episode 1
いつか罪に呑まれても

れは確か、紅葉シーズンを迎えた行楽日和の日だったように思う。その日スズは午前中は高校の部活でニュースの類は見れなかったのだが、家に帰ってテレビをつけると番組は緊急のニュース特番になっていた。
 ご飯を食べながら内容をぼんやり聞いているとそれは都内に爆弾が仕掛けられたというもので、スズはハッとした。都内ならきっとスズの兄である松田陣平が出動している筈だからだ。スズの兄は優秀な人間で、若くして爆弾処理班のエースとして、兄の親友の萩原研二と活躍していた。
 スズは箸を止めて携帯を見る。小さな画面には特に表示されておらず、スズは不安になる。とりあえず兄に心配のメールを送ると車で移動中だったらしくすぐに帰ってきた。
 内容は、俺の心配するくらいなら萩原にメールや電話をしろ、とか俺の方は何でもなくて本命は萩原の方だ、とか言っても良いのかなと思うところまで書いてあった。
 スズはこの時萩原が好きだった。それでも何故だか兄がスズと萩原をくっつけようとするたびにちくりと胸が痛む。その痛みをスズは大好きな兄と、兄離れをしなくてはならないのが辛いからだと思っていた。
 だけどその日一人暮らしをしていた兄が真っ青になって帰ってきて、出迎えたスズはぎょっとした。兄はスズの肩を掴んで目線を合わせたり外したりを繰り返して何だか気まずそうだ。

「スズ、落ち着いて聞いてくれ」

──萩原が、殉職した。

 殉職の言葉の意味が分からないほどスズは子供ではなかった。しかし、スズは何故かものすごく冷静で、珍しく冷静でない兄を凪いだ心で見ていた。
 堪えきれず涙をこぼす兄の姿は、普段の様子とは似ても似つかない。そんな姿はスズの母性をくすぐった。背の高い兄だが、今は玄関の上がり框のお陰でそんなに変わらない。スズはそっと兄を抱きしめた。兄はスズと萩原の名前を交互に呼びながら、たまに謝罪を交えてスズを強く抱きしめた。

 萩原が死んだ。兄と共に葬式に行って、花に囲まれた写真の中で笑う萩原を見てもスズはこれといって感じなかった。何も、と言えばそれは嘘になる。けれど好きだった人が死んだにしてはドライというか、落ち着いていた。それを兄はまだ受け入れられていないのだと言って、悲愴を増した眼差しでスズを見つめるが、それは居心地が悪いものだった。
 しばらく悩んで、スズは萩原が好きでなかったと結論付けた。きっとあの好きは憧憬の好きであって恋情ではなかったのだ。
 お正月に帰ってきた兄はしょっちゅう携帯を触っていた。携帯依存なところのある兄だが、それは異常だった。昔していたように後ろからのしかかるように抱きついて、スズは兄の手元を盗み見た。

「メール…萩原さんに?」
「…ああ。届くことはないけどな。俺が忘れない限り萩原は死なねェだろ?」

 居心地が悪かった。人の日記を盗み見てしまったような罪悪感がスズを苛む。だが兄は気にした風を見せずにそのままの体勢でメールを打ち付けた。

「お兄ちゃん、写真撮ろ。それで萩原さんに送ろ」
「そりゃあ、あいつも喜ぶな」

 ツーショットを添付したメールは送信された。まあ、すぐに届かなかったとお知らせのメールが来るのだが。兄がそれでいいのならそれで良かった。

「ねえ、膝行ってもいい?」
「別にいいけどなぁ…ま、まだまだ兄離れしねぇ甘えん坊さんだし仕方ないか」

 今度は兄がスズを抱え込むようにして座って、兄は顎をスズの肩に置いた。スズは単語帳を開く。赤シートで隠しながら確認していく。

「お兄ちゃんだって妹離れしてないでしょ」
「バカ言うな」
「そういえば彼氏できたよ」
「は?どこのどいつだ」
「嘘だよ。ほら、妹離れ出来てない。そんなんじゃ婚期逃すよ」

 チッて舌打ちして、スズの後頭部に頭突きをかます。痛い。兄のおでこはどうなってるんだと思いながらも、久しぶりにほのぼのした空気が心地よかった。

「お前進路どうすんだ?」
「今更?本命はA大の心理学だよ。一般受ける」
「心理学かぁ…。犯罪心理学とかとって警察官になれよ」
「やだよ、警察学校入るのだるいし。私は適当にOLさんにでもなって年収のいい男とさっさと結婚する」
「そう簡単にいくと思うなよ」
「お兄ちゃんと違って私には社交性があるから大丈夫」
「お前、可愛げなくなったな」

 イラっときたスズは兄の太ももあたりを強くつまんだ。仕返ししたりされたりでスズは単語どころではなくなった。そのままじゃれ合いながら穏やかな時間を過ごした。

 塾の正月特訓を終えてスズは塾を出た。古い雑居ビルの傾斜が急な階段を、高いヒールでそろそろと降りていく。すると見慣れた車が停まっていて、スズはすぐに助手席に座った。
 まさか兄が迎えに来てくれるとは思わなかった。兄はスズが乗り込んでもシートベルトしないので、俺警察官だぜ、なんて言いながら締めろと視線でも促す。しぶしぶスズがシートベルトを締めるとすぐに車を発車させた。

「こっちはお前のために酒飲んでねェんだからな」
「帰ったら飲めばいいじゃん」
「一人だけ飲んでねェのもヤなんだよ」
「私だって飲めないんだから二人でしょ」
「お前はガキだろ」

 帰ったら兄はすぐに飲みだして、スズはご飯を食べたりお風呂に入ったりして、リビングに戻ってきた時には出来上がっていた。親戚がお酒を色々持ってきてくれたみたいで父と兄は既に出来上がっていた。
 はあ、とため息をついたスズに母が苦笑いしてみせ、正月特番を眺める。母は晩酌の片付けをし始めてキッチンに戻った。父は絡んできて面倒なのであーはいはい、なんて適当にいなす。お兄ちゃんは酔っても割と静かなので二人がけのソファの隣に座った。

「お兄ちゃん酒くさッ」
「んあ?」

 目が座ってる。慣れない酒の匂いにスズは鼻をつまんで臭いアピールをするが、酔っ払いには通用しない。父が加齢臭!?なんてまたうるさい。スズは周りがうるさい所為で聞こえない正月特番を消した。
 いつの間にかうとうとしていたらしく、スズは兄の肩を借りていた。母は丁度起こそうとしたらしくて、スズ達の目の前にいて、あら、起きた?なんて言った。母が父を寝室に連れて行って、リビングにはスズと兄だけになった。
 兄は腕と足を組んで、下を向いて眠っている。酔っているし気道の関係で小さく唸るようないびきをかいている。スズはほっぺたに指先を押し付ける。

「ちょっとお兄ちゃん、そろそろ寝に行こ」

 今度は肩を揺すって起こす。ふらふらした兄を支えて二階に登る。

「ちょっと、ねえ!ちゃんと歩いて、重い!」

 やっとの事で辿り着いた二階。登ってすぐの部屋を開けて、スズは殆ど投げるように兄の身体をベットにおろした。兄は眉目秀麗で外見に欠点がない。身長も高いし警察官だし男らしくしっかりした体つきをしている。それを運んだ疲労もあってスズはベッドに手をついて呼吸を整えたり腰を叩いたりした。
 ベッドについて、兄はすぐに眠ってしまった。放ったせいで兄は布団の上に眠っていた。一応引っ張って抜こうとしたり、起こそうとしたのだが無駄で、仕方なくスズは自分の部屋から自分の布団と毛布を持ってきて一緒に横になった。きょうだいで一緒に眠るなんて久しぶりだ。
 酒臭いが布団などから香るのは間違いなく兄の匂いだ。同じ洗剤やシャンプーなのにこんなにも違う。単に酒とタバコを足し算してもこの匂いにはならないだろう。なんだか落ち着く。なのにどうしてだろうか。心臓が不自然に強く脈打つ。ドキドキして、肋骨を打ち付けて兄まで聞こえてしまいそうだった。
 少し眉間にしわを寄せて、ちょっと口がへの字の寝顔。それがどうしても愛おしかった。スズは手を頬に添えて、顔を近づけていった。合わさった唇。ふわりと胸に広がる暖かく切ない気持ち。

「冗談でしょ…」

 兄に恋をするなんてありえない。なのにどうしてこんなに愛が溢れるのだろう。見つけてしまった思いは津波のように押し寄せて、泉のように湧き出て止まることを知らない。世に言う近親相姦なんて、ありえないと思っていた。嘘だ。まさか自分が…。
 スズは涙を流しながら、もう一度だけ口付けた。どうかこれが夢でありますように。そして眠りについた。

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