

「イワンコさん、起きちゃいましたか?」
「……クゥーン」
「……さっきの光、びっくりしましたよね。今日は一緒に寝ましょうか」
「ワン!」

 小さな岩状の突起がついた首元を撫でてやると、不安げに尻尾を丸めていたイワンコは甘えるように鳴いてリーリエに擦り寄った。足元に感じる暖かな体温に強張っていた体が少しだけ解けたのを感じて、リーリエは初めて自分が酷く緊張していたことに気づいた。
 微かに震える手でイワンコを抱き締めると、小さなその生き物の体温がじんわりと体を温める。――生きている。何もなくなっていない。
 ふと温かい湿ったものが頬を撫でた。驚いて顔を上げれば、なんてことはなく。腕の中のイワンコが頬を舐めただけだった。

「……寝よう、寝ましょう。わたしとほしぐもちゃんとあなたと、みんなでいればきっと大丈夫です。それに、」
「さっきの光は吉報かもしれませんし」

 根拠など何もない。だけど、そうであればいい。悪い知らせよりはよっぽどましだ。
 イワンコを抱え上げ、片腕でなんとかロフトへよじ登る。コスモッグは相変わらずリーリエのベッドを我が物にして眠っていた。起こさないように枕の隣へとコスモッグを移動させるとイワンコもコスモッグの反対側に下ろす。少し年季の入ったソファベッドは寝転ぶとうるさく軋んだ音を立てるから、リーリエは既に寝入ったコスモッグと半開きの目のイワンコの眠りを妨げないよう静かにベッドに入った。
 そうして瞳を閉じると、眠りは案外早くにやってきた。うつらうつらとする意識の中、ドアが開く音とククイの慌てたような声が聞こえた気がしたが、それに意識を向けるより早くリーリエの意識は夢の中へと落ちていった。

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