episode 4
しあわせの代償は

中の陣平さんはものすごくセクシーで優しかった。スズのことを第一に考えて、壊物のように優しく。陣平さんが果てる前、やっとスズを好きだと快楽に堪えながら耳元で小さく落とした時は天に舞い上がってしまいそうなほど嬉しかった。
 そうしてスズと陣平さんの誰にも言えない関係は始まった。兄弟ゆえに街中で腕を組んでも、頬にキスしたりするくらいなら許された。お兄ちゃんはあまりしてくれなかったけど、構図的にオジサンと若い子だから援助交際なんかに見られたり、同僚に見られたら死ねる、だなんて言って大袈裟だと思った。
 ちなみに結ばれるきっかけになった飲みサー改めてヤリサーは除名になった。あれから飲みにも参加しないので自動的にそうなったが、スズとしても辞めたいですと言う手間が省けてラッキーだった。
 大学は陣平さんのアパートから方が電車の路線的に楽なので半分同棲のような形をとっても不自然じゃなかった。世間に認められはしない関係だけど、二人だけの空間だととても心地よかった。この時のスズとお兄ちゃんの関係は順調で、とても幸せだった。

 けれど幸せというのは長く続かないものだ。お兄ちゃんは萩原さんの事件からずっとあの爆弾犯を追っている。なのに目的の部署に異動させてくれなくて苛立っている。それをなだめて交わった次の日。スズは昨夜の優しさより激しさの勝った行為で、腰に鈍い違和感を抱えながらも部活に行った。
 チューニングをして、指遣いのおさらいで簡単な曲を吹いて、パート練をした。珍しくその後とりあえず合わせようという話になって、なんとなくホールにパートで固まった。椅子を出すのが面倒で、みんな立っている。結果はまあ、初めてだったし散々だったがこれから改善していけば良い。同じパートの子と問題点について話しながらケースに楽器を戻した時、頭がひどく傷んだ。

「鈴音ちゃん!?どうしたの、大丈夫!?ねえ!!」


 スズは激しい頭痛に倒れ、意識を失った。救急搬送された病院で緊急手術が行われ、一命は取り留めた。若いだけあって後遺症も残らなそう、らしい。

「スズ!!」

 お兄ちゃんが病室の扉をやや荒く開けた。それを母が叱るけど、仲の良いきょうだいの証ね、なんて怒った顔は苦笑に変わった。だけどお兄ちゃんの顔は兄としての心配じゃなくて、少なくともそれでスズは嬉しかった。
 陣平さんとの秘密の関係ももう3年。11月からお兄ちゃんは捜査一課に配属されて、よくドラマに出てくる部署で、ドラマによくある教育係の女の人に惹かれてるようだった。強くて聡明で社交的。それでいて面倒見が良くて責任感にも溢れてる。ついでに言うと美人さん。スズは嫉妬しないわけではないが、三十路になったお兄ちゃんにそろそろ結婚して幸せな家庭を築くべきだと冷静になってきていた部分があったので、彼女の存在には嫉妬しなかった。嫉妬すると言えば彼女が妙齢の女性で、陣平さんときょうだいでないことくらい。そんなの変えられっこないからどうにもならない。
 今はまだ陣平さんはスズを愛している。まだ一番でいる。でも、ダメだよね。

「陣平さん、終わりにしよっか」
「きょうだいでいるのが辛いか?」
「お兄ちゃん、もう良い歳なんだから結婚とかさ、考えなよ。私といても結婚も、家庭を築くこともできない。そろそろじゃないかな?」
「俺はスズがそうしたいならそれに従う。ただな、俺はスズを愛してる」
「うん、ありがとう」

 普段ならここでスズも愛してるとか好きとかを返していた。3年も経ったのだ。3年前より大人になれたことを実感した。

「でも入院中は一人で寂しいからまだ一緒にいてね」
「ったりめーだろ?俺はスズを一人にしねぇよ。わがままな妹君がいつまで経っても兄離れしねぇからな」
「そういうお兄ちゃんもそろそろ妹離れしなね」

 いつだかもした会話。だけどスズの心は凪いでいた。ふと見たカレンダー。1週間もしないで萩原さんの命日だ。残念ながらスズは1週間は入院することになっているので今年は墓参りに行けそうにない。お兄ちゃんにスズの分も頼んだ。
 次の日、目を覚ましたスズはどうも嫌な予感がした。そわそわと落ち着かない。ふと見た窓の外にある落葉樹の最後の葉が散った瞬間を見た。なんだか嫌な気持ちになる。母が買ってくれたテレビカードでテレビをつける。けれどそれでも気は紛れなくてスズは点滴がかけてあるポールを引いてベッドを抜け出した。気分転換に飲み物でも買いに行こうと思って立ち上がった瞬間だった。
 倒れたあのときと同じ、意識を保ってられないほどの頭痛がスズを襲った。ベッドに逆戻りした時に蹴ってしまった点滴の支柱がカチャンと音を立てる。うめき声を上げ始めたスズに、カーテンで仕切られた隣の患者さんが慌ててナースコールを押す。
 看護師さんが来て暫くして、意識を失う。見舞いに来たところだった両親が慌てて駆け込む。医師が処置を施している間にもスズの容体は悪化していき、ついにスズの心臓は鼓動を刻むことをやめた。
 よく医療ドラマである。スズは酸素マスクをつけられ医師に心臓マッサージを受けている。看護師が除細動器を運んできて、クリームを塗ってチャージ、離れて、ドンっ!そんなやり取り。泣きながら祈る母とそんな母を支えながら同じく祈る父。

 スズはあの世とこの世を彷徨っている最中、やけに冷静な頭で考えていた。考えているのはやはり兄の陣平のことで、スズは本当に大好きなんだなと自嘲の笑みを浮かべた。
 まだ胸でくすぶっているものがある。お兄ちゃんへの捨てきれない恋心。一度関係を持てた、満足だ。でも欲というのは満たされた端から新しい欲が生まれる。だけどこれは叶うことなんてないから、仕方ないんだ。ずっと一緒に居たいだなんて。
 だけどそれは叶わない。
 お兄ちゃんは同じ部署のあの女性でも、他の人だって良い。良い人なら誰でも良いから一緒になって、子供を作って新しい家庭を築く。叔母さんになったスズがその赤ちゃんを抱いて、いつかお母さんになりたいと夢を描く。
 そんな未来も素敵だとスズは思えるようになってきた。それが二人にとって最善の選択のように思える。
 しばしば兄が言っていたことだ。

「オンナってのは自分の中で答えが出てるのに他人に答を求める。他人に何を言われたって、結局は自分の答を信用する」

 的を射ていると思った。服を選んでいる時に知り合いにどっちが良いか聞いて、選んでもらったほうがしっくりこない、なんて経験は誰しもあると思う。スズは自分で想像した。

 ──お兄ちゃんとこのまま関係を続けるか否か

 落ち着いた心で考えれば答えは一目瞭然だった。昨日下した決断は一応考えてはいたが、それなりに感情的になっていた。だからあそこでもしもお兄ちゃんが繋ぎとめようと言葉を紡いでいたら…スズは意地になって強くお兄ちゃんに当たっていただろう。

 そこでスズはふと思い至る。自分は入院している身ではなかったかと。左手にあった点滴も、暫くお風呂に入っていないせいでギトギトの髪も、鬱陶しかったそれが全くなかった。目を閉じて思い返せばあの頭痛がまた襲ってきて意識を失ったことを思いだす。となると…。

「ここはあの世ってわけか」

 萩原さんと同じ日に死ぬとは仲良しさんか、なんてジョークを言ってみても返事は返ってこない。当たり前といえば当たり前なのだが、いささかスズには実感というものがなかった。

「お別れ言わなくちゃ」

 少なくとも両親はスズの死に目に立ち会えている。しかしお兄ちゃんは別だ。今日は普通にお仕事だし、そのあと墓参りも頼んである。お兄ちゃんが届かないメールを送り続けるほど思っている人の命日。お兄ちゃんの胸にはそういうしこりがある。これ以上増やしてはダメだ、そう思った。

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